mottoわたしのにいさん
◼️三部の家出の話
Hug me, hug me tight
泣いている一織のからだが、しっとりと、初夏の夕べに汗ばんで、ふるえていた。
せつなげに、黒い瞳が海を見た。オレの夢を宿したドームを見つめて、オレたちの夢を一人で台無しにしたと泣いた。弱々しく、薄い背中で駆け出して。
オレを映そうとせず、目をそらして潤む、その目が、オレの腕の中で、笑みの形に緩んでいく。
愛おしくて、胸が熱い。
気恥ずかしそうに、一織が胸を膨らませて、笑う。
オレを映せばいいのに。
まるく潤んだ、一織の、きらきらした瞳が。
欲しくなった。
にいさん、にいさんと、無邪気にオレを慕う瞳が。
オレのために濡れたらいいのに。
*
あの時はごめんな。ずっと告げられなかった言葉が喉を滑り出て、心臓が、ぎゅっと肺をおしつぶす。
オレをただ応援してくれていた、オレの力になりたいと願っていた、オレを何とかして励まそうと、オレをわかろうとしてくれていた小さな手を、跳ね除けたこと。たったいま殴りつけた人が、きっといま、同じ気持ちで、苦しんでいる。なんで、こんなふうになってしまうんだろう。
しゃくりあげて泣くオレに、一織の目が、きらり、と潤んだ。
オレを傷つけたことを、ずっと一織は、許して欲しがっていた。ハロウィンの小さなすれ違いだとか、いつかつっぱねてしまったたいせつな思いやりとか。そんなことを、ずっと、心に刺さる棘として抱えて。オレの、大事な、たった一人の弟は。
あ。
白く街灯に照らされて、瞳から、とろりと光が落ちていく。頰を滑る雫を、一織の細い指が拭った。
オレのせいで泣いている、オレと同じ血が流れている体。何を考えているのかわからないと思うときだってある、オレの後ばかりついて回って笑顔を向けていた、世界を広げることに興味がないようにも見えた、幼かった弟。その弟は、こんなに大きくなって、未来を見据えて伸びやかに歌うことを覚えた。オレより、ずっとうまく、なんだってできる弟。
ぼんやりと、手の中にあると思っていたものがまやかしだったと知ったような、奇妙な喪失感が、涙の熱のなか、胃を浮つかせる。ひくっ。またひとつ、しゃくりあげた。
オレの、じゃ、ないんだな……。
その涙を拭いたいと思った、オレのせいで泣いている弟の涙を。でも、たった今ひとを、大切なメンバーを殴って、一織まで泣かせているオレの指なんかで、このきれいなかたまりに触れてはいけない、と、手を伸ばせない。
一織。ごめんな。
唇をかんだとき、街灯のぼんやりと無機質な灯りを裂くように、クラクションの音が響いた。
プップー。
ずっとテレビの向こうだった、憧れた先輩の、今はもう見慣れた八重歯がひかる。
「おいで」
オレが掴めなかった手が、乱雑に頬の涙を拭って、その人の誘いに乗るのを。
オレは、拳をにぎって見ているしか、できなかった。
*
「じゃ、オレまた仕事行ってくるから! 三月と一織はここにいて」
手早く、家電の使い方や、布団の場所を伝えて、百さんが慌ただしくスニーカーに足を突っ込む。鮮やかに目を奪う、いきいきと大きなスポーツシューズ。私や兄さんは選ばないような、奇抜な色を、この人は難なく飼い慣らし、自分の色にしてしまう。
「あ……行くんですね。こんな時間に仕事、ですか」
「そ。マスコミ関係の人達と飲み会! 高校生のアイドルが、こんな時間に出歩いてたことは黙っててあげる」
「……はい」
脅迫のような言葉さえも優しい。兄さんは、いつも、この人のこういうところを、弟がするように慕っているのだろうか。
「いい子。それにしても、高校生の弟に悪い遊び教えちゃうなんて、三月はいいお兄ちゃんだな〜?」
「やめてください、そんなんじゃ……」
兄さんの否定に、わかってる、とでも言うような笑顔を返して、百さんは兄さんの肩を抱き寄せた。抱き寄せるというより、肘の内側で首を絞めるような、強引な抱き方。兄さんが姿勢を崩し、百さんの胸に顔をぶつけた。
「けど、オレには三月は、大事な弟分だから。お兄ちゃんに甘えていいんだよ」
「私の兄さんです!」
「あはは、三兄弟になる? オレ、まとめて養っちゃうよ!」
「いいですから! その、気をつけて。夜も遅いですし……」
「アブナイおじさんたちに悪いこといっぱい教えられちゃうから、まあ気をつけなきゃだよね。大丈夫、オレこういうの超得意だから! あと、そのまま仕事行くから、カードキーは三月が持っといて! 朝またラビチャするね!」
じゃあいってきまーす! 深夜の二時を回ろうかという時間だなんて思えないほど陽気に、百さんが飛び出していく。回そうと手をかけたドアの鍵に、百さんの熱が残っていた。
決して綺麗だとは言えない部屋。乱雑に物が散らばったごちゃごちゃの場所は、封を解いて写真を撮ってそのままなのだろう衣服や、明らかに上等そうなギミックのついた釣り竿など、誰かの思いに満ちていた。私でも兄さんでも、七瀬さんでも二階堂さんでもない、別のいきものの巣。
初めて過ごす他人の部屋は、妙に肌に馴染んだ。百さんという人の人柄なのだろう。抱え込むようにして頭を撫でられていた兄さんも、私には見慣れない姿だったのに、すごく馴染んで、張り詰めていた空気を和らげたように見えた。家の鍵なんて大切なものを、後輩とは言え他人にぽんと預けてしまうようなこと、さっき兄さんに殴られて拗ねていたあの人には、できっこないだろう。こういうところだ、と、つい責めるような気持ちで、さっきの出来事を思い返す。
沈黙が痛い。なんと声をかけることもできず、くちびるをつぐむ。伸ばした手を取ってもらえないやるせなさも、想いが伝わらないもどかしさも、それを押し付けて傷つけてしまった取り返しのつかない悲しみも、私はよく知っている。
黙りこくって立ち尽くしていると、背後で、兄さんがつぶやいた。
「布団……」
兄さんが、ずび、と鼻を鳴らして立ち上がる。すこし目尻の赤い、何度も見てきた、泣き腫らした顔。
はい、と頷いて──。
「……この、どこに、敷いたらいいんでしょう……」
布団がある、と言われた部屋の、足の踏み場もない惨状に、唖然と口を広げた。
ふは、と兄さんが笑った。私に背中を向けていた兄さんが、いつもの、やさしく問いかける瞳で、こちらを振り返る。
「よっしゃ! 一織、こんな時間に付き合わせて悪いけど、百さんの迷惑にならない程度に片付けるぞ!」
にかっ、と白い歯をかがやかせ、赤い鼻の兄さんが笑う。
「はい。まったく、いつ寝られるんでしょうね」
「うーん、これは三時過ぎるなー。環の部屋も相当だけど、これ、高そうなものばっかな分、手つけづらくて困るやつだよな」
「はい」
「うわっ、この紙袋に突っ込んである花、すげえ枯れてる」
「新聞紙に包まれた花瓶が一緒に入っているので、飾ろうとした片鱗は見えますね……」
微笑みながら、兄さんの言葉に相槌を返す。
ああ、いつもの兄さんだ。
ありがとうございます、百さん。
*
「一織」
一組きりの客用布団。そりゃそうだ、こんなにごちゃごちゃした家に客用布団がある方が奇跡だ、千さんでも泊まりにくるんだろうか。ともかくその奇跡の布団に、オレと一織は寝なくちゃならないわけで。
流石に家主の不在中にシャワーを借りるのは気が引けて、泣いた後の汗ばんだ体のまま、布団におさまっていた。一織と二人。一つの布団に。
「……寝た?」
小さく囁きかけると、ずり、と衣ずれの音がした。
「起きています」
「そっか。……一織は、明日、帰ってもいいんだぞ。オレと大和さんの問題なんだから」
「いえ。兄さんが帰らないのなら、私も居ます。百さんには、悪いですが……」
「陸たちと離れて、寂しくないか?」
「誰に訊いているんですか。寂しいわけがないでしょう」
「ええー? オレが学校行くってだけで寂しがって、学校ないないしてって大泣きして、手ぇつけらんなかったのに」
「昔の話でしょう⁉︎」
「ごめんごめん」
笑って体を返すと、一織がムッとしたように唇を尖らせていた。普段は冷静なくせに、ちょっとむきになりやすくて、気持ちが顔に出てしまう、素直な弟。陸とか、好きなやつにも、こういうところ見せてやればいいのに。
いじらしくなって抱きつくと、一織が、わぷ、と小さく声を上げた。子供の頃何度も抱きしめて眠った、同じ寝姿の写真が実家に何枚もあるほど、弟はオレの近くで育ってきた。そんな弟の、しらない、大きな体。
一織の体も湿っていた。
あの夜と同じ、汗ばんだ体。
「……泣かせて、ごめんな」
もう一度告げると、胸に押しつけた一織の唇が、たぶん、いいえ、と動いた。
忙しくて不在がちな両親の代わりに、ベビーベッドのなかでずっとオレが守ってやっていた、丸い頭。といっても一織はおっとりした赤ちゃんだったから寝返りもあんまり打たなかったけど。信じられないほどかわいくて、あどけなくオレを慕う、オレしか守ってやれるやつのいない、ちいさないのち。その頭を確かめるように撫でると、一織が肩を強張らせた。
抱いた胸に、熱い何かを感じて、布団の中で体を離す。一織の顔を覗き込むと、一織の頬は、また濡れていた。
カーテンの隙間から漏れる、かすかな街の明かりを吸い込んで、潤んできらめく、一織の黒い瞳。
吸い込まれるように。
唇を、合わせていた。
かすかに開いた視界に、一織の、驚いたように見開いた瞳が映る。
濡れたまつ毛が、頰を掠めた。一織が瞼を下ろしたのがわかった。
唇をただ合わせるだけの、沈黙の中で。やがて、泣いた後の熱い眠気が、どろりと体を絡め取る。眠りに体を明け渡す前、なんで、キスなんかしたんだろう、と、動かない頭が疑問符を浮かべた。
一織のこわばった肩が、手のひらの中でやわらいで。
ああ。
オレ、一織を。
★続きは冊子でお楽しみください。