目覚めないで、そばにいて
一度だけでいいから。
何度も頭の中で繰り返した脚本通りの言葉は、口にしてみれば、思っていたより軽く響いた。ふたりで腰を据えたベッドが、ぎしりとわかりやすく軋む。
三月の目がこぼれんばかりに大きく開いて、大和を捉える。出会った頃の大和の歳を超えても、三月の目は変わらず、明るく、大きい。
「今、なんて言った?」
三月の反応まで予想と変わらなくて、大和は自分の頬が緩むのを自覚する。
頬をゆるめるポーズさえ、息をするより無意識にできるようになった。
ちょっと息をついて、吸う、その音を相手に聞かせるかどうかさえ、今は思い通りにできる。
「一度だけでいいから抱いてって言った」
眼鏡を押し上げる指に、緊張の震えはない。ずっと待ちわびていて、ずっと恐れていたこの瞬間、大和は自分の才能に感謝した。
「全部俺がやるから、ミツは寝てていいよ」
言いながら、大和は唇の端を少しあげて、眦を下げる。今自分は笑えている、そのことに安堵しながら、隣に座る三月の肩に片手を回す。
この意味さえわからないほど、三月の勘は鈍くない。三月の揺れる瞳が、大和の目を真っ直ぐに見返した。
「それって、オレのこと好きってこと?」
「……それ、確かめたら、困るのミツじゃない?」
大和は知っていた。三月がどれほど自分の職業に責任感と誇りを抱いているか。その誇りを貶めるような行為に三月を引きずり込むことの罪も。
「そういうの、今は一旦置いとかせてよ。それとも、ミツはお兄さんに、グループ辞めて欲しいの?」
ずるい言い方ばかりを選んで告げれば、三月はその線を超えてこないことも。
三月の唇が動くのを、大和は空気でさとった。そのくらい静かな部屋だった。
「わかった。抱くよ。ちゃんと、あんたを抱く」
「ごめんな」
謝罪に応じる声はない。三月の手は、やや硬いマットレスの上にあっけなくゆだねられた。
大和の片手が腰へ滑り降り、前へ回り込んで、ベルトのバックルに触れても、三月はもう身じろぎしなかった。ベッドのきしみさえ響かない無音の部屋に、衣類をまさぐるかちゃかちゃという音が、やけに大きく聞こえた。
自分のものを外すのと同じ手順で、三月のベルトを外し、前をくつろげる。三月のものに反応はない。
大和は、腰に抱きつくようにして、三月のズボンを下着ごと下ろしにかかる。
「脚、ちょっと開ける?」
三月は無言のままで言われた通り脚を開き、少し腰を浮かせて、自らズボンを下ろした。下着から姿を現した三月の陰茎は萎び、濃い肌色のままで、なんの熱も帯びずに三月の陰嚢に寄り添っていた。三月がパーカーもばさりと脱ぎ捨て、これでいいのか、とばかりに大和のほうを見つめる。
一糸まとわぬ、はだかの三月の瞳は、蛍光灯の光に明るく濡れる。大和は三月の太ももに、極めて自然な仕草で触れた。
「ありがと」
言いながら、ベッドを降りて、床に膝をついた。三月の脚の間に、正面から顔をちかづけていく。
手の下の三月の内ももに力が入るのが分かって、大和はちらりと三月を見上げた。三月は、ほかに目のやり場もないのだろう、大和をまっすぐに見返す。その瞳に珍しく、踏み込むことをためらうような動揺がちらついて、大和は目を細めた。
「……目、閉じてた方がいいんじゃねえの」
男が自分のもん舐めてるの見ても、気持ちよくはなれないでしょ。
大和の意図を知ってか知らずか、三月はやはり言われるがまま、目を閉じた。
「素直なの、いいと思うぜ」
大和も目を閉じて、三月のものに唇を押し当てる。
「おい、ゴム……」
「どうせミツ、童貞じゃん。俺も病気なんか持ってないよ」
始まる。大和はようやく、やりたかったことを成せる。願いが叶う直前の歓喜は、けれどたんなる震えを大和の唇に落としただけだった。歓喜より、壊してしまう恐れの方が、ずっと大きかった。下唇を軽く噛んで濡らす。初めてここに触れる三月が、もう二度とここには触れることのない三月が、少しでも快感を覚えられるように。
うまいこと勃起してくれないと、セックスもできないしな。
口の中に唾液をためて、三月のものをあたたかい口内に迎えた。唇の間から大和の唾液が三月の陰茎を濡らしていくのに、三月は後ろ手にシーツを握りしめ、抵抗する素振りは見せない。
まだやわらかな三月のものの先のくびれを舌の腹で包んで、口内の唾液を塗り込めていく。ぬるつく舌で強く圧された三月のものが、ぐっと質量を持ち始めた。その大きさに押し返されるように、一瞬、大和は唇を離す。
硬く反り始めたものに、大和が安堵の息をこぼすと、その吐息を受けてまた三月の陰茎が熱くなった。大和はいっそう丹念に、三月のものをくわえる。咥えながら片手で陰嚢をゆるく撫でていると、シワが寄ったり伸びたり三月の陰嚢が収縮して、日ごろ意識しない陰嚢の動きに、思わず大和は息を呑んだ。目の前にあるこれは、自分のものではない、ほかならぬ三月のものなのだ。自然と、口の中にまた唾がたまる。溜まった唾をたっぷり舌の上に載せ、れるれると舌先で亀頭のくぼみを擦ると、陰嚢にまで大和の唾液が垂れてきた。それを片手ですくって、三月の根元を指ではさみこむ。
舌の腹で裏筋を擦り上げ、そのまま舌の奥へ亀頭を咥え込み、顎が外れそうなくらいに口を開くと、喉のあたりが異物を飲み込もうと蠕動した。明らかに自分の唾液のためではない苦味をそこに覚えて、大和は圧迫する舌の力をつよめた。
こらえかねたような少し荒い息が、頭上から聞こえる。三月の手はシーツを握りしめ、快感に耐えているように見える。大和は空いていた手を思わずそちらに伸ばしかけ、手前のシーツの上に置いた。
「……っ、は、ちゃんと、気持ちいいんだな。勃ってきた」
あんなに見たいと願って、ことあるごとに妄想の中で自分に向けさせてきた三月の表情を、どうしてか、見ることができない。見たくない、というより、見られたくなかったのかもしれない。
こんなのは、俗悪で、あさましい、倦んだ思いの成れの果て。ここから滲み出るみにくい汚濁を、こんなにも輝かしい者に見せるほどの咎を、自分が受け取っていいとは思えなかった。
この手に触れてはいけない。俺の手を出していい範囲は、ここまで。
唇をすぼめて吸い付き、今度は浅いところを強く吸い上げる。三月の喉の奥から、くぐもった呻きのような音が漏れた。
浅ましくても、醜くても、何かを望んでそれを叶えるために必死になることは、気持ちのいいことだ。大和はもう、そう覚えてしまった。三月が、大和にそう知るよう望んだ。だから好きになったのに。
「……っ、」
三月の唇の間から、堪えかねたらしい熱っぽい吐息がこぼれる。その音が、胸の奥まで滲み入るように、大和は感じた。
手軽な罪悪感に身を浸しながら、快楽の痺れを受け取ることは容易にできた。好きな相手をこんなことに付き合わせることは苦しい、それでも、好きな相手に気持ちよくなってもらえることは嬉しい。
三月の陰茎が、三月の腹につくほどきつく反り返ったのがうれしくなって、大和はシーツに置いていた手を、自分の後ろに回した。ローションを仕込んであるそこに、自分の指を押し込むと、大和の中がきゅうと締まる。三月と繋げない手で、三月とつながる準備をする。大和は三月の竿にしきりに吸い付いては舌でつつき、甘えて焦らすように、三月のものと触れ合った。大きく開いた口に、太いものを迎え、ずるずると前後して濡らしていく。このまま飲み込みたい。喉を開いて、奥に、全て。
早く、早くこれが欲しい。
待ちわびたこれを、いますぐにでも、ここに──。
求めるような気持ちで三月の股間に夢中で埋めていた頭に、ふと、何か温かなものが押し当てられた。
三月の手だ。
「大和さん、嫌だ」
プレゼントの玩具の絶縁体を引き抜くときのときめきに、ピシャリと、三月の拒絶が浴びせられる。
うつむき、わななく唇を、長い横髪に隠した。
「オレこういうの嫌なんだ。……抱くなら、ちゃんと抱く。そういう話だっただろ」
「こういうの、って?」
「あんた任せみたいなの。これじゃ、セッ……クス、じゃ、ないじゃんか」
照れたように言葉を一旦区切りながらも、三月の目は真剣に、手の中の大和を見下ろしていた。大和にはもう、声だけでそうとわかる。
「あんたがして欲しいように抱いてやる」
三月の手が、大和の髪を撫で下ろし、離れ、そっと大和の手に重なる。その温かさに驚いて、指先がぴくりと震えた。
肉体と肉体でいま触れ合っている。大和の願った一切が、こうして成就する。
渇望が満たされて、とどめきれていなかったぶんのよろこびが、涙になって溢れ出ようとした。大和は眉の力を抜いた。
涙を押しとどめる仕草が、苦痛に見えてしまわないように、三月に少しでも、嬉しそうだと思われるように。誰かの喜ぶところを見るのが誰より好きな三月に、自分のせいで大和が苦しいなんて思わせないために。
「……挿れて。もう挿入るから」
「……わかった」
大和の唾液に濡れた性器が、大和の前から離れていく。代わりに三月の腕が、大和の腕を引き、ベッドに寝そべらせた。
緊張したようにつぐんだ、愛らしい小さな唇。真剣に、大和の広げた両脚を撫でる、厚い手のひら。
三月が身を乗り出した。その片手で、自分のものを、大和の足の間に導きながら。
憎らしいくらいけなげに吸い付いて、大和のアナルは三月の陰茎を咥えた。ずぐずぐと押し進んでくるものを、押し返そうと動く腸壁を、大和は必死に力を込めて押し留める。
三月のものが全て入るころ。三月は、大和の両手に、指をからめた。
「ちゃんと気持ちいい?」
大きく、大和のすべてを見透かすような目が、大和の潤んだ瞳を捉えた。少しだけ心配そうに、目じりにきつく力を込めて。
痛いよ。苦しい。
同情でこんなふうに、好きな女にするように、優しく抱かれて。
気持ちいいわけなんてないけど。
「うん」
ちゃんと、ほんとうのことに聞こえるように、大和はそっけなく答えた。三月の眦がほっと緩む。
よかった、と応じる代わりなのか、三月の手が、大和の額を撫でた。
震えもしない手。温かでしっとりと張った肌で、何度こいつは自分の涙を拭ってきたのだろう。
やめときゃよかった。
こんなに真摯で、あたたかい、一瞬の触れ合いを、信じないようにするなんてこと。
大和のそんな苦しみを、三月はきっと望まない。
そういう三月だから好きになったのに。
ごめん。
ごめん、ごめん、ごめん。
好きになってごめん。好きなやつ、こんな汚い気持ちに付き合わせて、ごめん。
それでも好きでごめん。
お前さんの掌の温度を、忘れたくなくて、ごめん。
ぼろりと、大和の耳に何かが落ちた。じわりと耳朶に染み入ってくる居心地の悪いものが涙だと気づいた時、大和は、薄く瞳に張った膜の向こうで、三月の口が開くのを見た。
「えっ」
三月の、おもわぬ落とし穴に足を取られたようなとまどう声が、涙の膜にふれ、揺らす。
三月の手が大和の手を取り、三月の肩に載せさせる。三月が大和の体を揺すぶる。
耳に零れた水のせいか、滲む視界のせいか。夢みたいだな、と大和は思った。夢なんか見るたちでもないのに。
夢のゆりかごに抱かれて、大和の目から、あとからあとから涙がこぼれる。
目を閉じて涙が溢れるに任せる大和の背を、三月の掌がぽんぽんとさする。あやすみたいな、慈しむような触れ方のせいで、大和の涙は余計に止まらなくなった。
心も体も裂けそうに痛いのに、あたたかいなんて、とんでもない罰だ。
耳の後ろに受ける三月の息の温かさ。背中をさする手の力。こわごわと、でも強く打ち付けてくる、腰の速度。
何もかも夢のように、朝には失ってしまうのに、忘れられないなんて。
三月の体が、大和の体から少し離れて、両手が大和の腰骨をつかんだ。ず、と引き抜こうとしては押し込んでくる、ながいストロークを、自ら腰を進めて受け止めながら、大和は三月の顔を見た。
寄せた眉は少し苦しげに、頰は上気して、引きむすんだ唇に垂れてくる汗をときおり舌が舐め取るしぐさ。
ばらつく前髪の向こうで、三月もまた大和を見返した。
その目に、少しでも、きれいなものだけ映るように。
大和は微笑んで、三月のこめかみを撫でた。
おまえが好き。
大好き。
幸せになって。
望みをせいいっぱい、体にみなぎらせて、三月の熱を受け止める。
吐精を終えるとき、大和の眼鏡の向こうの涙を拭おうとした三月の手を振り払うことまで、大和は、かんたんにできた。
なんでもないことのように三月の陰茎を抜いて、体を離して、手早く服を着てしまうことも。
はだかの三月が座るベッドに、大和はもう腰掛けない。
「これからも、変わらないよな。あんたはオレたちのリーダーで──」
問われて、大和は三月の頰に手を添えた。三月の大きな目がきゅっと狭まり、揺れる。それから何かを待つように、ゆっくりと瞼を下ろした。やわらかそうな唇にほんの少し力がこもって、かすかに開く。
そんなことまで、してくれんのかよ。
大和は、三月の顔に自分の顔を近づけて、唇を、三月の耳に近づけた。
息がかかる距離で、囁く。
「二度目はないから、安心してよ」
大和のささやきに、三月の伏せた目が、大きな目をふちどる長い睫毛が、ぴくりと揺れた。
その揺れの意味を知りたくなくて、大和はベッドから立ち上がる。現実の男の体を見られないように、手早く衣類を身につけて、はだしのままで部屋を出た。
三月は、キスだけはしなかった。きっとそれが三月の一線だ。それを超えようとさせてはいけない。
これっきりだ。二人は同じグループの、何も感じ合わない、ただ共にステージを楽しむ仲間に戻る。
「……耳、気持ちわりい……」
自分の部屋のドアの内側、暗がりの中に立ちすくみ、大和は呟く。
朝なんて来ないで欲しい。
この夜のこの世界がこのまま時を止めてしまえばいい。
眠ったままの三月は、きっと大和を拒むことなく、そばにいさせてくれるだろう。この身に、自身の熱を分け与えてくれたように。
それでも時は動いていく。三月はきっと、大和を嫌う。
涙は、いつまでも耳に残っていた。