恋をしている
*
「ただいま……誰も起きてねえよな」
時計は午前三時を示している。飲み会明けの、ふわふわと熱くて重い体を引きずって、リビングへ向かう。昨夜、久しぶりに七人揃って数分話したその場所は、いま嘘みたいに静まり返っていた。
一晩きりの夢のような時間が、次はいつ、これから何度、どれだけの長さで訪れるのだろう。楽しかった分だけ寂しくなる、夕暮れの、誰も迎えに来てはくれない公園を思い出す。
オレには守ってやらなきゃならない弟がいたから、一人きりで心細いなんて、思ったことはなかったけど。一織も自分の夢を見つけて、オレの背中から離れて、環や壮五だって、そのうち独立してしまうかもしれない。陸も一人の仕事が増えた。ナギは、寂しがってそばに居たがるだろうけど、一緒にいてやれるのがオレと大和さんだけじゃ可哀想だ。
七人で居られなくなったら、ばらけるのは、あっという間な気がする。
あと五年くらいは、面倒見ててやりたいけど。オレのエゴかもしんねえな。七人で飯食いたいとか、もっと一緒にいたいとか。この歳にして、たんなる責任感だけじゃない親心みたいなもんを持ってしまうのは、多分あの人のせいだ。やたらに大人ぶって、理想の父親みたいにふるまう、安穏とした優しい男。
この前の山梨土産のワインは、今も戸棚にしまったままだ。持ち帰ってきてくれてから、もう一週間以上が経っている。
冷蔵庫を開け、漏れ出た白い光の中で、グラスに麦茶を注いで飲む。
手探りで紐を引き、キッチンの流し元灯をつけたところで、うなる人の声が聞こえた。
誰か居る?
グラスの麦茶を飲み干して流しに置き、ソファの方へ歩く。
ソファには、無防備にベルトを緩め、靴下を半分脱いだ、見慣れた体。今日は三時には出ると言っていた、まさか、いるなんて思わなかった。
無防備に開いた口。
腹の半ばまで捲れ上がった服の下に視線を落とせば、ぼこぼこと男らしく引き締まった筋肉の凹凸に、つつましい臍が埋まっている。臍のくぼみからささやかに茂って整えられた毛が、服の下へと続いていく。
そこを触ったら、この人は、どんな顔をしていくんだろう。きつくしごくオレの手を押さえようとあばれながら、でもいくときには大人しくなって、耳のふちまで真っ赤に染めて、悩ましいしかめ面をして……。
「……や、」
慌てて口を開く。喘ぐように息を吸った。
「大和さん? なんでいんの、仕事間に合うのかよ」
声が出たことにほっとした。
大和さんががばりと起き上がり、服を正しながら腕時計型端末で時間を確かめる。
「えっ……ぁ、やば、ありがとミツ、寝てた……すぐ行く。間に合う」
「おう。行ってらっしゃい」
ばたばたと足早に部屋を出ていく、その人が眠っていた場所をちらりと見て、黒い端末の影に気づく。
「あっ! 大和さん、スマホ!」
「あー悪い、投げて!」
「ほい!」
「さんきゅ!」
五メートルかもう少し、多少開いた距離を、下から投げる。薄暗い廊下、危なっかしくその人の手元で跳ねたスマートフォンが、ちゃんとキャッチされるのを見届けて、オレは声をはりあげた。
「気をつけてな!」
「はいよー」
急いでいるのだろうに、いっそわざとらしいくらいに間延びした声で応じて、その人は出て行った。
玄関のドアが閉じる音を最後に、なんの音も聞こえなくなったリビングで、静寂に立ち尽くす。
ゆっくり、その場に腰を落とした。
自分の下腹が、熱を持っている。
……寝顔を見て、その口から上がる嬌声を想像して、勃起した。
「……最悪、オレ……」
誰かが起きてくる前に、どうにかしなくては。部屋よりはリビングのほうが、周りを起こさずに済みそうだ。
床に胡座をかいたまま、着ていたパーカーとタンクトップを脱ぎ捨てる。サルエルパンツを腿の半ばに下ろして、さっき大和さんが眠っていた場所に、顔を押し付けた。ほんの少し、汗の匂いが籠っている。
「は……、っ、く……んん……っふ、はぁ」
すぐに熱く形を持ち始めたちんぽを、手できつく扱き上げる。とにかく早く、と、亀頭の窪みを手のひらでくるくると刺激した。
両腕を激しく上下させて荒くなった呼吸、その吸気に、大和さんの匂いを感じとり、いっそう手の中のものが大きくなる。
「ぁっ! ……っん、……あッ……ぐ」
堪えきれずに声がこぼれて、歯を食いしばる。
ばちばちと、視界に光がはじける。その中に、その人の姿を見た。
大和さん。好き、大好き。
その体に押し入りたい。受け入れて欲しいし、抱き止めたい。全身で、愛してるって伝えたい。
「大和さん……!」
ぐっと、鈴口を指の腹でにじって、掠れる喉からその人の名前を絞り出す。
目の前が真っ赤に、真っ暗に、真っ白に、消失するような感覚のあとで、どっと胸が強く打つ。
どくどくと手の中のものが暴れた。強く握りこんでそいつが吐き出す汚れを手のひらに受け止める。受け止めきれなかった液体が白く濁った糸を引いて、フローリングに落ちた。暗闇の中でもどこに落ちたかわかるほどの量。自分の吐き出した精液を見てから、そういえばティッシュはどこだと思い当たる。
「あ……は、……やー……マジ……」
その液体を拭かなくてはと思うのに。
手の中の熱が治まらない。
これでもかと両手を汚した液体を身にまとい、吐き出した欲にすっかり溺れているくせに、その肉はまた手の中で膨らみ、頭をもたげ始める。
「あァ、くそ……おかしくなりそ……」
抜きすぎておかしくなったアイドルって、週刊誌でも載せないでしょ。聞いたこともない台詞なのに、その人の声が勝手に耳の奥に聞こえる。
幻想のその声でまた、バカ正直に勃ち上がるものを見下ろして、舌を打つ。床に落ちた汚れを、裸足の親指で踏みにじった。
あんたのこと、大事にしたいのに、止まんない。
もし、もしもその日がいつか来たら、ちゃんとあんたのして欲しいことしかしないから。
空想の中のその人が、オレの手に両手を重ねる。かさついて、あつくて、皮の厚い男の手。その手がオレの手を導いて、精を吐き出したばかりの先端をいたずらっぽくはじいた。
三度目の射精のあと、ようやく床をタンクトップで拭いて、まだ起き上がろうとするそいつのせいでふらつきながらシャワーを浴びた。
もう出るもんなんかねえよ、と、急に酒が回ってがんがん痛む頭をシャワーで冷やしながら、自分の股間を睨み下ろす。
男同士だ。セックスが簡単じゃないことなんて分かってる。男とセックスなんて、土壇場でオレやあの人が萎えてしまってもおかしくないし、どちらかがたとえそうなったとしても、咎めることは出来ない。
深いキスだってまだしていない。期待を押しつけるわけにはいかない。
……でも。
「は、……大和さんと、したいな……」
ざあざあと降り注ぐシャワーの音に、隠れるように呟いた。
……なんでディープキスしたくないのか、もう少ししたら、訊いてみよう。恥ずかしがるだろうけど、こういうモヤモヤ抱え合って、変にぶつかりたくねえし。
またRe:valeにお世話になるわけにいかないだろ、と、かつて喧嘩したとき世話になった先輩の名前を出せば、先輩には申し訳ないけど、千さんをちょっと煙たがっている節のある大和さんは、渋々本音を明かすだろう。
そんなふうに考えていたから、次の日の収録の合間に千さんとすれ違ったとき、少しだけ、どきりとした。
「やあ。IDOLiSH7、ひっぱりだこじゃない。僕らの番組にはもう出てくれない?」
「そんなわけないです! 呼んでもらえたら飛んでいきますよ!」
「そんなこと言って。七人揃って呼ぼうとしたら、二ヶ月先の一時間だけって言われたよ」
「わー、そんな先ですか」
「ライブもそこまで無いんだろ。年に一度のアルバムツアー、僕も新曲を楽しみにしてるよ」
千さんは百さんとの五周年の後、次々に新曲を出していた。その中には百さんが作詞したものもあって、Re:valeの一〇周年のライブツアーは熱いと、早くもファンが盛り上がっているらしい。まだ数年先だろうに、ファンはRe:valeの未来を、永遠を共に信じているのだ。
「ほんとですか! ナギや壮五が喜びます、壮五、千さんに作曲のこと色々教えてもらってるって、環が言ってました。ありがとうございます!」
「そうね。あの子、僕が話しかけると紐みたいに細くなって逃げてっちゃうから、二人きりで逃げないようにモモに羽交い締めにしてもらってレクチャーしたよ。ほとんど教えることなんてなかったから、ロックを聴く時はロックバンドのTシャツを着て頭に唐辛子を巻いて踊るとか、そんな話しかしてないけど」
百さんもいたら、それは二人きりではないのでは……余計な指摘はしないに限る。オレは小首をかしげた。
「真に受けちまうんでやめてやってくださいよ……今日、百さんはいないんですか?」
「うん。アラスカに、アラスカンマラミュートにそり引いてもらいに行ってるよ」
「この前はグアム行ってませんでしたか!?」
「そうだった? 三月くん、事情通だね」
「いや、千さんこそ、相方の所在とか、気にならないんですか」
「僕らはもう、そういうのは平気になったんだよね。どこにいても僕のところにモモは帰ってきて、また一緒に歌うってことは、変わらないから」
千さんが遠くの方へ視線を向ける。ここは窓のない地下だというのに、遠い空を見上げているように見えた。アラスカがいま何時なのかは分からないけど、百さんも空を見ていたらいいと思った。
「……一緒に住みたいとか、思いませんか?」
「モモと? そうだな、あいつは一人で勝手にならず者に軟禁されるから。僕も一緒に軟禁されるほうが、気は楽かも」
「それ、百さんの胃がおかしくなりそうですね」
「そうね。モモにはモモの世界があるし、その世界まで僕のものにできるほど、モモは小さな男じゃない。大人しくしてるモモより、僕の言うこと聞かないモモのほうが、ムカつくけど、モモらしい。ムカつくけどな」
オレにはオレの友達がいて、大和さんには大和さんの人間関係がある。相手がどんなことをどこでしていても、その全ては分からないし、分からなくてもいい。千さんの言いたいことは、なんとなくわかる気がする。
「そうですよね。全部ゆだねてほしいけど、縛りたいわけじゃなくて、もたれかかっていい場所だからおいでって言ってやりたいみたいな……」
「大和くんとはうまくやってるんだ」
思いがけない答えに、思わず周りを見渡す。スタジオとスタジオの間の、周りに扉もない、一本道の廊下。さすがに聞き耳を立てている人はいなさそうだ。
「……えーと、なんて答えたら」
「モモも言ってたんじゃない? 僕らに知らないことなんてないって。おめでとう。大和くんをよろしくね」
「……えっと、はは……ありがとうございます」
「三月くんは、大和くんと、反応が似てる。お似合いだと思うよ。あの子、君のこと本当に好きだと思うから、もっと拳で語り合ってあげなよ。じゃあ、また」
「あはは、拳って言われると、ほんとその時はご迷惑かけてすいません。あの、今、嬉しいです、ほんとに。祝われたの初めてで……」
「誰だって祝うさ、君と彼を愛する僕たちは。つらくなったらいつでも泣きにおいでって、モモが言ってたよ」
「百さんも知ってるんですね」
「モモから聞いたからね。たぶん付き合ってるよって。ほんとに付き合ってるのは今知ったけど」
「あ! ……うわー、あの、内緒で」
「そうね。そういう素直なところに、大和くんもほだされたのかな。君にはごまかしがきかないから、誤魔化される心配もない。この世界じゃ、貴重だよね」
千さんが、今度こそじゃあ、と、ひらりと手を振って踵を返した。
大和さんは千さんに、わりと子供っぽい態度をとる。かつて青臭い姿を見せた相手にいま好かれて、その頃をからかわれるのが気に食わない、みたいな。オレやナギにも同じように、恥ずかしい話でからかわれはするけど、千さんに対するときほど露骨に幼い態度は取らない気がする。大和さんの昔を知っている千さんに認められるのは、すごく嬉しい。
千さんも、大和さんの特別な相手だ。気取らずにずけずけと話せる相手。ナギも、壮五や八乙女だってそうだろう。そういう特別だと思える相手にあの人が囲まれているのは嬉しい。そういう相手の一人にオレを数えてくれるのも。
大和さんが言えなくて悩んでいることは、聞いてやりたい。拳でなんてつもりはないけど、千さんの言う通り、誤魔化しはオレたちの間に似合わない。
「よし」
大和さんにラビチャで、話があると送った。滞りなく進められれば、オレの撮影は九時には終わる。今夜もそう遅くはならないだろうと知っていたから、きっとのんびり話せるだろうと踏んで、ビールも買って帰った。
ラビチャの画像をさかのぼると、いつだかに貰ったプレッツェルの画像があった。あの人はラプンツェルとか言っていたっけ。ラプンツェルの窓を訪れた王子は、何に妨げられたって、諦めなかった。オレだって、高くて狭いところにその人が一人閉じこもるなら、窓に飛んで行ってひっぱり出してやりたい。
オレがその人の窓辺に飛んでいくための翼は、酒とつまみっていう、ロマンの欠片もないものだけど。
それなりに気合を入れてつまみを拵えて、オレの部屋をセッティングする。いつもなら、酒は大和さんが用意してくれるんだけど、今夜は先に準備しておこう。パーカーの裾を伸ばして、お腹に缶を貯めて廊下を歩いた。あの人には、もっと大事な、打ち明け話の覚悟の方を持ってきてもらわなきゃなんないんだから。
と考えていた時、尻ポケットで震えたスマホ。
何気なく通知を目にして、動けなくなった。
簡素な四文字が、驚くほどかんたんに、オレの心を揺さぶった。
ガラガラとビールが転げ落ちる。膝をついて拾い上げながら、開ける時気をつけなくちゃな、と思った。
共にこの缶を開けるはずだった相手は、今夜、部屋を訪れないだろうと分かっているのに。
立ち上がろうとする膝に力がこもらない。びかりと強く窓の外が白んで、それからどがどがと、張った皮の太鼓を打ち鳴らすような雷の音。
『別れよう』。
その日、その四文字をオレに送ったその人は、オレたちの寮に帰ってこなかった。
日付を見て、ちょうど一か月前の今日、付き合い始めたのだと気づく。
窓の向こうで、強く降り出す雨の音がした。