恋をしている


3.長くて苦い

雨上がり。湿った空気を葉先に貯めて濡れた木々は、朝の陽の光の下、いつもより生き生きとして見える。
気づけば、付き合い始めた日から、一か月が経っていた。あの日きつく匂うほど咲き乱れていた躑躅はすっかり姿を消して、代わりに遅い紫陽花が丸く咲き出している。
「帰りたくない……」
寮の入口、街路樹の前に立ち尽くしているのは、ひとえに、寮に戻りづらいからだ。
昨日、ミツと別れた。別れようと連絡した。ミツは優しいから、俺の気持ちが離れていると説明すれば、別れを受け入れるだろう。
一ヶ月記念日の節目に、というつもりもなかったけど、付き合い始めて、昨日でちょうど一ヶ月。ミツが話があると言ってきたのは、それを祝うためなんじゃないかと思ったら、ひどい罪悪感に襲われた。お前さんを捨てようとしてる人間との月日なんて、祝おうとしないでくれよ。
昨日、というか今日は、仕事もうまくいかなかった。人との触れ合いで心を溶かされ、これまでに比べて明るく振る舞う司法解剖医、を演じなければならないのに、時折翳がよぎると言われて、撮影がやたら長引いたのだ。昨夜の雨が酷かったのも、撮影にうってつけで、少し先のシーンまで撮ることになった。四時に始まり、終わりは三〇時、なんて嘘みたいなスケジュールをどうにか乗り越え、爽やかな朝の空気の寮の前。悪人面と評される顔立ちは、いっそうの険をたたえているだろう。もう目もろくに開かない。
既に放送も始まっているドラマは、いま六話目の撮影に入っている。七話以降、手酷い裏切りを受けるも、仲間を信じられるようになった俺は裏切った相手の部屋を一人で訪れる……という話に続くらしい。俺はそこで襲われ、意識を失ってしまうらしいのだが、自分の演じる役のそんな愚直さは、いま寮で俺の帰りを待っているだろう男を彷彿とさせる。
ドラマは、寮のテレビにも録画されているだろう。ミツの部屋の、あの大きなテレビにも。
「嫌だな……」
いっそ嫌われていれば、すぐにでも帰れるのに。
ラビチャへのミツの返事は、『ちゃんと話したい』だった。きっと俺を嫌ってはいない。むしろ引き留めて真意を聞こうとしている。そういう相手だとわかっていて関係を始めた。
七月だというのに未だ去らない梅雨にも、なかなか取れない休みにも、憂鬱が募る。
「はぁ……」
もう身体中の空気を吐き出してしまったのではないだろうか、何度目かのため息をついて、寮のドアノブに手をかけた。
「ただいま……」
たぶん何人かは仕事に出た後だ、平日の朝にふさわしい静けさが寮に満ちている。
洗面所で手や顔を軽く洗い、なにか軽く食べようとリビングへ向かう。そこに、件の男は座っていた。
「おかえり」
「……おう」
ミツは立ち上がり、キッチンへ向かった。おたまで何かをよそい、茶碗を二つ手に戻ってくる。
今部屋に戻るのもわざとらしい気がして、テーブルで待っていた俺の前に、ミツが雑炊を置いた。寝る前に食べられるような消化のいいものが用意されていたことに、目を伏せる。
ミツはどんなに怒っていても、悲しんでいても、誰かのことを考えて、そのために行動しようとする。ミツ自身が後悔しないために。
「大和さん」
ミツがれんげを差し出しながら声をかけてくる。受け取りはしても、ミツの顔は見れなかった。
「……ミツは何も悪くない。付き合うってのは、やっぱり違うと思っただけ」
雑炊を一口ぶん、れんげに取って口に運ぶ。ほどよく温いその温度は、もう俺の食事には当たり前になっていた。外で飯を食う時には、こんなふうに、すぐに口に運べる温度ではない。
ミツはいつでもこうして、俺に、当たり前の居場所をくれようとした。その大きな愛が俺にはふさわしくない、それは紛れもない本心だった。
斜め向かいに座ったミツが、れんげを置く。
「オレはあんたを好きだよ」
慰めたから、好きだと返ってきたようで、金を払えば商品が受け取れるみたいな簡単な図式にその言葉がはめ込まれたことに、胸が痛む。
ミツはそんなつもり、ないんだろうけど。
「好き」が、対価のようにやり取りされれば、ミツの持つ気持ちがいつか尽きて、俺から離れてしまう気がした。
好きだから、別れたい。いつか好かれなくなるのが怖い。別れてからも好きでいて欲しい。俺を好きなまま、でも、ミツはミツのままで変わらないでいて欲しい。俺の望みはどこまでも自分勝手で強欲だ。
ミツの頬に光が降りている。まつ毛の先がつやめいて、瞬きの度に眩い光が散るように見えた。
「俺の気持ちは、ラビチャで送った通りだよ」
あとは部屋で食べるから。ご馳走様。ぶっきらぼうに告げて立ち上がる。ミツは何も答えなかった。
だから、これで終わりだと思った。
部屋に戻って、ドアを閉め、その場に鞄を落とし。
雑炊を乗せたお盆をベッドに置いて、そのままベッドに顔を埋めた。
これで終わった。
一ヶ月。
楽しかった。夜道で抱き合い、帰ってきてキスをした夜。その日から、毎日のように朝はキスをした。相合傘、愛を囁くラビチャ、ミツの手から食べた食事、髪を乾かしてもらう時間……。
それほど長い時間を共に過ごせた訳では無いけど、それでも、暇を見つけて言葉を交わし、触れ合い、好きだと言ってもらった。
もうその声は聞くことは出来ない。
これまでみたいに屈託なく笑って頬に触れてくるミツも、瞼を下ろす前のちょっと緊張して尖った唇も、唇を舐めて近づいてくる、男の表情も。
全部遠くにやってしまった。俺が、この手で。
もう、大好きだと抱きついて求めてはもらえない。
「……っ、ふ……」
くく、と喉を鳴らして笑い声にしようとしたけど、できなかった。不器用な吐息の後で、ぼろりと涙が頬を濡らす。シーツに顔を押し付けて、声を抑えた。
「く……っ、ふ……ぅ、く」
ソウは仕事に行っただろうか。隣の住人さえ出ていてくれれば、角部屋に籠ってこんな風にみっともなく泣いている姿は、誰にも知られずに済む。
ミツは今日、なんの仕事に行くのだろう。ここのところ互いの予定はラビチャや会話で共有しあっていて、リビングのスケジュールボードは見ていない。
早く出かけちまってくれ。俺も午後には仕事だ、わあわあ泣いてスッキリして寝て、シャワー浴びて全部忘れて仕事に行きたい。
悲しみと寂しさと、変な焦りや怒りみたいなものが綯い交ぜになった胸をどんどんと拳で叩くと、涙とともに咳が出た。涙は止まることはなく、あとからあとからこぼれ、食いしばった歯の間から、あえぎをなめらかに漏れさせた。
ミツ。
ごめん。
さっき、好きだって言われて嬉しかった。
ごめん。俺から別れようなんて言って、それでも好きで。お前さんをつなぎ止めたくないのに、俺のことを気にしていて欲しくて。
「どうしたらいいんだよ……」
自分が何を求めているのか、どうすれば正しいのか、何が一番ミツのためになるのか、何も分からない。涙腺が腫れ上がって涙を押し出す度に、疲れた頭はがんがんと痛んだ。
眠らなくてはならないのに眠れそうにない、啜り泣きは漏れるに任せて、両手で乱暴にシーツをかき寄せた時、どん、と部屋が揺れた。
何だ?
「開けろ!」
あの、立った今思い浮かべていたオレンジの髪の男の怒った声が、なぜか、窓の方から響いてくる。
窓から?
え、な、なんで?
困惑しながらも、涙の止まっていない顔を上げる訳にはいかない。寝たフリをしてやり過ごそうと動かずにいると、どんどん、とふたたび窓枠を激しく叩く音が聞こえた。
割れる、窓、割れるって……!
ミツは信じられない言葉を続けた。
「開けないなら撃つ!」
撃つ?! ミツは本当に撃つ……!
え、何を?
顔を上げると、窓の向こうに、眉を怒りの形に持ち上げたミツが立っていた。仁王立ちで、このアットホームなタカナシドミトリーに似つかわしくないビッグな銃火器を小脇に抱えている。
……バズーカ?
「……こ、これなに」
片手の甲で顔を隠し、窓の鍵を開けながら尋ねた瞬間、体に衝撃。飛びついてきたミツに押し倒され、背中を思い切り床に打ちつける。
「痛ぇッ……!」
口を開いて抗議したところで、がむしゃらに唇を塞がれる。
開いた口に割り込んできた厚い舌。噛むわけにも行かず、流し込まれる唾液に眉を顰めて、その胸を叩く。
「んん! ん……んー!」
「……っ、ん……」
「ん! んん! 離せ! バカ! 何すんだ……!」
「納得できねえよ! あんた、オレのことまだ好きだろ!」
「は!? 誰がそんなこと……」
「あんたがこんだけ泣いてんの、オレのせいだろ! 自惚れじゃないよな」
俺の上で髪を振り乱し、ミツが声を荒らげる。揉み合いの果てに、ミツは銃火器を俺の顔に突きつけて黙らせた。
一転して静まり返った部屋で、物騒なバズーカを床にドンと立て、ミツは俺の顔を片手で思い切り掴む。
「痛……俺の嫌がることしないっつっただろ!」
「それより嫌なことしてるあんたを、これ以上見てらんねえっつってんだよ!」
ボタボタと、ミツの両目から俺の頬に雫が落ちてくる。昂った感情が両目から涙になってこぼれるのを、ミツは拭いもせず、真っ直ぐに俺を見た。
「言ってねえけど分かる、どんだけあんたのこと見てきたと思ってんだ、オレの好きな相手なんだぞ!」
「離せよ」
「離さない」
ミツに顎を掴まれて、真っ直ぐな視線を逃れられない。悔しさに眉が寄った。
「あんたの気持ちがざわざわしてんのも分かってた、打ち明けてくれるのただ待ってたら、こじらせるんだろうなってのも。だから昨夜、ちゃんと話そうと思ってた」
頬にくい込んでいたミツの手が、震えながら、俺の頬を伝って、やがて手のひらで涙を拭う。俺のだかミツのだか分からない涙で濡れた手のひらで、ミツはそのまま、俺の額を撫でた。
熱い。愛しげな、優しい手つき。
「……なあ、なんで別れようなんて言ったの」
ミツは、俺の腿に尻を預けて、胸にとりすがってきた。人のシャツで鼻水でも拭いそうな勢いだ。開け放った窓からほのかに風が吹き込んで、頬を冷やした。
首を傾けて、顔を逸らす。
「言わなきゃダメな理由、無いでしょ」
「……そっか」
珍しく物分かりのいい返事の後で、ミツが体を起こした。
ミツの表情が見れない。唇を噛むと、ヒヤリと何かが頬に押し当てられた。
金属質の、重たいもの。
ミツが部屋に持ち込んだバズーカだった。
「いっ……言う言う言う! 物騒なんだよ! こんなのどこから持ってきた?!」
「昨日百さんから届いた」
「百さんがくれたすげーのって、それかよ!?」
思わずハンズアップして叫ぶと、ミツはバズーカを肩に構えたままで表情をゆがめた。悔しげに、こんな風に言うことをきかせるつもりじゃなかったとでも言うように。
「ごめん。大和さん」
「……別に。先に別れようっつったのも俺だし。どいて」
「……どかない」
「ミツ」
「あんたがなんで別れたいのか、理由を聞くまで。納得するまでどかない。オレのこともう好きじゃないとか、そういう嘘も信じないから」
腿に座ったミツの脚がぎゅっと締まって、俺の体を押さえつける。両手も肩に載せられて、押し返すことが出来ない。
ここで本心を告げたら、きっとまた、ミツと付き合うことになってしまう。
俺はミツのために身を引きたいのに。ミツが今のミツじゃなくなって、ミツの人生に有り得たはずの幸福が俺のせいで損なわれることがないように。
でも、今ここで本心を明かせと俺に言っているのは、ほかならぬミツだ。
……正解が分からない。
ただ、切なげに眉を下げて見つめてくるミツに、望む言葉をかけてやりたいと思ってしまった。
「……怖くなった。ミツに嫌われたり、ミツの人生の邪魔になったりするのが」
「嫌いになんかならねえって言ったじゃん」
「ミツはそうでも、ミツの周りは違うかもしんねえじゃん。ミツんちは後継ぎとか考えんじゃねえかって思ってるし……必要じゃん、子供も、奥さんも」
考えすぎかもしれないけど、ミツはきっと、俺と一度深く繋がれば、そのことをずっと大切に思ってくれそうだと思った。
俺の存在が、未来にミツの家庭を壊すのも、ミツの子供から何かを奪うかもしれないことも嫌だった。ミツの宝物になりたい。でもそれがミツの大切な誰かを傷つけるなら、今、ここで終わりにしたい。
腕を上げて、肘の内側に目元を填めた。鼻の奥に溜まった水を啜り上げようとして、喉が詰まって少し噎せる。
みっともない俺の姿に、ミツは、肩を押さえていた手をどけた。その手で、俺の頭を撫でてくる。
「……昨日、千さんに会った。百さんと千さんは、オレたちのこと、知ってたよ。それで、おめでとうって、お似合いだって言ってくれた」
「は!? なんで……」
「理由は分かんないけど、百さんが気づいたらしい。オレは嬉しかった。あんたとの未来が、オレとあんたの大事な人達から保証されたみたいで」
ミツの手がやわらかに髪を梳かす。涙で頬に張り付いた横髪をよけて、耳にかけた。その間もずっと肘に顔を填めたまま、俺は唇を噛んだ。
「もし、あんたとオレが付き合うことを、オレの大事な人が認めなくても。オレはあんたと居たいよ。あんたと幸せでいるオレを見て、その人も、いつかわかってくれるって思うから」
ミツは尻を浮かせて、俺の上から退いた。脇に手を差し込み、俺の体を起こさせる。
「時間かけてひとつのこと掴むの、オレ、得意だからさ」
開けっ放しだった窓を閉めに、ミツが四つん這いのまま窓へ向かった。カラカラとアルミサッシの空回りするような音と、細く吹き込む風の音。ピシャン、とミツの手が窓を閉め、風の音が止む。
「後継ぎとかそういう話も特にないし! オレんちの両親、すげえ懐深いからさ。たまに手伝いには行くけど、継げなんて言われたことないよ。オレは確かに長男だし、調理師免許だって持ってるけど、オレの人生はオレのもんだって、家族も思ってくれてるんだ。オレが昔からアイドルアイドル言ってたのもあんのかも」
ミツが俺に向き直る頃には、ミツの頬はすっかり乾いていた。
いつもみたいに白い歯を見せて、ミツが目を細める。
「あんたにもあんたの人生があるだろ。オレは、その全部をオレに捧げて欲しいとか思ってない。でも、オレと大和さんの人生の、重なるところが重なって、一緒に過ごせるなら、すげえ幸せだって思う」
ミツの手が傍らのバズーカを取り上げた。そしてなぜか、俺の手を取り、持たせてくる。ずしりと重たいそれを、肩に担がされ、ミツの顔目掛けて構えさせられた。
「なあ、オレが半端な覚悟であんたとキスしてたって、あんたが本気で思うなら、オレを撃って。そんだけのことオレはしてきた」
家族を思う喜びの微笑は、切ない自嘲の微笑みに変わる。
ほらな。お前さんは、俺といるとそんなふうに笑うはめになるんだ。
「おまえさんのためだっつってんだろ、俺のことはいいんだよ」
持たされたバズーカをぽいと投げ落とす。がしゃんと大きな音がして、ベッドの上でお盆が弾んだ。雑炊は、柔らかくくたくたに煮詰められ、俺のために程よく冷まされていた。もう冷めきってしまっただろうか。
俺の乱暴な仕草にかちんときたのか、ミツが食ってかかってくる。
「誰がそんなこと頼んだ! あんた、分かってんだろ?! オレがあんたと居たいってこと。オレのためとか言って、逃げてんじゃねえよ!」
「誰が……!」
「あんたが!」
ミツの両手が俺の襟元を掴んで揺すった。
「オレはあんたと居たいよ、好きなんだよ、大和さんが! あんたは違うのかよ」
「……っ、好きだから……俺なんかに構い続けて、大事なもん沢山、逃して欲しくないっつってんの!」
睨みつけると、ミツが驚いたように目を瞬いた。勢いのまま言葉を続ける。
「分かれよ……!」
ミツの手が、ゆっくり襟を離して、俺の両頬に伸びた。止まったと思っていた涙が、また溢れていたらしい。ミツが親指でやさしく目の下を拭ってくれる。
「オレが逃がしたくないもんはあんただよ。一人で突っ走って先行ったって、絶対追いついてやるから」
「……足速いもんな」
茶化すように話題を変えたミツに、涙を見られたことが気恥ずかしくて、なおざりに相槌を打った。
ミツは仕方なさそうに俺の耳を撫で、少し濡れたこめかみを指の腹でやわらかに擦る。
「小学生ん頃はモテたぜ。今はあんたにしかモテたくない。……なあ、教えてよ。オレのこと、どう思ってる?」
「……言いたくない」
「じゃあ、キスしていい?」
「いいわけ……」
「なら、殴ってでも逃げていいぜ」
朝の部屋。涙まみれのぐしゃぐしゃの顔で向き合って、俺もミツも酷い顔だ。それでもミツは目をそらさずに、俺の頬に両手を添えて、俺を見つめる。
「オレはあんたを好きで、あんただってオレを好きなはずだろ」
ミツの顔が近づいてくる。
このまま、唇が触れたら。別れの言葉は、もう意味をなさなくなる。
決定的なその瞬間を、拒むことも受け入れることも選びたくない。
逡巡に唇を引き結ぶと、触れ合う直前、ミツが囁いた。
「別れなきゃダメ?」
「そんな聞き方……」
「先に、言わなきゃダメとか言い出したの、あんたの方だぜ」
唇と唇が、触れ合う寸前の距離で見つめ合う。答えなければ動かない、ミツの緊張に汗ばんだ手が、俺に決意を伝えてくる。
ミツの唇にかからないように、細くため息をつく。
「仕事、あるから。仮眠とって二時には出る。まずは寝るから、話すなら帰ってきてから」
ミツの顔が離れた。ほっと、胸から息をつく。息継ぎの仕方を忘れていたように慌ただしく呼吸を整える俺をよそに、ミツはてきぱきとベッドの上の雑炊や転がったバッグを床にまとめた。
「寝るまで、いていい?」
「仕事は?」
「オレも、昨夜あんたが戻んないって分かって、夜のうちに一本代打行ったんだ。今日は昼から」
「さすが……それじゃ、ミツも眠いんじゃないの」
「大和さんが寝たら、部屋戻るよ」
「……ここで寝たらいいじゃん」
「あんたさ、分かってんの?」
ミツが嘆息して、俺をベッドに追い立てる。丸一日以上ぶりのベッドに体を預けると、どっと眠気が襲ってきた。
「オレとどうなるかはあんた次第。起きて、仕事行って、帰って話すまで、オレはもうあんたに触んない」
何か言わなきゃと思うのに、口が動かない。まどろみの中、音にならない声を投げ出したような気がする。ミツがふっと穏やかに息をついた。笑い声になる前の、ささやかな吐息。
「おやすみ。大和さん。がんばったな」
いつもみたいに、がんばったなと、俺を認めてくれる声。その声を手放したくなくて瞼を開けようとしても、もう体は動かない。
褒める言葉は降ってくるのに、額にいつもの温もりが降りてこない。撫でて欲しい。キスをして欲しい。本当は、誰より熱く抱き合いたい。
体が覚えてしまった温もりを、理性は必死に吹き冷ますのに、心はその温もりを求めているらしい。熱いものなんていつか冷める、期待して、あって当然だと思い込んだ果てに失うのはもう懲り懲りだというのに、ミツがくれるものは、程よいぬるさのものばかりだから、たちがわるい。
みつ。
ミツが部屋を出ていく音を聞くころには、もう視界は真っ暗な闇の中だった。
固く閉ざしたまぶたの下で、光を失った意識が、深く底のない欲望へ引きずり込まれていく。
みつ、どうか。
おれをすきでいて。

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