恋をしている

地元名物をリブランディング、という趣旨のローカル番組の収録。今日は青空の下で名物料理をプロデュースする手筈だ。調理は地元の人、盛り付けはイチ、食べて味にアドバイスするのは俺、ということで、出番が遅い俺とイチは、材料が到着するまで、ロケバスの日陰で雑談することになっている。音声は使わないため、本当に単なる雑談で構わないらしい。カメラこそ回っているが、隣にいるのが気心の知れたメンバーなせいで、肩の力は抜けていた。
「昨日、遅かったんですね。難しいシーンだったんですか?」
「あー、いや、俺の力量不足かな。今夜も、このあと撮影だけど……多分もう大丈夫だよ」
「何かあったんですか」
「腹くくる覚悟を決める準備をする気持ちになったというか……」
「随分遠回りですね」
「お前さんやミツみたいに、まっしぐらな生き方して来なかったからな」
目線を上げると、飛行機雲が目に留まる。ぐんぐんと飛行機が進んで、白い雲を青空に残した。
「イチ、飛行機がなんで飛ぶか知ってるか? 揚力がどうとか……ナントカカントカの定理とか言うみたいなんだけど」
ふと尋ねると、イチは切れ長の目をぱちくりとひとつ瞬いて、不思議そうな顔のまますらすらと説明を始めた。
「ベルヌーイの定理でしょうか。揚力を説明するのに、よく言われる定理ですよ。同じ流線上の同じ物体……例えば、ストローの中の球体が移動するときの、その球体に関与する各条件の総量は等しい、という定理です」
ストローの球体、と言われて、タピオカを想像する。おそらく違うだろう。
イチは涼しい顔で説明を続ける。
「転がり始めたときの球は、速度が速く、圧力は小さいですが、止まりかけの時の球は、速度が遅く、圧力は大きくなっています。風を切って飛ぶ飛行機を想像してください。飛行機の翼の形状は、後縁が尖っているため、翼の周りに空気の循環が生まれ、上面を流れる空気の速度が早くなります。その分、上面は圧力が小さく、反対に速度の遅い下面は圧力が大きいので、下面の風が上面へ逃げようとして、上に引き上げられる力、つまり揚力が生じるんです」
「……んー? それ、上に空気が来ちまったら、逆に上から押さえる力になりそうだけど」
「ええ。飛行機の翼の端に、折れて跳ね上がったような突起がついているでしょう。あれが風の逆流を防ぐので、飛行機は落ちないというわけです」
飛行機の翼の端なんて、まじまじと見たことはない。朧気な記憶だが、そういえばMVの撮影のために借りた飛行機の翼の端は、ほんの少しだけ上がっていたかもしれない。
「さすが、よく知ってるな」
「調べたことがあるんです。兄さんが、飛行機を苦手でしたので。伝えたことはありませんけど」
「言ってやらなかったのか」
「ええ。空気の循環は、説明はできるんですが、目には見えないんです。それぞれの定理を組み合わせれば空気の循環があると言える、だから風の速度が異なり飛行機が飛ぶ、なんて説明しても、きっと兄さんは、調べてくれてありがとな、と喜んでくれるだけで、兄さんの恐怖を除くことは出来ないと思ったので。目に見えないものは信じ難いでしょう」
ミツは、父親が子供に説明する場面に遭遇したと言っていた。確かに、年下の弟から懇々と理論を説かれても、そっくり受け入れる気にはなりづらいかもしれない。
イチも俺に倣って飛行機雲を見上げ、その先へ手を伸ばした。届かないものの行き先を指先で辿り、やがて腕を下ろす。
「飛行機で家族旅行に行くような機会も特にありませんでしたから、言うタイミングもなかったんです。みなさんと沖縄に行った時も、二人で話すような空気ではありませんでしたし」
「イチはそういう奴だよな」
「私が手を貸さなくても、兄さんは自分で、恐怖に打ち勝ってしまうので」
「ミツも強情だからな。いい兄弟だよ」
「それはどうも」
「なんの定理だっけ」
「ベルヌーイの定理です。飛行機の飛ぶ理論なら、クッタ・ジューコフスキーの定理かもしれませんが」
「ああ、いいや、聞いても分かんねえだろうなって今分かったから。ありがとな」
「いえ。なんの質問だったんですか?」
「……怖いもんが、怖くなくなる瞬間について?」
ミツ絡みだと言いづらい気がして濁しても、結局は自分でばらしたような答えになってしまった。そうですか、と呟くイチには、きっと伝わっただろう。
自分の与えたかったものが、違う誰かの手からその人のところに届いたと知るのは、心地のいいものでは無い。
「いや、イチ……」
「言葉にしなくても、私は兄さんを愛しています。兄さんも、私を可愛がってくれました。お互いがそれを分かっていればいいと、今は思っています」
機先を制され、弁解のために掲げた手が空を掻く。
「二階堂さんの決意、いい方に向かうといいですね」
イチが強引に話を切り上げた時、ロケバスの後ろの方で、スタッフが俺たちを呼んだ。俺の予定が詰まっているせいで、撮影に使える時間は二時間しかない。すたすたとイチが呼ばれた方へ向かう。俺もその背を追った。
目に見えない風の渦に翼を押されて、飛行機が飛ぶように。
ぐるぐると体の中に渦巻くものが、俺を、ミツを、押し上げたり引きずり下ろしたりしている。
本当は好きだ。誰よりも。俺をいつだって引き止めて、いつだって引っ張り出して、誇らしそうな顔をしているそいつが。
失望されたくない。絶望させたくない。おまえの失意にも、慰めにも、俺はきっと耐えられない。
お互い好きだと分かっていながら戯れ合う、結論から目を背けた保留の時間が、一番心地よかった。
少しずつ、好きな気持ちを指の間から零して、その音にそいつが振り向く頃には両手をポケットにしまう、落ちているものをそいつが拾い上げたら素知らぬふりで、でもそれを嬉しそうに眺めるお前を見つめる……そんな時間が好きだった。ミツを勝手に好きでいて、ミツの喜ぶ顔が見られて、それ以上望めるほど自分に余裕はないことも知っていた。
俺はお前を好きなんだぜ、お前さんが俺をどう思ってるのかも知ってるよ、だけど俺の一線はここだから、お前はそれを超えてくるなよ。
だから、告白された時、出しすぎたのか、と思った。
それを越えても一緒に歩いていくために必要な覚悟なんて何一つ決まらないまま、目先の嬉しさに惑わされ、頷いてしまった。その罪深さに、俺は報いなくてはならない。
イチとの収録は時間通りに終わり、ドラマの撮影現場に向かう途中、ミツからのラビチャが届いた。
ひと駅前で降りて歩いて帰ろう。ミツからの提案に、分かった、とだけ返事をする。
今日は驚くほどすんなりと撮影が進み、俺の退場するシーンを撮り終えて、俺だけ先にはけることになった。
あっという間に、ミツと話し合う時が来てしまった。
怖いものが、怖くなくなる瞬間。
得体の知れなかったものの正体を知るとき。
俺が怖いのは、ミツが俺を好きだと言う気持ちが、いつか尽きるかもしれないこと。その果てにミツが変わってしまうこと。
俺が傷つくこと。
ミツは、駅前で合流するなり、その全てを知っているかのように、言った。
「オレが好きだって言うの、別に見返りなんか欲しがってるわけじゃないよ」
午後一〇時の駅前では、仕事帰りらしい人々が何人も帰路を急いでいる。人気の少ない道を選んで、ミツが先を歩いた。ミツに任せていては道に迷う、ゆったり歩くその隣に並んで、寮の方向へ足を進める。
ミツは誘導されたことに気づいているだろう。それでも嫌な顔はせず続けた。
「あんたが可愛くて、愛しくて、たまらなくて。好きだって思う度に嬉しくて、伝えたくなる」
並んで歩いても、手が触れ合うような距離ではない。子供が一人すりぬけられそうな距離で、ミツは前だけ見ながら言う。
「押しつけだって思うかもしんないけど、あんたが、好きだよ。これからもずっと」
大和さんは?
問いかけに答えられない。立ち尽くして、ミツとの間に距離が開いていく。
振り返ると、まっすぐに道が続いていた。中ほどで山なりに坂になっていた道を、下っていたのだと気づく。前も見ないで歩いていた。前を向いていたはずなのに。
中華料理屋の煤けた暖簾、破れっぱなしの網戸、青く実った金柑、斜めに捨ててある簾。アスファルトを続く白線は、マンホールのところで途切れている。
どれも中途半端な道。歩道橋を上がっていくミツを追うと、足下を過ぎていく車の明かりが遠ざかり、少しだけ視界が開けた。
「ここならいいかな」
呟いて、ミツが立ち止まる。歩道橋の真ん中、ミツは軽く欄干から身を乗り出して、あたりを見渡した。
目の高さより少し低くに、白い街灯。青く茂った木がざわめいて、その白さをちかちかと足元に瞬かせる。
「大和さん、来て」
ミツが橋の半ばから、俺を呼んだ。
「しゃがんで」
二歩歩いて追いついて、言われるままにしゃがみこむ。品川方面をさす看板の裏側、しゃがむと、大きな影の下になった。
ミツも俺の前に回り込んでしゃがむ。看板に挟まれた死角で、ミツの顔が近づいてきた。
一瞬だけ、唇が唇を掠めた。
キスだった。ミツはなにかを拾うように手を伸ばして、大きな身振りで立ち上がる。
いたずらっぽい目が、顔だけで振り向いて、俺を見下ろした。
「どきどきしただろ」
ミツが大きく一歩踏み出す。スニーカーからくるぶしが覗いて、またズボンの下に隠れた。
「オレも、すごいどきどきしてる」
俯きがちに告げながら、ミツが手招きをする。立ち上がると少しだけ血の気が引くような思いがした。
くらくらする。本当に好きな相手に、本当に好きだと告げられて、共に歩く時間。
幸せだから手放したかった。
「なあ、大和さん、付き合ってる間、オレ、楽しかったよ。大和さんは?」
「言わなきゃダメ?」
唇を舐めて言い返すと、ミツは可笑しそうに笑った。
「何かわいこぶってんの。撫でてやろうか」
ミツがふざけてからかうときのひらひらとひらめく手、その手首の白さに胸がきゅんと縮まる。
七人分の食事を作る寸胴鍋も軽々持ち上げる、しっかりした男の手首だ。でもすべらかで節の作りが俺より小さい。あの手と何度も触れ合った。
「うん。撫でて」
ぱちくりと目を瞬いて、ミツが怪訝そうな目付きになる。その頬は上気して、気持ちを扱いかねているようだ。
「……ほんと、どうしたんだよ」
ミツがぽんぽんと、励ますように俺の頭をはたいた。それから前髪を撫で下ろし、心配そうに見上げてくる。目が潤みそうで危なかった。
その手に一瞬手を重ねて下ろし、ミツより先に、歩道橋を下る。
「俺は」
声が詰まる。
とんと胸を叩く。
言わなくては。
ずっと、告げてやれなかったことを。
「俺も、楽しかった」
「そんな、泣きそうな声で」
ミツが足早に追いつこうとする足音。追いつかれないように、俺も足を早めた。
「ミツのことが好きだ。本当に好きで……だから不幸にしたくない」
顔を見せないように先を歩く。寮まではもうあと少しだ。
「なんだよそれ。あんたといたらオレは不幸になんのか。オレが不幸そうに見えたことあったかよ」
「なかったけど。ミツは、俺のして欲しいこと、分かるだろ。俺は、ミツとか、ミツを好きな周りの人のして欲しいこと、分かる自信、ないから」
「……いや、あんたのして欲しいことなんか分かんねえよ。別れようって言われた時、すげえ動揺したし」
背後で、ミツが街灯の下を横切る度、影が足元をちらついた。その影が、さっきよりも近くにある。
「あんた、たぶんだけど、オレのこと美化しすぎ。オレそんな良い奴じゃないよ」
手首を掴まれる。じっとりと汗ばんだ腕を、すこし息の上がったミツが掴んでいる。
夏の夜、朝顔はしぼんで、いつもはきれいに張った花弁のふちを、畳み損ねてしわくちゃに、その筒から溢れさせている。朝顔の萎み方ってこんなんだったっけ。閉じた傘のようなほのかな膨らみの中に、睦み合う雄蕊や雌蕊を大切に抱えているのだろうか。
そういえば、この場所は。
一か月前の夜を思い出し、振り向く。ミツはじっと俺を見ていた。
「もう一度ちゃんと始めよう。オレはあんたと、たくさん話したい」
一歩、ミツが歩を進める。
とん、と胸にぶつかってきたその体を、扱いかねて、両腕をやるせなく垂らした。
抱きしめるでもなく硬直する俺の鎖骨の下に、ミツが額を押し付けてくる。
「大和さんが、オレに優しく甘くしてくれようとすんのも、嬉しいけど……そんなんいいよ。オレがダラダラしてるあんたを叱るのも、なんか、オレたちって感じすんじゃんか」
ミツが、俺の指に指先を絡めた。どくどくと打つ心臓の音が激しい。首の下が丸ごと心臓になってしまったみたいな緊張感と裏腹に、頭はやけに醒めている。ミツのつむじを見下ろして、また撮られそうだな、なんてどうでもいいことを考えた。
「逆に、オレがダメな時、叱ってくれんのはあんただろ。頼りにしてるし、頼られたい」
ミツが顔を上げた。
目が合って、その大きな目がまた泣き出しそうに潤んでいるのを知る。
ミツの両手が俺の手を握りこんだ。
潤んだ目と、震える息。
夜の住宅街、静かな空間、目立たないように抑えたミツの囁きが、耳にはっきりと届く。
「大和さんと、恋人になりたい」
じっと俺を見つめて、返事を待つミツが震えていることは、繋いだ手から分かった。
意を決して告げる。
「コンビニ、寄ろっか」
「コンビニ?」
「ビールとチューハイ。ロング缶で二本、買って帰ろ」
ミツの目が大きく開いた。
あの夜のこの場所。きっと、言わなくても、もう意図はわかっただろう。
「今、ここじゃ、できない返事、するから」
耳まで熱い。こんな顔見せたくない、と思うのに、繋いだ手は離しがたくて、見上げてくるミツの視線を逃れられない。
コンビニで酒を選んで、やっぱりビニール袋も買って、寮に戻る。その間、ミツは何も言わなかった。何も言わないのに、ビニール袋を二人で分け合うように持ち、ビニール袋越しに影を繋いでいた。俺から離れたくないと言うみたいに。
「今朝、なんでキスなんかしたわけ」
俺の部屋で。ベッドに並んで腰掛けて、缶を互いに打ち合わせ、一口飲む。ミツは俺の問いに、ちょうど俺を押し倒して唇をむさぼったあたりの床を見下ろしながら、恥ずかしそうにはにかんで答えた。
「泣き止んで欲しかったから……あと」
ミツがチューハイを床に置き、俺の手から缶ビールを抜き取る。
「泣いてるあんたがかわいくて、好きだってなっちまって」
「それ、俺がミツのこと好きじゃなかったらどうすんだよ」
「でも、好きだっただろ?」
 ミツが手首を軽く揺らして、缶の中にまだたっぷりと溜まったアルコールを確かめる。
「次はちゃんと、いいか訊くよ」
ミツの唇が、缶の口に当たる。ミツは、俺の飲んだ缶から、ビールを飲んだ。キスをしているみたいに、ミツの目が細くなる。
喉仏を数回上下させて、苦いその液体を飲み下し、ミツはとんと床にビールを置いた。
開いた瞳が、炭酸の苦味に潤んで見える。
肩に置かれたミツの手は、冷たく、少し、震えている。
「なあ、いい?」
口癖のような問いかけは、潤んだ瞳から涙をこぼす。さっき外では堪えていたくせに。本当に、この男は、涙脆い。
「泣くほどしたいの?」
「茶化すなよ……」
ぼろぼろと、長い下まつ毛をこれでもかと濡らしながら零れていく涙。
拭ってやりたくて手を伸ばす。頬を包んだ手に、ミツの手が重なった。
もっと強く、ちゃんと捕まえてて。ミツにそう言われている気がした。
うん。
もう離さない。
唇を重ねた。濡れた唇の端が、見た目のとおりにしょっぱくて、微笑んでしまう。
緩んだ唇のふちに、ミツの舌がぶつかった。
長い、長い告白だった。今日、この日までの一ヶ月は。今、目を閉じて、俺を求めている、涙脆い恋人のための。
俺は唇をひらいて、その侵入を許した。
どちらの舌の味だろう。小麦の苦さが口内で混ざる。
今夜は、雨は降らないらしい。

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