恋をしている
4.歌ううみどり
ベッドシーツに額を擦り付け、吐息する。息が詰まっては吐き出される、その合間に息を吸い込んで、鼻の奥で鈍く高い音を紡いだ。
「んっ……は、ぁ……ぐ、……っ」
横向きに折り曲げた体の中心が熱い。いつもなら両手を使って扱くところを、いまは片手で握っている。左手では、思う程の快感は得られず、そのことがいっそう喉を震わせた。
「はっ……はぁっ、……ぁっ」
汗だくで髪を振り乱し、ぎゅっと目を瞑って快感の波を探る。ささやかなさざなみを頭の奥に捉えているのに、その波は体の芯までは押し寄せてこない。
「きもちい、きもち、い……っ、ぅっ」
暗示のようにうわごとを呟いて、手の動きを早める。ゆるゆると育ち始めたその快感に、すかさず、右手の指を奥へ進めた。
本来は排泄器官である、排出専門の場所に、コンドームをかぶせた指を入れている。このために購入したゼリー多めのコンドームは、既にそのゼリーのほとんどをとろかせ、単なるゴムの皮一枚になっていた。
いま俺は、左手でちんこをしごきながら、右手で、尻の穴をまさぐっている。こんな姿、誰にも見せられない。
「くっ……ぅ、苦し……っ、う、ミツ」
ここにはいない男の名前を呼ぶと、幾分か、圧迫感が和らいだ。
左手の中の海綿体がまた質量を失いはじめ、くたりとその身を腹に預けてくる。ぺちゃぺちゃと水音をひびかせるそれを、鈴口を刺激して強引に勃起させた。
「は、ミツ……ミツ、そこ……もっと、ぁ……っ」
深夜、というか早朝四時の自室。ラジオの収録を終えて寮に戻り、シャワーを浴びて、俺は一人で自分を慰めていた。空想の中の、本来そこに触れるべき恋人の名前を、何度も繰り返す。
呼んでいるうちに段々と、快感を求めていたはずの脳に雑念が混じってきて、勃起していたはずのものまで、回復不能なほど萎れてしまった。
……今日も出来なかった。
俺がこうして、さして気持ちよくもない自慰に励んでいるのは、いつか恋人と繋がるためだ。
第一関節までしか進まなかった中指を尻から抜き、被せていたゴムを裏返して、縛って捨てる。指は念の為、制汗用のシートで拭った。除菌できるウェットティッシュやローションも買ってきた方が良さそうだと思うものの、なかなか行動には移せないでいる。
というのも、俺が一人せっせと準備に励んでいても、当のミツにその気がなさそうなのだ。そんなに急がなくていいのか、むしろ下手に後ろを覚えてからのセックスじゃ、玄人っぽくてミツは萎えてしまうかもしれない。考え込むほど、後ろの開発は進まず、むしろなかなか手を出す素振りのないミツに対する苛立ちさえ育って、自慰はいつも失敗に終わった。
付き合いだしてから、既にひと月半が経っている。改めて交際を始めてからの二週間、あの運動部はすぐに体を求めてくるだろうと、俺は暇さえあれば後ろを慣らしにかかっていた。それなのに、ミツは俺に戯れのキスを仕掛けるばかりで、深いキスさえさしてしてこない。俺が散々焦らした仕返しか? にしては、最近のミツは、俺の部屋を訪れてお休みのキスを交わすなり、ぱっと顔を赤らめて部屋に引っ込む。
男同士、俺がミツを抱く可能性だって考えた。けど、ミツの体が小さいから女役、と考えたと思われそうで嫌だった。さんざん逃げ回った俺にできる、ミツへの愛の証明は、これしかないような気もして。それに、あれほど俺を愛して抱きしめて求めてくれるミツに、めちゃくちゃに求めて貪られて見たいとも思った。
だというのに。
「ミツ、全っ然、抱く気ねえし」
中途半端にいじっただけの股間を、パンツをずりあげて収め、ごろんとベッドに大の字になる。
演じる役が意識不明の間、ドラマの撮影が一旦落ち着いて、今はそれ以外のバラエティや雑誌のインタビューの仕事が多い。一度、ラジオでミツと一緒になり、いつも通りの軽口を交わしたが、そのまま帰って酒を飲み、こちらからキスを仕掛けたところで、ミツは翌朝の仕事が早いからと部屋へ引き上げてしまった。
……男同士でセックスなんて、ハードルが高いのは分かる。それにしたって、ここまで急に求めてこなくなったのは、露骨すぎやしないだろうか。
朝起きてすぐの単なるキスは、これまで通りの習慣として続いている。しかしどうしてか、それ以上のキスは数える程しかしていない。舌を絡ませて、ミツの鼻から抜ける吐息で頭蓋骨を奮わされながら、夢中になって体を擦り合わせるキス……。やりたい盛りの二〇代男子が、恋人とそういうキスをしないのは、もう、好きじゃないということなのだろうか。
「あんだけ、好き好き言ったくせに。キスだって、毎朝してんのに……」
むなしい独り言を部屋の向こうに投げると、ちょうどゴミを回収する時刻になったらしいお掃除ロボットの武蔵が、うんうんと動き出した。
武蔵は、決まった時間にちゃんと掃除をしてくれる、勤勉なやつだ。……ひょっとして、ミツもこんなふうに、義務的にキスをしているのかもしれない。
「俺のこと、好きなんじゃなかったのかよ」
ごろんと横を向くと、ついさっきまで指を受け入れていた場所が、ごぷりと空気を含んだ気がした。指で尻たぶを広げて空気を押し出す。
こんな、恥ずかしいことまでしてんのに。
日々募る悔しさと疑念を、どうにかして晴らしたい。
俺は、俺の恋人がかつて取った策を踏襲することにして、仮眠をとった。
太陽はすっかり高い、時計が九時半をさすころ、その男は慌ただしく食事の片付けをしていた。
おはようのキスをするタイミングも掴めず、洗い物をするミツの隣で冷たい麦茶をあおる。ミツの体を囲い込むように、シンクのふちに両手をつくと、ミツは俺の頭を小脇に抱え込んで、洗い物を続けようとした。
「ちょっと、泡、鼻に着くから」
「ちょっかいかけてくる方が悪いだろー。おりゃ」
「やめてー」
わざと顔の前で皿を洗うミツに、くつくつと笑い声をあげると、ミツの腕がぱっと離れた。
「ごめん」
「いや、別にそんなに怒ってない……」
ミツは使い慣れたスポンジを扱いかねたように、しゅこしゅこと何度も握り泡立てる。
泡まみれの皿が何枚も流しの中に重ねられ、ミツの視線はそこに注がれた。気負ったような表情で、ミツは洗い物を続ける。その手つきがいつもより急いで見えて、シンクに片手をついたまま、ミツを見下ろした。こちらを見ず、熱心に皿を洗っているミツ。今日のおはようのキスはまだしないのだろうか。
「ミツもう出んの?」
「うん。前にさ、オレがしくじった時の芸人さんと共演するから、ちょっとお詫びで早く行くんだ」
「しくじったって、中継に回す時間遅くなったってやつ?」
「そう。あんたは気にすんなって言ってくれたけど、一応な」
「ミツはそういうの上手いよな。……なあ、あの時のバズーカ、まだある?」
「え? あるけど……捨てる訳にもいかねえし、ナギとかに見つかったら寮がえらいことになりそうで、ずっと部屋に隠してんだよな。使うの?」
「うん」
「何に?」
「野暮用」
「ふうん……洗いもん終わったら出してやるよ、飯食っちまえ」
「や、あとで俺が食い終わってからまとめて洗うよ。あとは置いといて」
「まじ? サンキュ」
ミツが白い歯を見せて微笑み、手に残る泡をさっと流した。エプロンを外すうなじに視線を注いでしまう。以前の……付き合って一週間の頃のミツなら、ここで、愛してるのひとつでも言ってきそうなのに。
少しの寂しさが胸をよぎる。気付かないふりをして、ミツの後ろについて部屋へ向かった。
「……ミツ」
「うん?」
「まだ?」
「何が?」
「……朝の」
ぼそぼそと、陽の光だけが家具を照らし出す部屋の中、遠回しにキスをねだる。ミツは頬をかきながら、向き直った。
「……あんた、前は別に、乗り気そうじゃなかったじゃん……」
「前は、ミツと付き合ってていいのかなって悩んでたからさ。今は……違うじゃん」
続ける言葉が震えないように、下唇を舐めて告げる。
「俺がいいんでしょ?」
自信ありげに取り繕うと、ミツは言葉に詰まったらしい、ああもう、と投げやりに頭を振って、俺の頬を片手で包む。ミツのまつ毛がゆっくり下がった。
その指先に促されるまま俯いて、体を少しかたむけた。背伸びをして、恋人が顔を近づけてくる。
やっつけ気味なキスはいつもより乱暴で、お互いの歯の間で唇の肉が潰れる。むちゅ、とおおげさな音を立てて唇が離れた。
「……終了! バズーカだよな、すぐ出すから」
よそよそしく体を離し、ミツがベッドの下を覗き込む。
バズーカなんて馬鹿馬鹿しくてらんぼうなやり口、俺には似合わないと思う。でも今起きている問題を解決する策が他に浮かばないのだから、仕方がない。
「ほい。好きに使っていいぜ。もとはオレのってより、百さんのだし」
百さんだってどこで手に入れたか知んないけど。
言い添えたミツの手から、重たいバズーカを受け取る。かなり作りが本格的で、まだ一度も撃ってはいないが、それなりの威力がありそうだ。
「ありがと」
お礼のつもりで頬を寄せると、ミツは気まずそうに視線をそらし、おう、そんじゃ行くから、と俺から離れた。
……お礼の頬ずりくらい、受け取ってもいいんじゃないの。
ムッとする心を笑顔の下に隠し、荷物を取って出ていくミツを見送る。
「行ってきます!」
「おー。行ってらっしゃい」
ミツの言い訳じみた言葉数の多さ。なんでもない会話も、なんとなくちぐはぐに感じるのは、俺の気のせいだろうか。
「……ぶちかましてやる」
普段なら、俺よりもミツが言いそうな物騒な感情をミツのベッドにぶつけ、ミツの部屋をあとにした。