恋をしている

自転車はぐんぐんと進む。海沿いの明るい道を、飛翔する鳥のつばさを追いかけて、どこまでも、どこまでも。
立ち漕ぎの背を風が撫で、じんわりと汗に張り付いていたシャツが、風をはらんでふくらんだ。
「きもちいーーー!」
両目をつぶって向かい風に叫ぶ。大きく開いた口、その歯に風が当たって、気持ちがいい。
風も気持ちいいけど、それ以上に、隣を走る人の存在がうれしい。
「そんな、口、開けたら……虫とか、入るぞ」
「オレ、口より目によく入る。うにょうにょしたやつとか」
「うえっ、やめろよ。俺は入ったことねえな」
「メガネでガードしてるからじゃね? メガネパワーだ」
「なんだよ、メガネパワーって」
「ハズキルーペ的な」
「物理的な強さなの? 虫そんな関係ないでしょ」
ぜえぜえと息を切らしながら、恋人は、律儀に冗談に応じてくれる。日頃からスポーツをしている訳では無い大和さんは、オレのスピードに着いてくるのが大変らしい。こりゃ明日筋肉痛だわ、と苦くつぶやく。
「明日?」
「誰がおっさんだ。ちゃんと明日には来ますから、筋肉痛。多分」
「多分じゃん」
笑い出すと、清冽な空気が胸を満たす。吸い込んだ清らかさが体を動かして、恋する相手と共に走る道路の照り返しが眩しい。いっそうの幸福感に、また笑う。
「楽しそうじゃん」
「楽しい! 大和さんは?」
「チャリがきつい……」
「おっさん!」
「おっさん言うな! まあ、ちゃんと楽しいよ」
「だよな!」
きゃっきゃと話しているうちに、カメラチェック入ります、の声が響いた。
芸能人がペアで自転車で日本全国をリレー、みたいな番組の、南房総を担当することになったのは、オレと大和さんだった。番組の最後で出演番組の番宣ができる。大和さんはドラマ、オレはあいかわらずバラエティを宣伝する予定だ。不仲を噂されることさえあるほど、オレと大和さんは、仕事ではそれほど縁がない。
たまにラジオなんかで一緒になることがある程度で、それも芸人さんやMCの人と一緒にだから、二人きりというのはほとんどないことだ。
それもあって、余計に浮かれている。ちょっかいをかけては呆れたような声を返される、でもその声に確かに喜びが滲んでいて嬉しい、そんな会話を繰り返しながら、自転車を漕いでいた。
「海が見えるのがいいよな」
「海だっつって大はしゃぎだったもんな」
「おう! なんかワクワクするんだよな! 晴れてるし、すげえ眩しくて綺麗でさ!」
海側を走るオレに視線を移し、大和さんは微笑んだ。
「ほんと、眩しいよ」
緩めた視線は海ではなく、オレに注がれている。手汗でグリップが滑りそうになり、バーを握り直した。
「口説いてんの?」
「今夜はさっぱり系がいいなあ」
「南蛮漬けと酢の物だぜ。昨日陸と一織がとってきた鮎があるから」
「お、いいねえ。魚なら、この前ミツが百さんと釣ってきたヒラマサも旨かったよな。南蛮漬けも、酒が進みそう」
「刺身にしたやつな。腹に肉つくから、酒はほどほどにしとけよ。夏は脱ぐんだからさ」
「はいよ」
気のない返事で応じる大和さんもTシャツを風に煽らせ、その下の意外と鍛えられた身体を惜しげも無く晒している。この分なら心配は要らなさそうだ。
「まあ、あんた、オレのメシすげえ美味そうに食ってくれるから、オレも嬉しいけど。大好き」
「……口説いてんのか」
「口説いてる! 次の自販でスポドリ奢ってもらおうかなって!」
「野郎……オレンジジュースじゃなくていい?」
「子供扱いすんな!」
こうして交わし合う言葉の強さが、不仲と言われる所以なのだろうか。それでも次から次へ、伝えたいことが溢れてくるくらいに、オレも大和さんもお互いを大好きだ。
ファンの子以外の、オレ達の番組を見てくれてる人にも、それが伝わったらいいな。俳優の大和さんの印象が強い人には、大和さんがこんなにうだつの上がらなさそうな振る舞いをする人だなんて知られていないだろう。もっとかわいい人なんだって知って欲しい。オレの大好きな大和さんを、もっとみんなに大好きになってもらいたい。
先行する車の窓からカメラが飛び出してくる。撮影再開だ。
「よっしゃ! 次の自販まで競走!」
「は? 絶対勝てないんだけど……」
「大和さんが買ったら、今夜はお酌してやるぜ」
「負けたらしてくんないの?」
「うーん、スポドリ奢りでチャラ?」
「それ勝っても負けてもいいじゃん。いいよ、平和に行こうぜ」
「えー」
「スポドリは奢ってやるから。ほら、もうすぐそこじゃん」
じりじりと照る日差しの下、見えてきた赤い筐体に、自転車を漕ぐ速度をゆるめる。
隣を、同じ速度でその人が進んでいることが嬉しい。
仕方なさそうに笑う、大和さんの顔が好きだ。
この人、オレを好きなんだって、思いきり抱きしめて、愛してるって言いたくなる。
海辺に突き出した崖のようなところに自転車を停めて降り、ガードレールの下に山になったテトラポットを見下ろす。
「ほい」
ポケットの札入れから千円札を出して、大和さんはがしゃんがしゃんとドリンクを続けて買った。お釣りの小銭まで、オレの手に渡してくる。
「何だよこれ」
「持っといて。小銭、重いから」
「こんなのちょっとじゃんか。七〇〇円くらいだろ!」
「六八〇円。全部百円玉と十円玉なんだもん。めちゃくちゃ重いわ」
「か弱いなー」
「お兄さん、繊細なんだ」
大和さんが、あちい、と呻いて、シャツをずりあげて口元の汗を拭った。腕をまくってタンクトップ状にしたTシャツは、二人ともすっかり汗で体に張り付いてしまっている。
オレも、立ち止まった途端額に吹き出してきた汗を、腕で拭う。ズレたヘアバンドを直していると、大和さんがその場に座り込んで、空を見上げた。ばさばさと裾を揺すって風を送る手つきも気だるげで、もうかなり疲れていそうに見えるのに、気持ちの良さそうな顔をしていた。
二人してぱきりとペットボトルを開け、乾杯する。ぼごんと鈍くぶつかったボトルを口に運ぶと、オレも大和さんも、まるきり同じ速度で半分一気に飲みきった。
トラックが、濁った空気を引きずりながら過ぎた。
「そういや、鳥の声、聞こえないな」
大和さんが空を見渡しながらつぶやく。同じように隣に腰を下ろして、両手を体の後ろに着いた。さっき追いかけていた鳥は、もうどこかに飛んでいってしまっただろう。確かに、声は聞こえてこない。
「海鳥って歌わないんだな」
「鳥の歌か。ホーホケキョみたいなやつだよな? 百さんも言ってたわ」
「その鳥、なんの鳥だっけ」
「ウグイスだろ。春の鳥だな」
「ふうん……夏は鳥より蝉が鳴いてるから、もし鳥が鳴いてても聞こえないとこあるよな」
「鳥も鳴いてるんだろうけどな」
「蝉の声がうるさくても、鳥って歌に気づけんのかな。あれ、求婚してるんだろ」
「気づくんじゃない? 蝉は蝉で求婚して、生き物って必死だよな」
「気持ちは、分かんなくもないけど。手に入れたいもんのためにがむしゃらにやんの」
テトラポットに波が打ち付け、引いていく音がする。白い潮が荒々しく立ち、青い水面を乱しているだろう。ぎらぎらと暑い陽射しを受けて、大和さんが立ち上がった。少しだけ傾いた三時過ぎの陽射しの下、大和さんの影に飲まれる。
「じゃ、お兄さんも頑張りますかね。うまい夕飯のために」
「おう! オレも頑張ろ」
つられて立ち上がると、日差しが顔にさして眩しい。目を細めてやり過ごすオレを、大和さんはじっと見ていた。なにか納得したような面持ちのまま、呟く。
「ほんとに俺ら、同じ顔してんのかもな」
「え? 何が?」
「なんでもない」
「んー? まあいいや。あと半分くらい進めばゴールだよな!ちゃきちゃき行こうぜ」
伸びをして、スタッフさんに渡されたグローブを填め、再び自転車にまたがった。大和さんも同じように、レギンスの脚をペダルに掛けて、ぐっと漕ぎ出す。
立ち漕ぎで先を行く大和さんの後ろ姿、隆起した筋肉のしなやかな動きに、口角が上がった。
やっぱ、オレの彼氏、かっこいいな。
「よっしゃ! 行くぜー!」
腹の底から叫ぶと、大和さんが首だけで振り向く。眉を下げ、オレの大好きな仕方のなさそうな笑顔で、はいよ、と応じた。
その笑顔で、今朝、大和さんがオレに約束してくれたことがある。収録、早く終わらせて、早く帰って、それから。
今夜、『初めて』をしよう。

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