恋をしている

◼️恋をしている

プロローグ

雨上がりに、躑躅の、噎せ返るように濃い匂い。
咲き乱れるピンクの花々が雨に落ちて、地面の隅を華やかに暗く彩っていた。
無惨に踏みにじられて追いやられた花々ほど、こんなにも濃く匂うのは、何となくわかる気がした。
「街中って感じのにおい」
隣を歩くオレンジの髪の青年が呟く。青年と少年の中間のような体つきや顔立ちをして、けれど決意や苦しみをいくつも越えてきた青年は、いつも大きく声を張る。
彼が今日、いつにもなく小さく、穏やかな声で話し始めて、俯きがちに歩くのに気づいていて、大和は軽く目を閉じた。気づかないふりを、もう何度もしてきた。この男の隣で。
「お兄さんは逆かな。田舎の匂い」
「あんたはそうかもな。オレは今帰ってきたから」
閉じた傘を軽く振って、大和より少し目線の低い青年は、大和を見上げるでもなく、前を向きながら言った。
アイドルとしての活動も安定し、メンバーたちはばらばらに仕事に行くことも多くなった。三月は今日、地方のロケから戻ったばかりで、たまたま用事で外出していた大和と、コンビニで落ち合ったのだった。
ポケットに突っ込んだ大和の片手には、五円で買ったレジ袋に、数百円のビールとチューハイが一本ずつ。ビールは大和が、チューハイは三月が選んだ。久々に夕食を共にする今夜、乾杯するつもりだった。
「大和さんにさ、帰ったら、言いたいこと、あって」
「レジ袋いちいち買うなって?」
「違えよ。それもまあ、マイバッグ持ち歩けばいいじゃんって思うけど」
「恥ずかしいじゃん、レジでごそごそ荷物詰めんの」
「後ろも並んじまうし、店員さんの気持ちになるとレジ袋買っちまうよなー……じゃなくて」
わざとらしく話題を逸らした大和を、三月が咎めるようにちらりと見る。
眼鏡の奥の目が余裕ありげに緩むのを見て取り、三月はムッとしたように唇に少し力を込めて、前に向き直った。また傘を振って水滴を落とそうとする三月に、大和は小さく吐息する。三月の傘は、三月に振られすぎて、落とす水滴ももう僅かだ。
「今、ここじゃ、できない話?」
「してもいいけど……できないかな」
「ふーん」
もう他のことに興味を移したように、大和は唇をとがらせて、斜めに視線を逸らして応じた。
見てしまった。言い淀む三月が、きりと眉を上げて、少し頬を染め、なにか打ち明ける前の不安げな期待に満ちた眼差しを、ひたと前に向けているのを。
何を話すつもりなのかはすぐにわかった。
傘を揺すると、水滴がばたばたと落ち、大和のズボンの裾を濡らした。濡れたところが濃く色を変え、大和の肌を冷やす。
すぐに乾いてしまう染みも、いつか消えてしまう匂いも、上がる雨も。
全てがいつか終わることを、大和に告げていた。

長い脚が部屋を数歩で横断し、三月の視界に割り込んだ。腰の位置がどうこうと本人はぼやいてみせるが、実際に並んでみるとその脚は長く、ほどよく筋肉もついて男らしい。筋張った、いつも通りの無骨な裸足を、三月はただ見下ろす。
俯いたまま答えない三月に、その人は、何を言うでもなく、さきいかをかじった。
沈黙が続く。
三月が何も言えなくなったのは、何の用、と問いかけてきた大和の声が、張り詰めて聞こえたせいだ。
大和は、コンビニで買ったロング缶を二本、冷蔵庫から持ってきていた。三月は買い置きのさきいかと簡単なつまみを用意して、部屋のちゃぶ台に並べて待っていた。いつも通りの部屋飲み。いつも通りの時間。ここ数ヶ月、仕事が忙しく、いつも通りなんて訪れなかった。けれど、一度約束してしまえば、昨日の続きのように大和は部屋を訪れるし、三月も料理を用意する。
部屋に現れた大和は、もう既にビールを開けて飲み始めているらしかった。
「……話、あるっつったじゃん。しないの」
大和が、缶に口をつけながら、三月のベッドに腰を下ろす。テレビはつけていなかった、ベッドが大和の体を受け止める音がいやに大きく聞こえて、三月は胸を押さえた。
あ、これ、やばいかも。緊張してる。
……しっかりしろ。手に入んないかもしんないもんを、それでも欲しがり続けんの、お前は得意だろ。和泉三月。
「うおっ」
喋り出さない三月の頬に、大和がぴとりと缶を当てた。無言を取り繕い、三月はチューハイの缶を受け取る。
アルコール度数は普段飲んでいるビールとさして変わらないが、ビールよりは甘いそれを選んだのは、もし求めたものをつかめなかった時、それでも、と、自分を鼓舞するためだった。
これはオレの覚悟なんだ。
プルタブに指をかける。プルタブを引く動きにさえ手間取る三月に、大和が手を重ね、小さなタブを二人で引いた。
「あはは、すげえ小さい子どもみてえ。昔、まだ一織が缶開けらんなかった頃、一緒に開けてやってた」
「お前さんとこは四つも違うもんな。ミツはいい兄ちゃんだし」
「……褒めんなって」
声が震えないことに安堵して、三月は缶を口に寄せた。ひやりと冷気が唇を誘う。誘われるまま、喉を鳴らして一口飲んだ。
「ぷはー!」
「おっさんくさ」
「仕事終わりの一杯には誰だってこうだろ」
いつもの調子で笑う三月に、大和がほっと息をついた。
……大和さんも、緊張してる?
よく考えれば、大和はいつもウキウキと三月の隣にあぐらをかき、三月と共に缶を開け、二人手にした缶を合わせて打ち鳴らしてから飲んでいた。一口目、といっても三度ほど喉を鳴らして一気に飲む仕草も二人同じで、こんな風に違うものを違う飲み方で飲むのは、ほとんど初めてかもしれない。
なんだ。そっか。
三月は、缶を手にしたまま立ち上がった。
「大和さん!」
「なっ、に」
大和の声が一瞬詰まる。突然立ち上がるなり自分を振り向き、手首を掴んできた三月に、露骨に身を強ばらせているようだった。
ああもう。
今から何されんのか分かってんじゃん。
分かってて、緊張するから、ちょっと酒入れてから来たんだろ。全然目も合わせねえし。
……ほんとさあ。
「ちょっと、外出ねえ?」
「……外じゃできない話、つってたじゃん」
「もう一時回ってんだし、誰もいねえよ。通りすがりの人に何か言われたら、魔法の呪文で乗り切ればいいし」
「あー、はい。撮影ね。行きますよ……」
「ほんとに仕事行く前みたいな声出すなって」
「仕事より……」
何か言いかけた大和が自分の口をビールで塞ぐのを見て、三月も同じようにチューハイを飲んだ。
いつもは、一杯目ですぐに眠くなる。でも今日は眠る気も起きないほど、気持ちが高ぶっている。
握りしめた缶は冷たい。けれど、大和の手首を掴む手は、じっとりと暑かった。
「オレも緊張してるから。夜風当たろうぜ」
大和は胡乱げな目付きで、三月の手を払った。箸を取り、三月の作った梅ときゅうりの和え物を口に含んで、立ち上がる。それからもう一口食べたくなったらしい、また身を屈めて、今度は指でそれを食べた。
大和の唇が、ちゅう、と、指に残った梅肉に吸い付く。ため息がすぐあとに続いた。まあいいか、と自分を宥めるようなかすかな息。
「一杯分くらいなら、付き合いますよ」
付き合う、という言葉に動揺して、三月は慌てて笑った。不自然に大きな笑い声に、大和が顔をしかめる。
「あいつら起きるっての」
「あー……ごめん。行こ」

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