恋をしている

6.恋をしている

 死んでしまいそうなくらいの幸福を、裸足の足裏に受け止めて。離れゆこうとするその波を追いかけたいのに、目の前の遂げの地面を踏みしめるのが怖くてためらった。
そのためらいをものともせず、また波が押し寄せて来て、俺のすねに当たって弾け、一度分かれた水の流れを、俺のふくらはぎで結ぶ。
脚の下では透明な水が、向こうでは真っ暗に青く色を深めて、その下を見えにくくしていた。向こう岸なんて見えそうもない。望んで求めれば求めるほど、果てのない向こうへと俺は進むことになって、引き返すことも出来なくなる。
それならいっそ動かない方が、と思っていたはずなのに、気づけば俺は、寄る辺のない大海原の真っただ中に、ぽつんと浮かんでいる。
向かうべき方角もわからないまま立ち泳ぎを続けていると、上空を、飛行機雲がまっすぐに伸びた。そうだった、歌う鳥を追いかけて、いつの間にかこんなにも進んでしまったんだ。
思い出して、また泳ぎ始める。あの雲の続く先に陸がある。その陸地から、飛行機の苦手な恋人が、俺を求めて泳ぎ始めているはずだ。
夢の中の心地よい確信に身をゆだね、一心に泳ぎ出す。こんな風に上手に泳げるのも夢の中だからだとわかっているのに、まっすぐに伸ばした手で水を掻いて、両足で水を蹴って進んでいくのが楽しい。
なんだ、海なんて、大したことなかったな。
あんなに怖かったのに。
もう、踏み出すのを恐れていた岸すら、振り向いても視界にない。
あの岸を、俺はどうやって踏み出したんだっけ。
「……さん」
 誰かが俺の肩を揺する。泳いでいるのに揺すられたから、体勢を崩して沈みそうになる。慌てて伸ばした腕を誰かに掴まれ、目を開けた。
「二階堂さん。お疲れのところすみません、雨が降り出しそうなので、休むならバスの中でお願いします」
「あ……いや、大丈夫です。降り出しそうなら、もうすぐ俺のシーンですよね」
 瞬いた目に、ちょうど雨の雫がかすめる。
ドラマ撮影ももう終盤だ。晴れたラストシーンは、昨日すでに撮り終えている。雨の日を待って、ラスト、主人公を鼓舞するシーンへ一気に撮り切ろうという頃、俺はうっかり公園のベンチで眠ってしまったらしい。
六本木ヒルズと住宅街の間にある、ロボットを模した人形がいくつも並んだ公園。ここは、主人公が愛する人を誤射し、誤った捜査を進めていた捜査本部への憎しみを心のうちに生んだ、主人公の復讐劇のきっかけとなった場所だった。
主人公の男を演じるのは、俺より五つ上の、舞台出身の俳優。婚約者と共にエリート街道を驀進してきた二十三歳の警察官らしく、年のわりに若々しい顔つきで、意志の強そうなきりりとした眉をしている。しかし、ぷくりと浮かぶ涙袋の深さに、苦労がにじんでも見える。
事件をきっかけに復讐鬼となったその男が主人公ではあるものの、俺の役も、その男の婚約者が遺体となった頃に解剖医として事件に携わっているため、一話から主人公に謎めいた情報を提供する男として出番があった。作品の視聴者から『ラストシーンの大和』みたいな妙なあだ名で呼ばれるほど、ラストの引きとなるシーンで、主人公に不穏な影をにおわせる立ち位置だ。五話までは明るくしっかり者の先輩として新卒の面倒を見ていた主人公が豹変したころ、ようやく俺の出番が増え始める。
男の復讐への決意を悟りつつも止めずにいた俺は、主人公の本質的な明るさを惜しみ、主人公を止めようとする。しかし最後の情報を伝えに訪れた主人公の部屋で引きずり倒され、ベッドに頭を打ち付けて昏倒、それがきっかけで主人公の裏切りが白日の下にさらされた。
脇役とはいえ、いま撮っている最終話でも、それなりに重要な役割だ。俺の役柄は主人公より五つ年上、二十八歳の司法解剖医。難しい言葉の多い役で、役作りのためにいくつもの知識を頭に詰め込むせいか、疲労は大きかった。
「はい……本当に大丈夫ですか?」
「はい。すいません、心配かけて。いつもは元気な奴らと歌って踊ってる仕事なんで、そっちの方が疲れるくらいですよ。大丈夫です」
 スタッフのネームタグを提げた男性に頭を下げ、差し出された傘を断る。どうせこれから濡れるのだ。
 主人公の復讐の原点となった場所で主人公に再会し、恨んでいない、もう自分には大切な仲間がいて、その仲間と話す喜びをくれたのは、励ましてくれた主人公だ、と告げるシーン。
君の明るさはみんなを助けている。それは偽りではなく、生来持っていたものだろう、それを君に残したのは彼女じゃないのか、君は彼女の名を穢すのか、と俺が言及する。
次第に強まる雨の中で、裏切り者として多くの同僚に追われる主人公は、俺をまたつき飛ばそうとする。俺はその手にメスをつきつける。
もうこんなことやめよう。僕も君を刺したくない。人を傷つける覚悟をするたび、傷ついているのは君なんだ。きみの愛する人は、君の中で生きている。きみに与えられたものは、きみが覚えていないささいな記憶も、すべてきみを作る骨になっているんだよ。
頭の中で、大体の展開をなぞり、目を閉じる。目を開けば、俺の眼差しは、生者との触れ合いに疲れ遺体に逃げた心を仲間に溶かされたばかりの司法解剖医のものになる。
解剖医の愛飲するヨーグルトドリンクの味わいが、奥歯のあたりに浮かんでくる。
……よし。
撮影は滞りなく進んだ。カット、の声が響くまで、土砂降りの雨に自分の体が冷え切っていることに気づかなかったほど、演技に熱もこもっていたらしい。水を吸って重たくなった白衣を脱ぐとき、向けられていたカメラにウインクを投げる。あのカメラはきっと、NGカットや、番宣に使う動画を撮っているはずだ。
こういう営業活動がのちに実を結ぶってね。
俺にそんな考え方を叩きこんだのは、商魂たくましい自営業の長男と、うちの社長の愛娘である俺たちのマネージャーだ。大きな目をくりくり回して仕事に励む、俺たちの優秀なマネージャーは、今日はその洋菓子店の息子の仕事について、雑誌にバラエティにと現場を飛び回っているはずだ。
ミツとマネージャー、一緒にいると、まあお似合いだよな。身長差もいい感じだし、ちょっと馬鹿正直でからかいがいがあって勉強熱心で愛情深くて、性格も似てる。かわいい女の子と過ごしてたら、ミツも俺のことなんか、どうでもよくなったりして……。
冷えた体では余計なことばかり考える。この前、浴衣で花火をしたとき、男っぽい頼りがいのある顔つきでマネージャーに笑いかけるミツが、俺に話しかけるよりずっと精悍な面差しに見えたせいだ。
濡れた衣類は、いっこうに乾きそうにない。もう、ミツをそんなに好きじゃないふりが出来た頃には戻れないのに。
「……馬鹿馬鹿しいよな」
呟くと、夏だというのにハイネックのリブニットをまとった体に、どん、と軽い衝撃。人の肌のぬくもりが背中に伝わってくる。
 主人公役を演じている男だった。
「何が馬鹿馬鹿しいの?」
「あ、いや、ひとりごとなんですけど。人間ってやつはと思ったんで」
「愚痴? 俺、大和くんの愚痴聞きたいな。面白そう」
「面白そうって……野口さん、からかってます?」
「いや。大和くんって、メンバーにも愛されてて、演技の才能もあって、業界に知り合いも多くて、俺みたいな小さい劇団からドラマに転向した俳優とは生き方が違う人だと思うからさ。どんなことに何を感じるのか、興味あるんだよね。今夜、クランクアップしたら飲まない?」
「この前飲んだじゃないですか」
「飲んだけど、あの時はみんないたじゃん。二人がいいな、あんまり話せなかったの、心残りだったんだ」
 カットの合間合間で入る休憩のたびにスキンシップが多いのは、険悪な役柄の印象を俺に持たれたくないからだと、以前の飲み会で聞いていた。この業界自体も、演技の経歴も長い人らしく、世渡りが上手い変人というか、人懐っこいのに値踏みするような視線をはばからないところがある人だ。それでいて面倒見はいいほうで、自分の都合をごり押しするような言い方で人の苦しみを取り去ってやるのが上手いタイプ。俺から関わりに行くような人間ではないが、嫌いな人間ではない。
「まあ、いいですよ。二時間くらいでよければ」
「ひょっとして家帰るの久々? あ、寮暮らしだっけ。いいよ、一時間で。メンバーの子たちも大和くんが早く帰ってくる方が嬉しいだろうし」
「そんな、単身赴任の親待つ子供じゃないんですから」
「でも喜んでほしいでしょ? みんな大和くんのこと大好きなの、俺も知ってるし、心配しないで。じゃ、また後で! 風邪ひかないようにね」
 男が離れていって、撮影がまた再開する。スタッフさんにタオルをもらい、少し先の出番に備えて衣装を替える。
あれよあれよと飲み会の算段が着いてしまった。あっという間に、一時間くらいならいいか、という気にさせられたのがおかしくて、着替えながらちょっと笑ってしまう。そんな風にくるくると会話を運ぶのが上手い男のことが頭に浮かんだ。今日は帰りが遅くなることを、伝えておかなければ。
二十一時過ぎ、無事に全てのカットを撮り終え、花束をもらって、拍手の中で現場を後にする。飲み会と称して入ったのは大衆向けの焼鳥屋だった。と言っても、線路のガードの向かいの細い路地で、路地に面するビニール屋根の下に透明なビニールを垂らしただけの、カウンター六席しかない焼鳥屋。有名人のサインを飾るような壁もない。
「こんな店はあんまり来ない?」
「まあ、うちは大所帯なんで……屋台のおでんとかは好きです」
「ならきっと気に入るよ。サクッと飲んで大事なことだけ話すにはちょうどいいんだ、ねえ、おやっさん」
 優男の微笑みに、親父さんが全く返事もせず、ドン、とジョッキを二つ置いてきたことも好感が持てた。注文もしていないのに、一杯目は生ビールと決まっているらしい。そのあとも、注文していない串が何本か、タレと塩で出てきた。たしかに、サクッと飲んで大事なことだけ話す、にはもってこいの店のようだ。肉も柔らかく炭火の香りが絶妙で、濃厚なタレと香ばしい塩の組み合わせの串に、つい次々と手を伸ばしてしまう。
 旨い焼き鳥と酒が喉を滑らせ、俺はいくつものことをその人に話してしまった。かつて俺の隠し事が原因で大喧嘩をしたメンバーがいたこと。メンバーのことが大切なこと。そんな奴らに嫌われたくないということ。その一人が別の誰かと仲良くしているときに、間に割って入るような真似をしてしまったこと。
野口さんは興味深そうに俺の話を聞いていた。そのくせ、余計な口ははさんでこない。気分がよくなって、俺はもっと話した。
あいつらには俺よりいいメンバーがいるのかもしれないけど、俺はもうあいつらと七人でいることしか考えられないから、一生懸命頑張って、IDOLiSH7でいたいんです。最初は、やめたって言い、むしろ嫌なことをぶち壊しにする道具だくらいに思って叩いた扉だったけど、もう、壊すなんて考えられない。
もしもう一度、生まれ変わるとしても、俺は二階堂大和を選びたいです。
そんな話までするつもりはなかったのに、野口さんはほほ笑んで聞いていた。気づけば約束の一時間が経ってしまっていた。
「一時間、経っちゃったね。メンバーの子には伝えてあるの」
「ミツに、晩飯要らないって、言ってあります」
「三月くん。話したことないな。俺と飲むって言った?」
「言いました」
「そっか。なら、帰してあげなきゃ、嫉妬されちゃいそうだ」
「はは、そんな奴いませんよ。あいつら、好きなもんは人に分けてやりたいってやつばっかりで、独り占めして逃がしてやらないみたいなタイプ、一人も……いや、タマとソウは独り占めされたがるタイプかな……」
「環くんと壮五くん? メンバーのこと大好きなんだね」
「そう見えますか?」
「だって、嬉しそうに喋るから。ああ、タクシー来たみたいだ」
「呼んでくれてたんですか」
「うん。大人気アイドル、電車に乗せるわけにもいかないし。俺はもう少し飲んでいくから、ここで別れようか」
「勘定、いくらでしたっけ」
「いいよ。ここ、大和くんには悪いけど、すごく安いお店なんだ。次回、お高いお店、割り勘しない?」
「わかりました。ごちそうさまです。すげえ美味しかったです」
 こりゃモテるな、と手際の良さに感服しつつ、店主の親父さんに頭を下げると、親父さんはほんの少しだけ口角を上げたように見えた。
「次はメンバーと来ます」
 笑いかける口の端が、俺の方はもう緩みきっていて、野口さんに笑われる。
「そんな嬉しそうに帰ろうとされると、妬けちゃうな。また次回、絶対だよ」
「はい。それじゃ、お疲れ様です」
 アルコールのためか、大きな仕事を成し遂げた達成感か、予想外にいろんな話を吐き出せたことがよかったのか。体がふわふわと軽く、タクシーの運転手に目的地を伝えたとたん、俺は眠りに落ちてしまっていた。
 目が覚めたとき、車は寮の前に停車していた。後部座席の俺の体に乗るようにして、誰かがタクシー代を精算する。
「ほら、大和さん。しっかりしろって。一時間でそんなに飲んだのかよ」
 掛けられたやさしい声は、大好きな恋人の声。
「あ……ミツ、ただいま」
「はい、おかえり。って、まだ車ん中だけどな。水飲んで。立って歩ける?」
「平気、酔ってはいないよ……っと」
「寝たから酒回ってんだよ。足ふらふらじゃん。すんません、ありがとうございました!」
 ミツが俺の脇に肩を入れ、ろくに立てない俺を支えて、車から連れ出した。ミツに持たされたペットボトルは蓋が外してある。ぐびぐびと喉を鳴らして飲むと、熱い頭に水分が染みわたっていった。
「そんな飲まされたの?」
「いや、野口さん、飲ますような人じゃないから。俺がペース早く飲んじゃっただけ……」
「ふーん。ま、いいや、入ろうぜ」
「タクシー代……」
「いいよ。あんたの彼氏、オレだし」
 ミツが、どこか怒ったように素っ気なく言い捨て、俺の腕を引いて歩き出す。ミツが玄関のドアを肩で押し開ける時、ふわりと何かの花が香った。夏の甘い匂いがする。
 いつの間にか雨はやんでいた。雨上がりの暗闇に白く丸く咲いたクチナシが、濃い匂いを放っているらしい。咲いたばかりの花は、激しく雨が降ったというのに、まだ散りそうにない。
「大和さん」
 急かすようにミツがつぶやく。外を眺めていた視線を部屋の中に戻して、玄関に立った。撮影の時には濡れて冷えていたはずの髪も体も、すっかり温かい。酒で温まった体を、ミツが抱き寄せてくれているから。
「へへ」
「何」
 思わず笑いがこぼれていたらしい。怪訝そうに聞き返され、俺はミツの方へ頭を傾けた。
「好きー」
 思ったより大きな声が出た。それも気にならないくらい、気分がいい。ミツがあんぐりと口を開いて、大きな目を瞬かせるのも、おもしろい。
「さっさとシャワー浴びちまえ。あんた煙いし、陸が困るだろ」
「うん」
 慌てたように、ミツが俺を脱衣所へ連れ込み、体を離した。もうまっすぐ立てるくらいには回復している俺に、ミツのきつかった目尻が和らいだ。着替え取って来てやるから、と俺の部屋へ向かう。
 蓋のないペットボトルの水を、すべて飲みきってしまってから、服を脱いだ。

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