恋をしている
*
海辺に。
かすかだった呼び声が確かにひびき始め、その声に、風が喜ぶようにうなる。
重ねて着たシャツが風にあおられ、はためいた。
とげとげと、波の下にいくつもの漂着物が突き出す大地を踏みしめる。これ以上進めば、きっと足の裏にいくつもの石やガラスが刺さって、痛い。
風を切って飛ぶ、上空のウミネコを見上げ、振り向こうとしたとき、背中に衝撃。
ばしゃん!
とっさに着いた両手の下には、やっぱり貝殻の破片が落ちていた。
けれどその破片は波に削られ、手のひらを傷つけるほどではなかった。
押し寄せた愛が、溺れるほどの恋が、俺の中に鋭く育った置き去りの悲哀を癒す。悲しみだと、痛みだと思っていたものは、角を削られてから見ると、ずいぶんきれいなものに見えた。立って高いところから見ていた時は、見えなかった貝殻の光。
器用に両手両足を絡めて背中に抱きついたままの恋人に、一泡吹かせてやろうと、俺は水面に勢いよく手を突っ込んだ。
ばしゃ、ばしゃ!
せわしなく両手を動かして、思い切り顔を洗う。塩気が目にしみた。
ちょ、ばか、やめろって。大和さん……。
しぶきを受けて、楽しくてたまらないと、背中の男が喉を鳴らす。濡れないようにうなじに唇をひっつけて話すもんだから、思ったよりずっと声が近くに聞こえた。
「大和さん」
これは夢だ。
この声はきっと、現実で俺を呼ぶミツの声。
気づきながら、俺はもう一度、海辺を見渡した。立ち上がって、背中の重みは消えている。代わりに、俺の足はすこし小さめのスポーツサンダルを履いていた。ウミネコがもう一羽来て、むつみ合うように飛んでいる。
踵から流れ込んでくる砂粒は、足を上げると、きらきらと星のように流れて、水面に落ちた。星屑を受け取って、波紋を広げた水面が、やがて凪ぐ。
この砂粒の一つ一つを、この海辺に、注いだだれかがいたことも。
溺れるくらいの塩辛い水を、体に、まぶたの下に、暗い底まで渦巻かせた夜も。
貝殻がやがて砂粒の一つになるほど小さくなったら、俺もいつか、だれかの海に、波にさらわれる誰かの不確かな足下に、砂を足してやりたい。
そんなことが、俺にできるのかな。
見れば、水平線の向こうに船影があった。見覚えのある船だった。
これで飛行機もあったら笑えるな、と見上げた空に、飛行機雲。振り返ると、見覚えのある車が停まっていた。ああもう、走り出せそうだ。
白い左ハンドルの車に向かって歩き出せば、ざっと波が引いて、代わりに脚の下にはしっかりと湿った大地が拡がっている。
歩く度に、左右に花が咲く。色とりどりに、誘うように、赤も黄色も紫も、紫陽花の水色、深い紺色のスイートピー、オレンジ色のアイスランドポピー。虹色をした揚羽蝶が目の高さを横切り、俺の数歩先を行ったと思えば、急にひらりと折り返す。
そんなメルヘンな夢を見る性質だっただろうか。俺の夢なんてもっと暗くて、四角くて、狭くて、どろどろと呼吸を止めに来る、埋もれるほどの憎しみの密度、目覚めるとびっしょりと寝汗に背が濡れて、舌打ちをして目覚める──。
乗り込むべき席は分かっていた。ドアを開いて、車に乗り込む。
当たり前のように声が充ちた。
ごめんなさい、服乾きましたか?
お弁当のおかずを一品変えてください。
歌ってる時の、エロいのが、いんじゃね。
実は、きょう王様プリンさんの絵画を集めた展覧会があるんです。
ワタシ、涼しいところに行きたいでーす!
どこかで聞いたような言葉と、そんなこと言うやつだったかな、と苦笑してしまうような言葉が、つぎつぎに耳に届く。記憶が空想を紡いで作り上げた五人は、本人ではないはずなのに、思い思いに、それらしい動きをしている。そこに生きている五人をみとめられるほど、長く、近く、そばにいた。
はいはい、と宥めながら、窓を開けた。綺麗な横顔を外に突き出して、遠くを眺めているそいつを見たとたん、急に全ての音が遠のく。
立っているのは、また海だった。でも海の底らしい、その割に呼吸はできるし、マグロと鮭とタコがすいすい泳いでいる。タコってあんなにしゅっと鋭くなって泳ぐんだな、と見送ったあとに、なぜか醤油さしがついてきた。
そんな光景を見たら真っ先に声を上げそうなのに、そいつは何も言わない。海の底では息が出来ないと、思い込んでいるのかもしれない。俺が、言わなくちゃいけない。俺が喋れば、そいつも、息ができるようになる。俺が、こいつを、救えるんだ。
お前さんは? どこに行きたい?
尋ねるとき、喉の奥が、きゅっとせつなく縮んで、そろそろ目が覚めるとわかった。
問いかけた相手が、俺を見た。オレンジの髪を水にそよがせてしゃがみこみ、足元の貝を拾う。とても大きな貝で、俺たちふたりの顔を合わせても足りないくらいだった。
閉じていた貝を、そいつは強引に両手で開こうとする。慌てて制すると、今度はそいつが貝を抱きしめた。
ぱかっ。貝はあっけなく開き、そいつに、わさびチューブをさずけた。
なんでわさび。しかもチューブ。
夢にいちいち突っ込んでも仕方がないが、いつも突っ込み役の男が黙っているのだから、これもまた仕方がないのだ。
答えを待つ俺に、当のそいつが、ゆっくりと口を開く。
驚きのような形に、ぱっくりと開いた口から飛び出した言葉は、こうだった。
のりも散らすともっとうまいぜ。
……のり。
……なぜ、のり。
問い直そうとする前に、そいつがわさびチューブの蓋をとる。
右手にわっしと掴んだそれを、そいつはあまつさえ、俺に向けて突き出してきた。ノータイムで絞られた黄緑の、ツンとくるあいつが、俺めがけてぶちまけられる。
えっ。待って。目に一直線なんですけど。いくらメガネとはいえ薄いガラス一枚にそんな防護力ないから……。
「待って! ミツ!!」
叫んで目を開くと、その相手が、俺の頭を膝に抱えて覗き込んでいた。
「……おはよ」
「あ、はい……おはよう……」
起きるなりぺたぺたと顔に手を当て、眼鏡は当然外れていたけど特に辛い匂いのしない顔に、安堵してため息をつく。代わりに目の横がぐっしょり濡れていて、そんなに悲しい夢を見ただろうかと首をひねった。
なんで辛い匂いがすると思ったんだっけ……。
「うなされてたぜ。あと、なんかすげえ泣いてるし」
「なんか、すっげえ、目に沁みる夢見た……」
くちびるに、いつも通りの柔らかさ。
「泣き止んだ?」
キスをしたミツが顔を離して、今度は額を合わせてくる。
「泣き止んだ」
「よし」
「ミツの……浜辺は、踏んだら鳴りそう……」
まだかすかに眠気が頭を重たくしている。恋人の腕の中という安心感のせいもあるのかもしれない。ミツは、俺の妙な発言にも、こともなげに応じた。
「そういう少女漫画あるよなー。オレの浜辺って何?」
「星の砂めちゃくちゃあるし、なんかそこらじゅう青くて眩しくて、珊瑚とか転がってる……」
「砂浜に? 沖縄でも行くのかよ。おみやげよろしくな」
「沖縄は行かない……」
「わかってるよ。何食う?」
「んー。わさび以外」
「わさびは朝飯にはそんな出してないよな? まあいいや、洋食な。エッグベネディクト作ってやるよ」
ミツが両手で俺の両手を引いて、ベッドの脇に立たせてくれる。身長が違うから、とたんにミツと目線が合わなくなって、寂しくなった。
背中を向けたミツの肩に両腕で抱き着く。ミツはその腕を肩に背負ったままで歩き出した。
「なんの夢見てたんだよ」
「ずっと見てた。波の夢」
「波?」
聞き返されても、うまく言葉にできない。俺の沈黙に、ミツが体を揺らして言う。
「波ってどこから生まれるんだろうな。小さい鳥の羽ばたきが風になって波になる、みたいなの、聞いたことある気がする」
「バタフライエフェクトみたいな話? 海に生き物住みはじめたの、鳥より前だろ。その前から波は立ってるんじゃないの」
「あ、たしかに。すげえな、永遠っぽい」
「永遠」
途方もないスケールの話をしている間に、キッチンについた。今更だけど、他のメンバーに会わなくてよかった。とスケジュールに視線を移すと、今日はもう全員仕事に出ているようだ。朝飯はミツが起きて用意したらしい、キッチンは少し料理の匂いがした。
「生き物って、ずっとあった場所に住むって決めて、一緒に住めるように進化したんだもんな」
「逆じゃない? そこに生まれたから、そこに住めるようになったんだろ」
「そうなんだ? 海の鳥とかさ、住めない時期は別の海に移動して、また戻って来てって、ずっと海にいるよな」
「難儀だよな」
「それだけ海が好きなのかも。オレらだって、ナギが好きだから、ノースメイアに行ったんだし」
「強行突破にもほどがあったよな。あの時、ナギが心配すぎて、俺らちょっとおかしかったよ」
「ZOOLにも迷惑かけたしな。大和さん、イングリッシュマフィン、食いたい分だけスライスしてトースター」
「ん」
肩から両腕をどけると、ミツは電子レンジでバターを溶かし、手早く混ぜた卵黄とマヨネーズに溶かしバターを加えていく。とろけきったバターのふくよかな香り。さっき感じたキッチンの匂いはこれだったらしい。カウンターに置いてあった絞りかけのレモンを絞り、今度は別の器に卵とお湯を注いで温泉卵のような卵を作る。
ミツがベーコンを焼き上げた頃、トースターもリンと鳴って動きを止める。小麦の焼ける匂いにミツが目を細めた。
「いい匂いだな」
「だろ」
手元を覗きこむミツの頭に顎を載せると、ミツがぐっと首を伸ばした。離れて、今度はミツの首筋に口づける。
「ポーチドエッグとベーコン載せて、オランデーズソースで完成。黒胡椒好きな分かけて食えよ」
ミツは冷蔵庫を振り向いて、サラダと、何かのスープを出してきた。俺の分だけよけてあったらしい。
「それ何?」
「えんどう豆のポタージュ。あっためる?」
「つめたいままでいいよ、暑いし」
「オッケー。腹冷やすなよ」
ミツの用意した食事の匂いがリビングに広がる。
「じゃ、オレ、行ってくる」
「もう仕事か」
「うん。仕事までにあんたが起きればいいなって呼んでたから、ほんとに起きてくれてうれしかった」
ミツが微笑んでエプロンを外す。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
何気ないやりとりも嬉しくて、パタパタと部屋を出ていくミツに、ついくっついて歩いてしまう。
「大和さん今日はオフだろ? 一緒に出んの?」
「いや……離れたくないなって」
「……連絡するから。オレは夕飯ロケ弁だから、食い終わったら、かけるよ」
その言葉の通り、ミツからの電話が来たのは、夕方だった。
買い物帰り、川沿いを歩いている頃、電話が鳴った。ミツからの通話に、ドキリと胸が高鳴る。
ビデオ通話の、通話開始と終了のボタンを押し間違えそうで、変に緊張した。画面の向こうに現れたミツは、これからバラエティの収録らしい、イヤホンを耳から垂らし、鏡を背にして座っていた。その鏡に、雑然とした部屋の様子や、何人かのスタッフが映っている。
「大和さん、今何してる?」
「歩いてる」
「外だ」
「外だよ」
「買い物?」
「買い物だよ」
「ビール?」
「ビールだよ」
「あはは、なんか言えよ」
「言ってるじゃん」
「ぜんぶおうむ返しじゃん」
ミツの押し殺したような笑い声が高く耳元に響いた。通話画面のキャプチャ、右端に映った俺も、同じ顔で笑っている。
恋をしている。
たぶん、初めて。
西日が眩しい。
河原の対岸、向こうの岸に視線をやれば、ゆるく反った川べりで水に押されたらしいゴミがいくつか、岸辺の木々に掛かっていた。
なんとなく、潮の匂いがする気がした。この道を抜ければ海があることが、なんの看板もなく伝わってくる。
押し流されて、うまく曲がれず避けられずに枝に引っかかけられて、また何かに流されて、行き着く先は海。
水の流れは止まらずに先へ先へと進んでいく。
似ているな、と思って、名前を呼んだ。
「ミツ」
「うん?」
電話の向こうでミツが返事をする。
リビングには八月のカレンダー。
部屋にはシンプルな時計。
刻んでいく時を、過ぎてゆく時間を、これから、ずっと、共にする。
そんな恋を、続けていく。
「好きだ」
告げると、夕陽の色と同じオレンジが、嬉しげに緩む。画質が荒くてもわかる、すぐに潤み始めたそれを笑おうと息を吸ったら、喉がひきつった。
泣いているのは俺の方だった。
それでもいいか、と思って笑うと、笑い声がもうひとつ重なる。
声は、触れ合わない影の代わりではなかった。
遠くにいても、近くにいても。何かが重なっていればそれでいい。
俺が歩幅をせばめて歩けば。ミツがすこしゆっくり歩けば。きっと離れていても、同じ速度で、同じ風の中を歩ける。
海の鳥らしい、白い腹をした大きな鳥が二羽、遠くを飛びながら鳴いた。