恋をしている

朝顔はつるをのばして、都会の夜の薄曇りの下でぼんやりと佇んでいる。朝に咲くはずの花が、こんな時間に咲いているのも、狂い咲きと言うのだろうか。
月明かりというよりは、街灯の白い明かりに照らし出されて、大和の脚はうっすらといくつもの影を伸ばした。
言葉もなく歩きながら、ただ酒ばかりが進んで、気づけば缶の中身は一口分も残っていない。缶の傾け方を見ると、三月も同じようだった。
あのさ。
三月が口を開いたとき、大和は三月に背を向けていた。
「俺たち、そろそろ、付き合ってもいい?」
背を向けていてよかった。
表情を見るのも見せるのも嫌だった。
大和のそんな気持ちを悟っていて、三月は、あえて大和の背に声をかけたのかもしれない。
そんな許可を求めることに、なんの意味があるんだろう。
缶の底に僅かに残ったアルコールを啜る。どんなに缶を傾けても、最後の一滴までは、飲みきることが出来ない。
人を好きになって、好きな気持ちのまま隣で過ごせば、その時間は確かに幸せだった。
人は何を求めて、好きな人と付き合うのだろう。
付き合い始めれば、その人から何かを奪って、あるいは何かを与えすぎて、その人を変えてしまうかもしれないのに。
缶を振るとぴちゃぴちゃと、なけなしの雫が跳ねる、あどけない音がした。
「好きにしたら」
「そんな返事ないだろ。大和さんだって……」
俺だって?
尋ねてやりたかった。お前が俺を思うより、俺はお前さんを好きだよと、告げてやりたくなった。
でも自分は、『大和さんだってオレを好きだろ』と、その言葉の先が続いた時、きっと真逆のことを言うだろう。
俺は別に、お前のことなんか好きじゃないよ。
そう言って遠ざけて傷つける覚悟を決められるほど強ければ、素直に好きと答えることもできたかもしれない。
大和には、委ねることしか出来なかった。
俺は怖いよ。
ミツが変わってしまうのが。
俺のために、ミツがすり減っていくのが。
人が人を愛するって、そういうことなんだろ。
自分の人生を、愛した男にそっくり与えて、社会に認められることなく子供を産んだ女を、ずっと見てきた。
三月が踏み出し、大和の隣に並んだ。大和は自分が立ち尽くしていることを三月の足音で悟った。もう地面はほとんど乾いて、雨のあとの湿った空気だけが肌の周りに残っていた。
「オレは、後悔したくない」
三月がつぶやく。大和は、その手元に視線を落として、何を言うことも出来なかった。
俺もだよ。
とんと、三月の持つ缶を、中指の爪で軽く弾く。三月が缶を軽く振り、中身がないことを知らせた。
三月の手から、すっかり空になったらしい缶を受け取る。手のひらの熱が移った缶は、三月の手から、いやにゆっくりと離れた。どれほどの力で握りしめていたのだろう、ところどころ凹んだ缶を、自分の缶と並べて置く。一緒くたに踏みつけると、二本の缶はいびつにひしゃげた。
二人が二人で身を滅ぼすような愛を、愛だと認めたくなくて逃げ続けた。両親のそれを愛だと大和に認めさせたのは、自分は愛されて生まれた子だと大和に思い知らせたのは、そう信じるきっかけをくれたのは。
踏み潰した缶を見つめた。それを自分に渡した男に。俺は。
あれほど。
あれほど馬鹿馬鹿しいと思った恋を。
「大和さん、怒ってる?」
「なんで」
「あんた、好きだって、言われたくなかったんだろ」
「いや。嬉しいよ」
「それならなんで……」
言いかけた三月の言葉は、後に続かず、街灯の光の届かない所へ消えた。
大和の影の中に抱きすくめられ、三月が目を瞬く。
「……嬉しいよ」
好きだよの代わりの言葉を受け止めて、三月が、腕の中で身体を震わせた。
視線がかち合う。
見下ろした目を縁どる、豊かなまつ毛が降りていくのを、大和は暗く狭まる視界に見た。
本当にしたいことの代わりに、何かをするのには慣れていた。
だから、傾けた冷たい頬に、熱い頬が合わさったとき、ああ、お前さんは、と胸が震えた。
三月は、大和のして欲しくないことはしない。
大和がそのときするべきだと思うことを掬いとって、その通りに動く。
「ほっぺた、冷えてる」
「俺もそれなりに緊張してんのよ」
「珍しく素直じゃん」
頬を離した三月の胸が、大和の胸を強く打つ。ばくばくと響いてくる他人の心臓の音が、こんなに怖いなんて知らなかった。
嬉しくて怖い。
もう戻れない。
「な、帰ってから……いい?」
三月が、大和の指に、指を絡めた。
今本当にしたかったことを遂げようと、甘ったるく目を細めて。
上気した頬を、ずっと見ていたいのに、見ていられなくて、唇を噛む。
頷く代わりにその指を手のひらに握りこんだ。指は馬鹿みたいに湿っていた。大和の手のひらで、二人の汗が混ざる。
自分から指を離して、缶を拾って、帰らなくては。
冷えていた頬が、今は熱い。この熱が冷めないうちに帰りたい。けれど、冷ましてから帰らなくては。
いつか泣かせてしまうと分かっているのに頷いた。
いつだって人を苦しめるその約束を、交わしてしまった。
大和はかがみこみながら、気づけばぐっと止めていた息を、細く吐き出す。
三月には見えないところで、眉を寄せた。
恋をしている。
たぶんもう二度と現れない、本当に好きな相手と、その日、恋人になった。

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