恋をしている

1.雨に踏み出す

死んでしまいそうなくらいの幸福が、押し寄せて、引いて、またさっきより深いところをえぐってくる。
足元の砂は波にさらわれ、もう立っているだけでやっとだ。でも、足を踏み出したり、引いたりする勇気はない。底はとても暗いのだ。そして、いつだか俺自身で砕いた俺の鋭い貝殻が、無数に埋まって待っている。
俺がその殻を踏み抜いて、傷つくのを。
「大和さん!」
まただ。リビングにつき、朗らかな声に振り向くと、俺らIDOLiSH7の元気印が、癖毛をぴょんぴょんと跳ねさせて駆けてくる。
成人男性と思えない、常にないミツの浮かれぶりは、しかしここ一週間毎日、24時間休むことなく続いていた。
それもこれも、全ては。
「なあ、おはようのチューしたい」
「……あー、後でな」
まだ目もろくに開いていない俺の腕をつかまえ、ミツは背伸びをして耳元に囁きかけてくる。
「うん。飯食ったらな」
「んー……」
気のない相槌を返す俺に、おまけとばかりにウインクまでしてから、ミツの手がようやく俺を離した。寝起きで喉が渇いている、キッチンへ向かうミツの背中を追う形になる。
おはようのチューは、付き合いだしてから始まった俺たちの習慣だ。
付き合ってからというもの、ミツのスキンシップは明らかに増え、人目のない場所、メンバーがこちらを見ていない隙、寝入った俺の枕元、いたるところで俺たちは触れ合った。体こそ重ねていないものの、ミツは意外にスキンシップが多い。嬉しいが、面食らってもいる。
もともと、引っぱたいたり、ぶつかってきたり、感情昂ると接触多いやつではあったけど。付き合う前は、どちらかというと自分の方が、肩を組んだり腰を抱いたりと体に触れてきた。だからなんとなく、こいつは付き合い出しても変わらないだろうな、童貞だし、とたかを括っていた節もある。
日ごろの姿が家庭的すぎて忘れていた。こいつ、運動部の陽キャだったな……。
「うん? 何?」
冷蔵庫の麦茶をコップに注ぎ、ミツのうなじに落ちた髪に触れると、ミツが視線をこちらに移した。触れられて嬉しい、何の用なのかわくわくする、そんな感情が言葉のふちに滲んでいる。
「いや、何でもないけど。ミツは何笑ってんの」
ミツの目が嬉しげに緩み、くしゃくしゃと俺の頭を撫でた。なめらかな肌をしているのに、男らしい無骨な皮の厚みもある、あたたかな手。
「えーなんか、へへ、楽しくてさ」
「見りゃわかるわ」
「大和さんは……、あ! それ麦茶ラストだろ!」
何か尋ねかけたミツの手が急にぐっと俺の頭から離れ、冷蔵庫の扉をひっ掴む。ふいと視線を逸らして無言で応じれば、ミツは冷蔵庫のドアポケットのボトルを取り出して、こちらを睨んでくる。
「ラストじゃないでしょ。まだちょっとあるし」
「って一口分もねえじゃんか! あんたなー、こういう時はちゃんと新しい麦茶作っとけ。子どもら起きてきたとき飲むもんねえだろ」
「どうせミツが気づくじゃん」
「気持ちの問題。年上がなあなあじゃ、年下に示しつかねえってわかってんだろ?」
ほら! とボトルを胸に押し付けられながら、俺はコップの麦茶を一口飲んだ。
「ミツやっといてよ」
「最後のやつがやんの。残ってる分飲みきっちまえ。あっちのボトルにパック突っ込んで水入れときゃできるから」
「ミツ、おねがい」
「可愛く言ってもダメ。代わりに飯は作ってやるからさ」
毎日べたべた甘ったるく接してくるくせに、こういうところは甘やかしてくれないらしい。押し付けられたボトルを受け取り、コップに中身を注ぎきる。フタを外して流しに置く俺を、ミツは嬉しそうに見ていた。
期待に満ちた視線がくすぐったくて気まずい。あれだ、前、ツアーで行った奈良の鹿。鹿せんべいの屋台の近くの人間を品定めして、買うの? 買って、って見つめてくる、あの深い藍色の目。あれに似てる。そのあと飛びかかって身ぐるみはぐとこも、けっこう似てるかも。
 風通しを良くするために開けてある厨窓から風が吹き込む。炊事の後のキッチンの、湿ったあたたかな空気が押し流され、ミツが目を細める。
風にそよぐ横髪を耳に掛けて、唇を笑みの形にゆるめるところ。朝早く起きて、食事を作って迎えてくれるところ。これまでと変わりのないミツの所作、キッチンに流れる時間、けれど俺とミツの関係は確かに変わっていて、そのことが、この場所の空気をまぶしくさせている。
俺はこの、まぶしい空気を全身にまとって、大きな目で俺を見つめる男を愛して、愛されている……。
付き合っている実感にどくんと胸が鳴るのを、唾を飲み下してごまかす。
ミツが口を開いた。
「最近大和さん起きんの早いよなあ。意識高い?」
「や、目覚めちゃって」
「おじいさんじゃん」
「うるせ。いっつもおなじ夢見るんだよな」
「それ、なんかやばいんじゃねえ? その場所に行けってやつとか。虫の知らせみたいなさ」
「啓示? そこまでスピリチュアルな話じゃなさそう」
「大和さん、見た目の割に繊細なんだもんな」
「はいはい、打ち明け話大会の節はどうも」
軽口の間に麦茶の支度が済んで、冷蔵庫にボトルを戻すと、ミツは満足げに俺の肩口に頭をすりつけてきた。ふふん、と上機嫌に鼻まで鳴らし、『彼氏が同棲彼女にキッチンでされたらドキッとする仕草』ランキング上位を埋めてくる。このペースで? 心臓もたないんですけど。
ため息を必死にこらえつつ半歩引くと、ミツはにっこりと俺に尋ねた。
「何食う?」
「お茶漬け」
「任せとけ!」
腕をまくって嬉しそうに手料理をふるまうミツ。またランキングが更新されていく。
自分で思っていたよりずっと簡単にミツの好きなところを見つけてしまう自分に呆れた。こんなにずるずる、愛される快感ばかりに浸っていけば、戻れなくなる。
「ほい、できた。運んでテーブルでどうぞ」
「早くない?」
「そりゃ、あんたの食いたいもん、大体は予想つくからなー」
ミツが用意してくれたのは、すでに温めて少し冷ましてあったらしい、ぬるめの出汁茶漬けだった。きっと俺が起きてくる時刻をなんとなく察していたんだろう。熱すぎずぬるすぎない、猫舌が一番おいしいと感じる温度の茶漬けを口に運びながら、目を閉じる。
ちゃんと、早く、手を離さなくてはならないのに。
「ミツ、仕事は?」
「今から。あと五分くらいしたら出るよ。今日は六時には終わる」
答えながら、ミツが俺の斜め隣に腰かける。丸椅子の脚が床に擦れる、きゅっという小さな音も、ミツがスリッパを床に落として器用に胡坐をかく衣擦れの音も、朝の清涼な空気の中で、何にもさえぎられることなく耳に届く。
二人きりだ。
「大和さんは今日、ドラマの撮影が夜まで……だよな」
テーブルに肘を載せたミツが、身を乗り出して尋ねてくる。小首をかしげて覗きこむような仕草。これから何かねだろうとする、下唇を舐める舌に、茶漬けを啜る手が止まる。
「……なるべく、早く帰るから」
先回りして、ミツの欲しがることを告げると、ミツはぱっと体を起こした。
「晩飯作って待ってる」
「じゃ、飯食わないで帰ってくる。あっさり系がいい」
「おう! 期待してろよ」
「自分でハードルあげるんだもんな。……ミツ、ちょっとこっち」
「何?」
手招きで呼ぶと、スリッパを履きなおして、ミツがぱたぱたと俺のうしろに回った。箸と茶碗を置いて振り向き、ミツの両手を握ってやる。
「朝飯のお礼してやろうか」
座ったままで見上げたミツは、一瞬きょとんと目を見開いてから、「あ」の形に口を開いて、もう一度口を閉じる。
その両手を口元に引き寄せて、ミツを見上げる眼差しに、少しの色を込めてやる。
「おはようのチュー。するんでしょ」
指に吸い付くと、指が濡れる感触に驚いたのか、ミツはうわぁと小さくうめいた。
「する。したい」
ミツの唇が近づいてくる。握った両手を口元から下ろし、瞼を閉じて、キスに応えようと――。
――ピンポーン
俺たちの鼓膜を揺らしたのは、唇の触れ合う音ではなく、インターホンの音だった。
「……ミツの迎え、来たっぽいな」
「……続き。夜、いい?」
「はいよ。行ってらっしゃい」
「連絡するから!」
名残惜しく両手を離すと、ミツは俺の頬を片手で軽く撫で、リビングを後にする。頬を撫でて離れたミツの手は、やっぱり熱かった。
ややあって、玄関のドアを開ける音。かすかに扉の向こうで聞こえる、朝の挨拶。玄関の重いドアが閉まって、俺はまた一人になる。
相手のしてほしいことを考えて、その通りに動いてやることなんて、煩わしいはずなのに。好きな奴相手だと、こんなにも心が躍る。喜んでくれた、こいつのためにできることが俺にもあった。もっと喜ばせてやりたい。こいつを認めて愛したい。
欲望は、とどまることなく連なっていく。歯止めの利かない感情を持て余すのが恋ならば、俺は確かに今、恋をしている。
茶漬けを啜ると、もうかなり冷めていた。
「……楽しいよ、ミツ」
ため息をついても、俺好みの出汁の利いた朝食の味わいは変わらない。立ち上がって、グラスを手にキッチンに向かった。
まださして色のついていない麦茶を、グラスに注ぐ。俺の手で注いで、俺の手で冷やした、麦茶のなりそこない。今夜の約束に浮かれた胸を冷やそうと、それを煽った。

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