恋をしている

 *

「あ! 大和さん出しすぎ! それ絶対からいって!」
「うん?」
言われて手元を見れば、刺身はなみなみと注がれた醤油にすっかり浸されてしまっていた。
「あーあー、しょっぱいのが食いたかった?」
「いや……見てなかった」
「メシ中にぼーっとすんなよな。貸して、三月さんが魔法かけてやる」
「はは、何それ」
「この皿もらうぜ。取り皿、もうその漬物の皿でいいよな」
「平気」
結局、帰宅は十二時を回った。寮のドアをこそこそと開け、忍び足でリビングに向かう途中、ミツからのラビチャがスマホを揺らした。
手洗いうがいして部屋。短いメッセージに、真っ暗な寮の廊下を見渡せば、ミツの部屋から明かりが漏れた。ひょこりと覗いた顔が、にっと笑いかけて部屋に引っ込む。
もう夏と言っていい頃なのに、夜はまだ涼しい。
すでに夕食を食べ終えたらしいミツは、自分の部屋のちゃぶ台で俺が食うのを、肘をついて眺めていた。両脇の部屋で眠る年下たちを気遣ってだろう、いつもより少しひそめた声で、今日あったことを話してくる。食事は、小鉢がいくつかと刺身、味噌汁、という、少し豪華な和食だった。ミツが今夜を楽しみにしていたことが透けて見えて、喉の奥がむずむずとかゆいような気持ちになる。
刺身に箸をつけ、味噌汁を啜り、切り干し大根や漬物を順番に味わいながら、ミツの話に相槌を打ち。醤油を皿に注ぎ足そうとしたとき、ミツが、俺の隣に移動してきた。
左肩に寄せられた頭の重み。膝に乗った手のぬくもり。こんな風に、まるで甘えるみたいにふるまうミツは、知らない。動揺は、刺身を台無しにする醤油の海に表れた。
ミツは俺の皿を取るなり、キッチンへ向かったらしい。
……もう少しだけ。
ミツの部屋で、ミツの匂いのなかで口を動かしながら、温まり始めた胸を、トンと叩く。もう少しだけ、ミツのああいうところを、俺だけが知りたい。まだいいよな。まだ、戻れる。まだ、俺の手で、きっと、終わりにできる。だからあと少し。
それでもしも、ミツが、俺と付き合っていても大丈夫なら。変わらず、何も減らず、過ごしていけるなら。
もしもミツが俺との交際のせいで苦しまないのなら、俺は、このまま……。
戻ってきたミツは、何か企む子供のような、誇らしげで浮き足立った顔をしていた。ちゃぶ台を見渡して、俺が食事を終えたことを悟ると、よし来たとばかりに風呂をすすめてくる。
「皿は洗っといてやるから、風呂上がったらちょっと飲もうぜ。リビング来てよ」
「ミツのお誘い、珍しいじゃん。明日仕事なんじゃねえの」
「あーうん。四時起きだし、オレも、今日はそのつもりじゃなかったんだけど。いいこと思いついたから」
「いいこと?」
「後のお楽しみ!」
言われるがままに風呂に入り、さっと髪を乾かしてリビングに向かうと、ミツが冷凍庫からグラスを二つ取り出して、缶ビールを注いだ。
ぱきぱきと氷のひび割れて解ける音がして、グラスに厚く泡が立つ。二杯のコップと共にローテーブルに並んだのは、少しの野菜と、さっきの刺身をアレンジしたらしい料理だった。
「じゃーん! サーモンとまぐろとタコの漬けわさカルパッチョ!」
「ほおー、すごいな」
「だろ! 醤油とごま油とさとうとわさびと……」
ミツの細い指が、一本ずつ折れて食材を数えていく。俺の失敗を成功に変えたレシピ。その指がすべて折れるのを見届けて、礼を言う。
「ありがとな」
ソファに腰かけて、ミツの手から箸を受け取る。一口食べて肩を跳ね上げた俺に、ミツは嬉しそうに笑った。
「気に入ったならよかった。明日の朝は海鮮丼にしようと思って軽く漬けてたのがあってさ」
「朝から海鮮丼って、すげえな」
「昼めし食う暇なさそうなんだよな。朝イチで移動して長野で、そのままバスん中でインタビュー受けて、昼過ぎには都内で映画の吹き込み……夕方仮眠して夜のうちにバラエティ二本撮ったら、朝イチの便で八丈島。撮影中に腹鳴ったらまずいから、食えるとき食っとかねえと」
「忙しいな。飛行機?」
「おう。飛行機はだいぶ嫌だけど、嬉しいよな。こんな風に忙しくなるなんて、思ってなかったわけじゃないけど、信じられないっていうかさ」
「ミツが頑張ってきたからだろ。当然だよ」
「あはは、ありがとな」
隣に腰かけてきたミツの腕を取ろうとする。ミツは気づかなかったらしい、まず乾杯な、とグラスを渡してきた。
グラス同士が打ち合うささやかな衝突音、ミツと俺の喉がそれぞれにビールを胃に運ぶ、嚥下の音。
「っあー! うっま!」
「やっぱミツのつまみ最高だわ」
「うはは、おかわりないからちょっとずつな」
リモコンでクーラーのスイッチを入れた。グラスを置くと、流したばかりの汗が、うっすらとこめかみに滲む。
たとえばミツの家には、しまい忘れたストーブなんかないんだろう。一口食べて冷蔵庫にしまってそのまま傷ませたおかずもない。アルバムの写真やホームビデオは、家族で何度も見返している。聞いたことはないけど、きっと。
手に入れたものはしっかり愛して、誰よりも大事だよって伝えて、求めて、信じて、抱きしめる。ミツの愛し方は、ミツのおおらかな笑い方から想像できないほど細やかで丁寧で、ぬかりない。こいつなら、病める時も健やかなる時も、伴侶の隣で笑えるんだろう。
「大和さん、明日、何時起き?」
「五時くらいのつもり。明日の朝飯は俺が作るから、ミツは自分のことだけしてろよ」
「いいって。味噌汁も味噌とくだけだし、どんぶりなら七人分具材わけときゃ一気に作れるから。ありがとな」
ミツは冷たいビールを一口飲んで、俺の箸でつまみをつついた。野菜と刺身の細切れを一緒くたに掴み取り、俺の口元に突きつけてくる。
「あんたも休んでよ。あんたが、子どもらの面倒見てやってんの、すげえ好きだけどさ。ドラマの役、そろそろ出番増えるだろ? 忙しくなる前に身体休めとけって」
差し出された野菜から、ミツの手皿に醤油が滴る。手のひらの皺の深いところをたどって、黒々と脂っこい液体が、ミツの手に溜まっていく。明るくあたたかな手のひらが、黒く汚れた。
口を開いて、一口にしては量の多いそのつまみを迎えた。ミツがまたもう一口掴もうとするのを、手首をつかんで制し、手のひらを拭いてやる。
ミツの愛してるはわかりやすい。もので釣るわけでも、代わりに面倒を引き受けて気を引くわけでもなく、愛しているから大事にする。次から次へ尽くすのは、決して見返りのためではない。たとえ自分に泥がはねてもいとわない。
だから息が詰まる。
こんな風に、毎日毎日愛していると告げられるのは。
俺はそんな愛し方を、お前さんで初めて知った。愛してほしくて、離さないでほしくて、世話を焼いて。骨折り損になったこともあった。愛した人は結局、俺ではない特別な誰かを選んで離れていく。それを止めるほどの努力を、俺はするつもりがないから、それでいいのだ。
でもミツは、離れようとはしてくれない。俺を、俺だから好きだと言う。やさしくして、食わせて、たまに叱って、大事にして、そうして俺を好きだと証明する。俺に、逃げ道をくれない。
ミツの愛は正しさだった。
お前さんの愛、俺にはちょっと、重いわ。
じっくりと咀嚼して嚥下するまでの間に、俺からもミツに一口食べさせてやる。分け合った一缶分のビールを飲みきるのに、そう時間はかからなかった。
「で、なんで明日の予定聞いたわけ」
「もうちょっと話したくて。しばらくこんな風に会えなかったから」
「なら、部屋来る? 今朝のお礼、まだだったでしょ」
「……行く」
二人分のグラスと皿、箸、すべてひとまとめにして流しに置くと、さっきの夕食の皿はすべてシンクの横で乾かされていた。手早く皿を洗って歯を磨く間、ミツは俺のそばを離れない。三〇センチほどの距離を置いて、俺を見ていた。
ミツの部屋から枕を持って来て、シングルベッドに横になる。成人男子二人で寝るための大きさではないベッドで、タオルケットを胸に載せた。
ミツの体が、俺の腕を抱き込むようにして、巻き付いてきた。
「暑くないの」
尋ねる声に返事はない。抱き寄せるミツの力が、少し強い。
「あ、ミツ、あの、こう、グネグネ丸めたハートっぽい形の、揚げてるやつ、名前なんだっけ……ラプンツェルじゃなくて」
「プレッツェル?」
「あーそれ。それ、今日もらったわ。椅子の下にあるから、朝持っていけよ。明日の昼食えるでしょ」
「ラプンツェルなんて、逆によく出てきたな。あんた、メルヘンな話似合わねえのに」
「そう? 本当は怖い童話とかけっこう似合うでしょ」
「自分で言うし。あーでも、似合うわ。似合うって言うか、そういうスプラッタ、オレらで一番来るの、大和さんだもんな」
くすくすとミツが肩を揺すりはじめ、ほっと息を吐く。ミツも、俺の軽口は本題ではないと分かっているらしい、額を俺の腕に押し当てて、呟く。
「今日、ちょっと失敗したんだ」
「ミツが?」
「みっともないんだけど……共演者さんの話聞くのに夢中になってさ、中継繋ぐタイミング遅れて、中継先のレポーターさんに迷惑かけちまった」
「遅れたって、どのくらい?」
「三〇秒くらい……かな、朝の情報番組だったから、割と時間キツくて。繋ぐ先の芸人さんが早口で回してくれたから、全部収まったけど」
「共演者って誰?」
「歌舞伎の、すげえ大御所の人」
「ああ……」
ミツが俺の腕を強く掴んだ。鼻声っぽい曇った声が、肩に押し付けられた額の下から聞こえてくる。
「オレ、うまくできるようになってきたって思ってたけど、まだまだダメだ。一織や壮五とかナギはそういうとこ、気遣ってやんの上手いじゃん。自然と気づいちまうっつーかさ。すげえよな」
「スタッフ、止めなかっただろ。その大御所の人の機嫌損ねないでうまく話聞いてやって、良いところで切り上げんの、ミツが一番うまいから、ミツに任せたんじゃないの」
ミツに抱き着かれていない方の手で、ミツの耳に、ミツの髪をかけてやる。手の甲でこめかみのあたりを撫でると、少し濡れていた。泣くほどのことでもないのに。こいつは真っ向から、、泣いて、悔しがる。
ふ、とこぼれた吐息が柔らかい。慰めではない本心を、微笑んで告げた。
「ミツは、そういうとこ、気づかなくてもやってんだろ。だからスタッフさんがミツを呼びたがる。出てる番組の数が、お前さんのやってきたことの証明だよ」
ミツの肩に手を置き、仰向けになった。ミツの方は見ないで呟く。
「……言わなくたって、わかってんだろうけどさ」
ミツは答えず、俺の横髪を耳に掛けてきた。ミツの体が俺の腕を離し、ベッドの上の方にずり上がってくる。
顔が近づいただけで、自然と瞼が降りるのは、これまで幾度となく交わしてきたキスのせいだ。
ミツの気持ちには答えてやりたくなる。これはきっと、俺だけじゃない。ミツがなにか働きかけてくれると、そのミツの思いにどうにかして答えたくて、体が勝手に動いてしまう。そういう引力が、ミツの力だと思う。
そのたび返ってくる反応に、もっと、ミツを好きになる。
「ありがと。……大和さん、好き」
触れ合う唇が、柔らかく、俺の唇を食んで、もっと深くつながろうとする。それでも閉ざした唇は互いに開かず、甘くついばみ合うだけのキスを返した。
今日の収録を振り返る、ミツの、さざなみみたいな呟きの声が、意識の砂を攫っていく。睡魔の波はあたたかくて、まどろみに交わしたキスの、唇の間に溶け出してしまいそうだった。
染み出すこの幸せに浸っていたい。でも、俺の黒さでこの綺麗な男を汚したくない。嫌われる前に逃げ出したい。
醤油に汚れた手、色づく前の麦茶、眠りに向かう脳裏に、いくつもの光景が浮かんで消える。まだ出来上がらない、まだ一線を超えないままで終わりにしたい。まだ、まだ。
寝る、と思う前に、もう開かなくなっていた瞼に、ミツが落とした『おやすみ』の声に抱きとめられて、ミツに離されないようにその頬に擦り寄りたかったのに、そのまま、肉体は、ずしりと重たい、水を含んだ砂粒が、海の底へ運ばれて、ばらけて、沈む──。

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