恋をしている

 *

また夢を見た。
突き立てた両足の半ばまでぐっしょりと濡らして、俺は水の中を歩いていた。町中が水浸しになっていて。水面からは魚の口と花が突き出し、俺以外の人は鹿に乗っていた。
咲いている、花の名前が思い出せない。夏になると見られる、白い、鈴なりの花。鋭くててらてらと光る葉の間から、重そうに首をもたげて、小さな白い花をたくさん宿した茎が垂れている。五芒星のような形に尖った花々は、遠目には、光の塊に見えた。
うちの庭にもあった。隠されるべき全てが、ごうごうと渦巻くあの場所。部屋の窓から見下ろす庭は、いつだって、見苦しくないよう剪定されていた。見苦しくないように? なにもかも見苦しい、見つかってはならない、この場所で。
取り繕うくらいなら全部見せろよ。隠したいなら飾るなよ。あの家にあるものは全て相反していた。二律背反の権化みたいに咲かされた庭の花々が鬱陶しくて、夏でも窓を閉め切って過ごした。その窓を訪れるのは、小さな鳥とか雨とか、そんな程度。中も外も、大して面白くはなかった。気づいたら、水浸しなのは、あの屋敷の二階の隅の、俺の部屋になっていた。
どんどん水かさが増してくる。透明なのに、水の中は見えず、光のようなものに足が飲み込まれて行く。あったはずの足場がない。窓の高さに水が達しても、水は溢れることなく、俺を飲み込もうとした。
足場がないことには背筋が震えた。けど、それよりもっと怖い夢を昨日見ていたし、このくらいいいかと思った。昨日見た夢ってなんだったっけ、と首をひねったところで、ごそごそと、隣の男がベッドを抜け出していく気配がする。
白み始めた空の明るさがカーテンの端から覗く。空想の尾を引きずりながら、その男に顔を向けると、温かいもので目を覆われた。
「まだ寝てていい時間だから、おやすみ、大和さん」
くちびるに、いつも通りの柔らかさ。ああ、そっか、いいんだ、ぜんぶ。
回らない思考回路を回しているつもりで、瞼の重みの中に、体がたゆたいはじめる。
それからは、夢は見なかった。
次にミツに会ったのは、三日も経ってからだった。俺はドラマのメンバーとのちょっとした飲み会の帰り、ミツは芸人との食事の帰りで、お互いそれなりに酔っている。山手線の一時の終電で、駅で落ち合った。ミツが俺の持ち物に目を留める。
「あえ、あれ、やまとさん、傘?」
呂律の怪しいミツに水を渡して、スマホの画面を見せてやる。スマホの通知の天気予報は、今日、というか昨日、降水確率七〇%をさしていた。朝こそ晴れていたものの、予報さえ見ていれば、誰でも傘を持って出るような確率だ。
そして今朝は、寮にいるミツと宿泊先のホテルから通話をしていた。たぶん、ミツは天気予報を見なかったのだ。俺と通話をしていたために。
「予報じゃ、雨降るって話だったから。一日持ち歩いただけかと思ってたけど、意味はあったな」
「うあー、ほんとだ、あめだ。ふってる」
「降ってるな」
火曜の夜、水曜の一時を過ぎた駅には、夜の仕事らしい数人と、浮浪者然とした男。降り篭める雨の下ではよく見えないが、飲食店の明かりもまばらだ。
俺は特に変装はしていなかった。眼鏡に帽子に大きめのジャケットを着たミツと一つの傘を分け合えば、小柄なミツがまた見間違えられて、ちょっとした噂は立つかもしれない。
「傘、入れよ。風邪引けないだろ」
射そうと、ミツが、きゅっと、俺の指先をまとめて掴んだ。
「ありがと」
「また撮られるかもな。IDOLiSH7二階堂大和、小柄美女と深夜の密会」
「どう、見ても、オレなんだよな。あそこまで個性、出んの、パパラッチ、逆にオレらの、ファンだったりして」
ミツが、酔っ払いらしく声を時折詰まらせながら、ぽつぽつと語る。ジャンプ式のビニール傘をぱんと開いて、雨の下にかざした。ばたばたと、水がビニールを激しく打つ。
「あるかもなー。ミツに近づく男を記事にして牽制して、いつか自分に気付いてもらえるようにミツの写真撮り続けて……」
「わざと怖い、言い方、しやがって。でも、だとしたら嬉しいな。そんなに熱心にさ、好きでいてくれんの。もっと頑張らなくちゃな」
踏み出すと、ミツの声がクリアになった。
手を繋がれたまま、ミツの方に少し傘を傾けて歩く。ミツは、そんな俺の様子に気づいてか、ぐっと肩を寄せてきた。
「好きだって一方的に押し付けられて嬉しいかね。気づいて欲しいけど自分からは進展したくないって、我儘でしょ」
「オレは喋って、仲良くなりたいけど……壮五とか、畏れ多い! って、TRIGGERにいつも恐縮してんじゃん。ああいう感じなんだろ」
「それとは違くない? ソウはTRIGGERを独占なんて考えてないだろ」
「独占かあ。そっか、違うか」
独占、という言葉が、雨音に隔絶された、二人きりの傘の下の世界で、ミツの声で響くのが、なんだかおかしかった。ミツほど独占という言葉の似合わない男はいないだろう。ミツを独り占めしようと思っても、きっとできない。
ミツは優しいから、独占させて欲しいと仮に言われたとして、言葉で慰めはするだろうけど、譲りはしないはずだ。ミツの人生は、ミツのものだから。
「ミツ、なんで天気予報見なかったの。傘持ってないの、珍しいじゃん」
「んえ? 見てた……あー、見なかった? かも……なんだろ、ラビチャしてて? かな」
「ラビチャ……朝、俺が連絡したから?」
「んー? んー、んー……」
「酔っ払い、しゃんと歩けって」
「歩いてるって……大和さん、水、全部飲んでいい?」
「いいよ。ミツに全部やるから。前向いて」
こっそりと、恥じらってでもいるかのように、ミツの手を離す。ミツが水を飲む間、車道を背にしてミツをかばうように立ち止まる。ぶおん、と車が一台過ぎた。跳ね上がった水がズボンの裾を濡らして、あの時と似ている、と思った。告白の夜と。
靴下まで濡れている。裾はすぐには乾きそうにない。
土の匂い。
積まれたレンガの縁をめいめいに突き出してくる、葉のにおい。
また、雨が降っている。
「大和さん、帰ろ」
傘の下、ほとんど距離もないところで、ミツが俺を見上げてくる。
また俺の手を掴んで、今度は指を絡め取ってきたその五指は、俺のものより節が小さく、少し短い。
一生、忘れないだろうと思った。
全てのものはいつか終わる。いつかミツの気持ちも尽きる。たぶん、俺がミツを縛りすぎてしまう。俺のせいで濡れて帰るミツなんて、見たくない。
やっぱり、そうなる前に別れてしまおう。でも今はまだ、このまま、覚えていたい記憶を、増やしていたい。
無数の水滴が空から降ってきて、地面で弾ける。ぱちぱちと街灯の下で跳ねるその光の粒は、鋭い破片が地面に敷き詰められているように見えた。踏み出したくない。
「帰ったら、三日分キスしたい」
ミツの手の力が、さっきより強い。
「……うん」
応じて踏み出す。この時間を宝物にしたい。
暗い箱の中に、宝物を閉じ込めて、傷ついたときにだけそっと取り出して、自分を慰めるのに使う。思い出として固定された過去の記憶は擦り減らない。呼びかけても応えてもらえないだろうけど、それでいい。変わってしまうものに怯えながら呼びかけるより、返事がないと知っていて変わらない過去に呼びかけるほうが、ずっと楽だ。だから、あと少しだけ。
ごめんな、ミツ。

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