恋をしている

2.ベルヌーイの窓辺

 例えば、午後の楽屋の窓辺。
いつも過ごすなんでもない場所に、真っ白な鳩が舞い込めば、きっと誰だって、その日一日いいことがありそうな気がするだろう。そんな気分が、もうずっと続いている。
胸をおどらせて、ラビチャのトークを開く時間。
リビングのスケジュール表を見て、今日はどこかですれ違えるかもしれないと思う朝。
会えなかった日の、今日何してた? 飯食った? 明日は晴れるって、次いつ会えるかな、だけの、短い通話。真っ暗な画面越しに聞こえてくる、穏やかに、ぽつりぽつりと喋る声。安心して眠くなるのに、このままずっと話していたくて胸が躍る。
全てが宝物みたいに眩しい。
どんなことでも乗り越えられる気がする。
恋をするって、大好きな人と気持ちを確かめ合えるって、こんなに幸せなんだ。
楽屋の、何も現れない窓辺で、ラビチャの通知アイコンがぴこんと画面に飛び出してくる。
来た!
「ミツキ? 嬉しそうですね」
 かぶりつくように両手でスマホを構えたオレに、ちょうど楽屋に入ってきたナギが微笑む。これから二人で親子向け料理番組の収録だ。ナギは午前中オタク系街歩き番組のロケで外を歩き回ると言っていたから、暑い思いをしただろう。顔を見ると、撮影も楽しめたようだし、話を聞いてやりたい。
「おう! ちょっと大和さんからラビチャ」
「ヤマトが? 今日は富士の樹海で死体探しでは?」
「撮影の内容言ってるだけなのに、すげえ物騒だな。撮影が深夜だから山梨の旅館泊まるって言ってたやつ、着いたみたいでさ」
「旅館、うらやましいです」
「土産買ってきてもらおうぜ。山梨なら、今は桃とか売り始めてる頃かも。明日ケーキでも作ってやろうか」
「イエス! ミツキの手料理で、三人でランチしましょう」
「いいな! 今週……は無理かもだけど、来週とか、いや来月か……?」
「約束だけで構いませんよ。ミツキもヤマトもワタシの大切な友人です。大切な友人と過ごす約束は、ワタシに夏を乗り切る勇気をくれます」
「ありがとな。今日はほんとに暑かったし、大変だっただろ。お茶いるか? オレの鞄にさしてあるやつ、まだ冷えてると思うぜ」
「サンクス」
 ナギがバッグを置きがてら、オレの鞄に手を伸ばす。その間にトーク画面を開けば、『到着』と短い返事。
 そろそろ着くと思って連絡待ってた、と打ち込んで消し、お疲れ! お土産よろしく! と打ち込む。それから、大好きだぜ、とも。トークのウインドウを閉じるとき、唇の端がにまりと上がった。
 オレの愛しい恋人は、オレの伝える『大好き』に、いつだって気まずそうな顔をする。呆れたような、物足りないような、きまりの悪い顔。愛されて育ったくせに、その愛を周囲が信じてやらなかったせいで、愛を疑ってしまった人。きっとまだ、オレがあの人を好きだってことが、受け止めきれていないんだろう。
好きだと告げたあの夜、戻って、つまみを片付けて、シャワーを浴びて。すっかり寝る支度を整えてから、大和さんが部屋に来た。来てくんないかと思った、とは言わなかった。言わない代わりに手を取って、立ったまま、背伸びをしてキスした。
短いキスをして、大和さんの顔をうかがう。大和さんは、オレを好きかどうか言わない代わりに、キスのあと背けた唇を自分から合わせてくれた。
恥ずかしそうに寄せた眉も、硬く閉じた目も、それなのにやわらかに力を抜いた唇も、覚えている。
何度も何度も、唇を合わせて、しだいに乾いたそれを濡らそうと舌を出したとき、大和さんの唇は離れていった。たぶん、その先はまだなんだ。
 オレの両腕を掴んで、待って、と声を震わせる大和さん。ささやかな吐息が、恐ろしく色っぽかった。
 ごめん、急ぎすぎたよな。詫びたあと、その胸にこめかみを擦り付けると、大和さんが抱き寄せてくれて。厚い胸に両腕を回した。どくどくと早く打つ大和さんの鼓動が愛しくて泣きそうだった。人のシャツに鼻水なすんなよ、といいながら、大和さんはオレを離さなかった。その日は抱き合って眠った。
「ミツキ、やはり嬉しそうです」
「大和さん、何買ってきてくれるかなって思ってさ」
「ボックス入りの桃でしょう。ヤマトはボッチャンですから」
「桐箱の? うわー、楽しみだな! 大和さんに言っといてやろ!」
「ワタシにはご当地限定ここなマジカルステッキストラップを……」
「ここな、そんなグッズも出してんの? 大和さんなら買ってくるだろうな。あの人、すぐ年下甘やかすから」
ナギが長いまつ毛をぱちくりと上下させ、きれいな顔で微笑んだ。王子様みたい……というか、王子様の微笑を、毎日当たり前に見ていることがなんだかおかしい。オレたちにとっては王子様でもナギはナギなんだけど、ノースメイアの人たちからしたら、王子様がアイドルなんだよな。
「ん?! おいしいです!」
「全部飲んでいいよ、オレ午前中はずっと冷房の下だったから」
オレたちの大事な王子様が、オレの一本百円の麦茶を回し飲みして喜んでいるなんて、祖国の国民が見たら驚くだろう。
なんて空想しながら、整った横顔を見つめていると、ナギは淑やかな手振りでペットボトルの蓋を閉め、豊かなまつ毛の先から流し目をよこした。
「年下ということは、ミツキも甘やかされているのですか?」
「たぶんな。やたらと上手いんだよ、あの人、そういうの。オレらも甘やかしてやろうな」
「帰ってきたら、たくさんハグしましょう」
「帰り、ビール買っとくわ」
 オレと大和さんが付き合い出してから、もう二〇日は経つ。けれど、まだ誰にもそのことは明かせていない。
時が来たら、ナギにもちゃんと言おう。
ピロン、また通知が鳴って、その人が写真を送信してきたとわかる。
開いてみれば、土産物屋の店先だった。
なんの言葉も添えられない、たった一枚の写真で、この人は、こんなにもオレを喜ばせることができるんだ。
あんたのことが好きだ。
好きだと毎日気づき直して、その度に声も聞きたいし、会いたいし、触れたい。
どんどん大きくなる気持ちを、オレは止められずにいた。
一方で、なんとなく、予感はあった。その気持ちの大きさが、その人とオレの間の距離を、遠ざけてしまうかもしれない。愛されることに臆病で、愛することに自信のない人だから。
大好きだよ。本当はもっと、毎日、毎秒、出会うたびに伝えたい。でも待たなくちゃ。ゆっくり、大和さんのペースで進みたい。
愛するって、隣を一緒に進むことだ。
急ぎたくない。
スマホの画面に表示した土産物屋の写真の中に、ナギが話したストラップを見つけて、ナギに見せてやる。きっと同じ空の下、あの人も同じストラップに気づいただろう。
遠くにいても、一緒にいる。
オレはあんたと、そういう関係になりたい。

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