恋をしている
*
「晩飯は?」
「ミネストローネとチーズリゾットとえびのフリット。ハイカロリーだから、大人組は蒸し魚にラタトゥイユかけたやつな」
「うまそうじゃん。ミツの飯、久しぶり。トマト安かったの?」
「おう! 六個で三〇〇円! ひとり一パックだったから、帰りに一織と環にも買ってきてもらってさ! 魚は百さんがくれた釣りたてのスズキ! 絶対うまいぜ。鯛ももらったから、あとで刺身にして酒飲みながら食お」
「お、いいねえ。百さん、あんだけ働いてて、いつ釣り行ってんの」
「ほんとだよなあ。なんかかわいがってくれてる大物の司会の人が釣り好きなんだって。オレも誘ってもらってて、再来週あたり天気良かったら一緒に行く!」
「お前さんも元気よね」
久々に聞く顔見知りの名前が嬉しいのか、大和さんの顔が目に見えて和らいだ。小鼻をふくらませてオレの料理の匂いを嗅いで、うれしげに頬を染める。この顔が見られただけで、疲れて帰っても七人分の飯をこしらえた苦労の元が取れる。お釣りを貯金しておきたいくらいだ。
帰宅したばかりの時は、きっといま演じているドラマの緊張がほぐれていなかったのだろう、唇を引き結んで、おそろしげな顔つきだった。それが、目なんかきらきら輝いて、すぐにでも食べたいって耳としっぽが見えそうな、わかりやすい喜びの顔に変わっている。
かわいいんだよなあ。
「こんな時間に帰ってくるなんて思ってなかった。早かったんだ?」
「撮影、巻きで進んだんだよな。暗めのシーン全部撮って、こっからは、なんつーか、憑き物落ちた男やんなきゃなんないから、リフレッシュに帰ってきた」
「このあとまた出んの?」
「や、それは明日の朝。四時頃かな」
「じゃあ八時間は居られるんだな」
「多分明日も同じくらいに帰って来れそう。明後日また三時に出るけど……ミツは?」
「オレは、昼過ぎまでは一人のインタビューで、夕方、百さんと九条と陸が出てたクイズ番組に助っ人で出た。明日は六時とかからで、たぶん終わりは飲んでくるかな」
蒸し終えたスズキを崩さないように皿に移し、蒸し野菜を盛り付ける。三皿ぶんだけ盛って、残りは明日の朝食用だ。扇風機の前の涼しいところに置く。
大和さんが、誰より早く帰ってくるなりキッチンに来たのは、メシの匂いがしたのもあるだろうけど、たぶんこの扇風機のおかげだ。閉め切って出かけた部屋に入るよりキッチンのほうが涼しいと思ったんだろう。あとは、ちょっと、オレに会いたいとかだったら嬉しい。
「ミツが助っ人? クイズ番組で?」
「バカにすんなよなー。まあ、回答者が答えられるまで走り回る、体力要員だったけど」
「うはは、どうりで今日タンクトップなわけね。もう風呂入ったんだ」
扇風機の前を魚に取られた大和さんは、麦茶で一服することにしたらしい。オレの後ろに回り込んで、冷蔵庫を開けた。
「そりゃな。陸がえーっとえーっとって悩んでる間、もー走り回ったわ。いくらでも悩めよ! って言うけどさ、正直ライブより走ったもん!」
「うわ……お兄さんその現場じゃなくて良かったわ」
「大和さんが走る時は壮五とかが回答者だといいよな」
「ボタン係がタマで、回答者がイチかな。すげえ早そう」
「環、絶対喜んでボタン押すよな。最強タッグが最年少ってどうなんだって思うけど……今日は途中から百さんも走る方に参戦して、回答者が陸と九条だけになっちまったんだよ。陸がボタン早押し係で九条が回答係みたいになって、陸が押していい!? ってずっと訊くから、九条も宥めながら笑ってた……っと、ありがと」
大和さんが、グラスに注いだ麦茶を差し出してきた。風呂に入ったにもかかわらずすでに汗ばんでいるオレの肌に気づいたんだろう。受け取って一口飲んで返す。大和さんはそのグラスを口に当て、含み笑いをした。
「楽しそうじゃん、ミツ」
「あそこの二人は抱えてるもんもでかいから、仲良くしてんの見るとほっとするよ。弟が楽しそうで嬉しいって兄貴の気持ち、オレはわかるからさ」
「そっか」
「あとさー、百さんがすげーのくれるらしいんだよ」
蒸し器を流しに下ろして告げると、大和さんは蒸した魚をつまみ食いしようとしているところだった。ご丁寧に、洗って干してあった箸を手にしている。
「こら、食うなら箸じゃなくて手にしろ」
「普通逆じゃない?」
「箸だったらがっつりメシじゃん。手ならつまみ食い。てことでほら、大和さんはこっち」
さっきふかしたじゃが芋に、トマトソースを載せて差し出す。一口大に切ってあるそれを、大和さんはためらいがちに、オレの指ごとくわえた。
「……うまい」
「だろ」
指に少し残ったトマトソースを舐めると、大和さんが目をそらす。見てはいけないものを見てしまったような仕草のあとで、そんなふうに意識しているところを見せたくないのか、大和さんは結局魚をつつき始めた。
「すげーのって、何よ。魚?」
「いや、もうちょい、どかーん! って感じのやつ。明日とかには届くっつってたかな……見てのお楽しみ」
「なに、宅配なんだ? ミツがドカーンとか言うと、物騒だな」
「誰が言っても物騒だろ。あんたも似合うぜ、爆発音」
「はは、快楽爆弾魔の役はもういいかな……」
大和さんの声が次第に小さくなる。見れば、大和さんはすいすいと魚の骨を除いていた。綺麗な箸使いで器用に骨を取りだして、次の魚に取りかかる。手持ち無沙汰なだけかもしれないけど、きっと、メンバーが食べやすいようにだろう。といっても、食べるのはオレと壮五と大和さんで、壮五なんかは隙がないほど美しく魚を解して食べるので、骨が残ったままでも問題は無い。魚をほぐしてあると喜ぶのは、年下の、環や陸だ。
「大和さん、ほぐすのうまいな」
「んー、ふつうでしょ」
「や、オレそこまで器用にいかないわ。途中でめんどくさくなって、肉食いたい! って思う」
「腹減ってる時の魚は俺も嫌だよ。こういう、ちまちましたの、じっくりやんのは、別に……なあ、さっきの、もう一口ない?」
「あるけど、あんま食いすぎんなよ。魚の方食えなくなるぜ」
「ナギとかタマが食うでしょ。いいんだよ、全部一人で食わなくても。ミツの飯はうまいんだから、分けてやった方が、あいつらも喜ぶ」
思わぬ言葉に、じゃがいもにソースを載せる手が止まる。分けてやりたがるのはこの人の、いいところだけど悪い癖だ。そんなのはいつものことで、そうじゃなくて、一人で抱えなくていい、みたいなことを言ったのが、意外だった。
「……あんた、そんなこと言うようになったんだな」
「昔はわりとすぐ揉めてたもんな……素直に喜んでもらっていいですよ」
大和さんは、オレを褒めたことの方を言われたと思ったらしい。それもそれで、昔に比べれば、大きな変化だと思うけど。
「喜んでる。すげえ嬉しいよ」
あんたがオレらを愛してくれて。
目を細める。大和さんの大きく見開いた目が、気まずげに泳いだ。
「またそんな、顔、する……」
用意しかけた食材をまな板に置き、驚いて目を瞬くその人の左手に、右手を重ねる。顎を上げて見つめると、オレより少し背の高いその人は、戸惑ったように言葉を切った。
こんなとこで、と、かすかな唇の震えが伝えてくる。それでも、拒みはしなかった。
その人が首をもたげて、決心したようにまつ毛をぎゅっと瞼に押し込みながら、オレを待つ。
暑そうに、頬は少し赤らんでいるのに、触れた唇の温度はわからなかった。柔らかな肉が押し合う、甘い刺激。大和さんの右手が箸を置いて、オレの右手に重なる。
キッチンで二人きりで話す時間も、こうして触れ合う時間も、幸せだ。
唇を離して、角度を変え、顔をまた近づける。まつ毛で頬をくすぐって、キスを求めた。くすぐったそうに首を振りながら、その人は、オレに唇を差し出すことをやめないでいてくれる。
唇を合わせた。触れ合わせるだけのキス。柔らかな唇の肉が押しあって、少しかさついた唇の合わせ目で空気が潰れる。
ぷちゅ、と濡れた音がした。離したくなくて抱き寄せる。大和さんは、されるがままに肩をこわばらせ、固く目を閉じていた。
「……メシと、風呂、済んだらさ、部屋で飲もうぜ」
唇を離して、途中だった芋にソースを載せる。
口元に運んでやると、大和さんはじっとりとオレを睨めつけたあとで、目を閉じて口を開いた。
熱くぬるつく舌が、オレの指を柔く押す。大和さんは、オレが指にのこったソースを舐める前に、オレの手首を掴んで、シンクの水道をひねった。