恋をしている
*
八時半頃、晩飯の席に全員は揃わず、一織と環、大和さんとオレ、という四人での夕食になった。途中で帰ってきた陸に、大和さんは嬉しそうに魚を取り分けてやっていた。壮五もナギも一〇時半には帰るらしい。壮五と環はその後すぐに仕事に出るようだけど、その時間に合わせて集まれば、軽く話すくらいはできるだろう。それも、全員で。
オレと大和さんは、その頃までの少しの時間だけ、部屋で飲むことにした。オレの部屋のちゃぶ台には、缶ビールとナッツだけ用意してある。壮五とナギが戻ってきたら、食卓で飲もう。
二人でも居たいけど、少しでもメンバーと共に過ごしたかった。時間がもっとあればいいのに。
風呂上がりの髪もろくに乾かしきらないままで、大和さんは部屋に現れた。確信犯らしい、ドライヤーまで持参している。
甘え下手なくせに、甘やかしてよ、ってもたれかかって、こっちをその気にさせるのはうまいんだよな。周りが手出したくなる陸とか、抱え込みすぎて心配になる壮五とかとは違うけど、この人はこの人で、周りに目を離させない引力みたいなものがある。人が嫌がることまで率先してできてしまう、この人自身への執着の薄さみたいなものに、そこはかとなく不安になって、呼び止めて、抱きしめたくなるような。
そんな不安定さに、しばらくは気づかなかった。それに気づいてしまった時、オレはこの人に恋をしたんだろう。
缶ビールで乾杯して、その一缶をちまちまと飲みながら、髪を拭いてやる。ベッドに腰掛けたオレの両脚の間に体育座りして、がしがしと頭を撫でられながら、大和さんがちょんとオレのハーフパンツを引っ張った。
「何?」
「このまえ、飛行機でロケ行ってたろ」
「うん」
「しんどくなかった?」
手の下で、顔は見えない。けれど、どんな表情をしているかはわかった。飛行機が苦手なオレを心配して、でも気遣うことで相手が強がらないように、注意深く尋ねる声。
この人は、しんどくないかと尋ねるとき、自分が髪を引かれたような、気まずそうな顔をする。例えば陸が発作を起こした翌日に。しんどくないよ、大丈夫ですと告げられて、痛そうに寄った眉をひらいて、ほっと吐息する表情。初めてその顔に気づいたとき、俺なんかと悪役ぶってみせるその人が、優しくないわけが無いと思った。オレはこの人を愛さずにはいられないとも。
顔、見たいな。きっと、オレの好きな顔をしてる。
髪を拭いてやる手は止めず、話を続ける。
「それがさ! 空港ですげえ親子がいてさ。なんかたぶんお父さんが学者さん? とかで、子どもが飛行機苦手みたいな感じで……あっ、つまみ、なんか足す?」
「いいよ、これで十分。続けてよ」
「うん。子どもが、飛行機なんか落ちる! 飛ばない! って駄々こねんの。あの日、ちょっと強めに雨降ってて、オレも怖かったくらいでさ」
「ああ。最近雨多いもんな」
「だろ? だからさ、待合室から発着場みたいなとこ見えるんだけど、なんか今にも落ちるんじゃねえかって思っちまって、見たくなくて」
開いた窓から、湿った空気が吹き込んで、背中にシャツを張り付かせる。今夜も雨が降りそうだ。
「そしたら、父親の方が、泣きそうな子ども窓辺に連れてったんだ。降りてくる飛行機の、翼の端を見ていなさい、絶対に落ちないとお父さんが教えてやる、って言うんだよな」
「ふうん。かっこいいじゃん」
「な。そんなん言われたら気になるじゃん。オレも思わず見に行っちゃった、窓まで。あと何人か、オレが立ったらつられたみたいな感じで窓のほう行ってさ……たぶんお父さんっぽい人は全然気にしてなかったけど」
「想像つくわ。で、何があったわけ」
相槌を打ちながら、壁際のコンセントにコードを繋いで、大和さんがドライヤーを差し出してくる。
「それがさ、すげえの! 飛行機が、アクション映画のトム・ハーディかジャッキー・チェンかよ、みたいな感じで、すげえもくもく雲まとってて、その雲引き付けながらこっちに飛んできてて、なんていうか……爆風がこう、翼の端っこでぐるぐる産まれてる感じ?」
受け取ったドライヤーを、広げた腕の下でクルクルと回すと、大和さんは興味深そうにオレの動きを見た。トム・ハーディだったら飛行機落ちた後じゃん、という小さなつぶやき。じゃあアイナナ警察でもMISSIONでもいいや、といくつか挙げた名前に、大和さんが肩を竦めた。
ドライヤーのスイッチを入れ、声を張る。
「これまでも飛行機ってあんなでかいのに飛んですげえとは思ってたけどさ……思わず声上げちまった! すげえ! って。急に話しかけたから、子どもびっくりさせちまったけど、すげえな! って一緒に驚いてくれた!」
「そりゃまた。ミツらしいわ」
「精神年齢一緒って言いたいのかよ」
「自覚があるからそう思うんだろ……熱い熱い、耳やめて! 単純に、その辺の子どもともすぐ仲良くなれんの、いいとこだよなって言いたかったんだよ。で、飛行機、落ちない理由は?」
耳の後ろにしつこく熱風を浴びせられ、大和さんが体をよじる。オレの太ももに両手を置いて宥め、心地良さげに首を伸ばして、続きを促した。
「ああ、その雲の渦みたいなのは、飛行機がちゃんと飛べる証拠なんだって。飛行機が飛ぶときの揚力? が翼に起きるのは、なんか翼に生まれる圧力の差? で、ナントカカントカの定理……ごめん、このへんは覚えてない」
「俺も多分、聞いてもわかんねえわ。その辺の話はイチとソウに任せる」
「クイズ番組なら、あの二人が最強かもなあ」
「英語ならナギだし、読書とかならリクで、芸能と料理なら間違いなくミツだけど」
「大和さんと環は?」
「俺たちはぐうたら要員だな。タマと二人で応援してるわ」
「クイズにそんな係ないだろ」
「ないなあ。じゃ、寮でビール飲んで見守る係で」
「あんたも居るんだよ! 大和さんは映画で、環は動体視力系とかかなあ」
脱線した話を戻そうとドライヤーのスイッチを切り、あらかた乾いた大和さんの髪を手ぐしで整える。大和さんがコンセントを抜いて、立ち上がった。
「オレも、なんで飛ぶかはちょっとわかった気がしたけど、落ちない保証はないじゃんみたいに子どもがまた怒ってさ」
「あー、生意気な子どもな。全然丸め込めない奴。いるいる」
コードをまとめ終えた大和さんが隣に腰を下ろす。手を伸ばしてビールを取る大和さんの背中は、さっきまで髪を濡らしていた水滴に、少し湿っていた。そのシャツを指先で引いて、ぱたぱたと内側に手で風を送ってやる。
「んー、あんま涼しくない」
「うわ。生意気じゃん。大和さん、ちょっとあの子に似てるわ」
「おい。ま、その父親よりかは子供の方に似てると思うけどな、俺も」
「オレもだわ。あんなに頭良くないし」
風が強まり、外がにわかに騒がしくなる。誰か通行人が電話で話している声が聞こえた。そろそろ合流できそうだから……俺の分残しておいて……。
見知らぬ誰かの声が遠くに聞こえる部屋の中、大和さんがまたビールを啜る。缶の外側はじっとりと水滴をまとって、ちゃぶ台に水たまりを作っていた。オレもビールを取り上げて飲み、話を締めくくる。
「まあ、だから、結局飛行機は怖かったけど、前よりは揺れても叫ばなくなった! そんな感じでオレの話はおしまい。知らずに怯えてるより、知ってから怯えるほうが、まだ勝てる気がするって話!」
「一人でも叫んでんの?」
「気づいたら声出てるんだよ。あんただってたまに武蔵に話しかけてんじゃん」
「それは違うでしょ」
「違うかな?」
窓を閉め、カーテンを引いた。急に物音の消え失せた空間で、大和さんは所在なさげに部屋の隅を見つめている。
ベッドをきしませて、その隣に座り直した。
「なあ、あんたの話も聞きたい」
「俺? ……は、別に……」
「あるだろ」
「……聞いてられればいいよ。ミツの声、好きだし」
どうでもよさそうに視線をそらし、大和さんはまたビールを飲んだ。
自分のことを明かすのがへたな人。人の声を聞くのが好きだと言う人。オレたちのことを大好きなくせに、大好きだと言うのに勇気がいるくらい、愛し方に自信のない人。こんな人が、愛するのが下手なわけがないのに。
だってこんなにも嬉しい。
大和さんが、隣で、オレの言葉を待っていることが。
缶に残ったアルコールを飲み干して、缶をちゃぶ台に置いた。かん、と軽い音が部屋に響く。
「なあ、大和さん」
肩をそっと押す。大和さんの唇に力が篭もるのが見えた。それでも抗わず、大和さんは、ベッドにばさりと身を委ねた。
スプリングに弾む体、その肩を押さえつけるように覆い被さる。大和さんが眩しそうに目を細めて、オレは唇を舐めた。
「キス、して、いい?」
尋ねる声が震える。みっともなく緊張しているオレに、大和さんはかえって眉を弛めて見せた。
「キス、だけだよな?」
「……うん」
「いいよ」
許しの声と同時に、大和さんの手が、オレの背中に回される。オレも大和さんの首の後ろに手を回した。じわりと佩いた汗が、Tシャツの薄い布地越しに、お互いの手に届く。
「嫌な時は、言ってくれよ。大和さんの嫌がること、したくないからさ」
「ん」
素っ気ない返事のあとで、大和さんから唇を合わせてくれる。誤魔化されたような気分になりながら、目を閉じた。
やわく湿った唇を、何度も、何度も離しては合わせる。のしかかった大和さんの体に、オレの体もやがてぴとりと合わさって、触れ合ったところが熱かった。
離したくない。薄く目を開くと、大和さんもオレを見ていた。
なあ、なんでそんな顔すんの。
これ以上は進みたくないって言うくせに、もっとして欲しそうな顔。
そんな顔して、なんで、目が合うとそっぽ向いちまうんだよ。
「……ソウ達、戻って来たんじゃないか」
「……リビング、行くか」
ちゃぶ台にほとんど手付かずで残ったナッツを片手にまとめて、大和さんに缶を渡した。大和さんは空き缶を手で軽く潰して、オレの後ろをついてくる。
もしも、今夜、二人きりで。オレがあのまま続けたら、拒んだのだろうか。
大和さんは、髪に触れると喜ぶくせに、唇には、怯えたように首を竦めてこたえる。ディープキスに怖気付くような年齢でもないのに。
あんた、何にそんなに怯えてんだよ。