HONEY×DARLING

◼️Tell me, call me until…《アニメ三期六話後》

 控えめに扉を開くと、まどろみに負けそうな、小さな声が誰何した。酒を飲むとすぐに眠くなってしまうそいつは、ついさっき、ソウと詫びの一杯を交わし、眠りに落ちたところだった。
「ナギ? 廊下、眩しい……」
 掠れた声が、扉を閉めるようねだる。ソーリー、とでも応じてやるべきか。どうやら部屋の主人は俺を年下の大型仔犬と勘違いしているらしい。
 あいつの足音を真似て、スリッパで空気をはたくように歩いてみる。
 辿り着いたベッドに、カーテンの隙間から、外の明かりが差し込んでいた。
「どうしたー。寂しくなったか」
 眠くて目が開かないのだろう、そいつはむにゃむにゃと唇をゆるめたりすぼめたりしながら、こちらに顔を向けてつぶやいた。しっかりと瞼を下ろしているのに、全て見透かされているような気がする。
「ごめんな。オレも……大和さんも」
 枕に、すり、と、そいつがこめかみを擦り付ける。涙をぬぐう仕草に見えた。悔しそうで、悲しそうだった、震える拳を思い出す。信じて明かしてもらえないことを苦しむ表情。
 いつだったか、粉々に砕けた液晶の中に見つけた、幼い子供の表情にも、少し似ていた。あの日ぶち壊した液晶の内側に、自分が入るつもりなんかなかったのに。
「ナギ?」
 唇を開いて閉ざす間に、その腕が俺じゃない相手を探した。俺のシャツにぶつかった指先が、信じられないほどの力で、シャツを掴んで引き倒す。
 鼻先がミツの顔にぶつかりそうになって、慌てて両手を枕に突いた。
「ほら……いつもみたいに……甘えろよ。いっぱい……できなかった間の分、オレが埋めるからさ」
 息がかかる距離で、眠たそうな声が、ゆったりと響く。親が子供を寝かしつけるときのような、穏やかで、愛情に満ちた声だった。
 このまま。体を沈めて、全身で抱きついても、こいつは許してくれるんだろうか。あんなに、ひどいことを言ったのに。
 唇を舐める。吐く息が震えそうで、必死に細く細く呼吸した。吐息で起こしてしまったら、この声は、俺ではない相手に注がれる優しさは、俺から取り上げられてしまうかもしれない……。
 てのひらが汗で湿る。枕の内側のビーズが、強い力に圧迫されて、小さく軋んだ。
 ミツの手が、俺の背中に回される。
「あの人は、今日は頑張ったから、勘弁……して、やって……」
 甘い声が、寝息に変わっていく。
 そっと肘をついてみる。ミツの胸に、胸が触れた。
 それから、肩に、鼻を埋めてみる。
 額をこすりつけてみる。
 あたたかい。
 扉の先に、こんな温もりがあることを、信じていなかったわけじゃないのに。
 鼻から息を吸うと、ず、と湿った音がした。
「……は……」
 これ以上ここにいたらまずい。暖かい場所で、涙をこぼさずにいられるほど、いま、強くない。
 ミツを起こさないよう、慎重に、ミツの腕から体を……抜きたいのに、やたらに腕が重い。つうか力が強い。寝てもおもちゃを離さない子供か? 起きてんのかってくらい……。
「捕まえた」
 耳元で。
「いつ来んのか、ずっと待ってたんだぜ」
 声が、悪どい男の声音で響いた。
 ほんの数時間前、俺のために怒り、ついさっき、他の相手を癒そうとしていた声が。
 ……顔が上げられない。
「……寝言でかいなー……」
「人の電話散々無視すると、声も寝言に聞こえんのかー」
「……もう一回寝ませんか、三月さん」
「無理。オレ、一杯目の眠気超えたら、朝までギンギンなタイプだし。あんたに言ってやりたいこともあるし?」
「ええと……じゃあ、離していただけないでしょうか……」
「はなしてほしいんだ? 自分は話してくんなかったのになー」
「ほんとごめんって」
「冗談だよ」
 冗談、と、くすくす笑ってみせるくせに、腕の力は一切ゆるまない。それどころか、ミツの手のひらは、ぐっと俺の肩を掴んで……。
 強引に横に倒した。
「うお⁉︎」
「あんたが寝て欲しいなら寝てやるからさ、一個、オレにも詫び入れて」
「また物騒な言葉使って……なんの影響よ」
「八乙女の出てた時代もの。じゃなくて、あんたの話させてよ」
 ミツの腕に力がこもる。肘を突っ張れなくなったせいで、もう全身が密着してしまった。どくどくと焦りにはやる鼓動が、ミツの胸に伝わっていくのがわかる。首を反らして、どうにか顔をミツの肩から離した。
「詫び……って、何したらいいんだよ」
「……さっき、やんなかったこと。させてもらおうと思って。あんた、言葉にしないで待ってると、どっか行っちまうから、今夜のうちに」
「何……」
 照れたらいいのか謝ればいいのか。ないまぜな感情をとりあえず怒りの声で押し出すと、後頭部に何かが押し当てられた。
 首の付け根をくすぐるように、指先が頭皮を撫でる。
 体温の高い、ミツの手だ。
「慰めさせて」
 ミツが囁く。
「……やめろよ」
 指が、髪の間をくぐって、肌をやわく擦った。
「殴って、痛かったろ」
「別に……メイクで誤魔化せたし」
「それでも、痛かったろ」
 乱した髪を整えるみたいに、何度も、手のひらが頭を往復する。
 狭苦しく、秘密を詰めて上下する、鏡の張られた箱を降りて。百さんの前で膝を抱えた。
 眼鏡で隠したってあいつにそっくりだと、何度も俺を刺した千さんに、守られた。いい加減に見えるくせに、俺に言ったことを覚えていて。
 ミツは、何度も電話をよこした。離れようとする俺をゆるさなかった。
 自分本位な企みなんかに、巻き込んだ俺を、誰も、責めなかった。
 肩が震えた。喉が引き攣る。こらえたくて奥歯を強く噛み締めても、ふ、と湿った吐息がこぼれた。
「肩に顔押し付けて泣くのも、むかつく親父さんに真っ向から喧嘩ふっかけんのも、上手くなったらいい」
「う……っ、う」
「殴ってごめんな」
 吸ったそばから、息が嗚咽になって溢れていく。気づけば拳で、ミツのシャツを握りしめていた。ひとまわり小さな背中にすがると、ミツの手が、ぐっと俺の頭を抱きこんだ。ミツの手は、肩に瞼を押し付けさせて、後から後からこぼれる熱を、シャツに吸わせた。こうやって泣くんだぞ、そう教え込むみたいに、強引で、優しい手。
 何も教えてくれなかったけど優しかった。
 随分前に離した手を。話してくれなかった人の手を思い出す。
 ごめんなさい。小さく呟いた声が、ぐっしょり濡れたミツのシャツに吸われる。
 ばか、いいよ。あたたかな声がまた降ってきた。

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