第三軌条の果てに逃がすよ

 浴衣越しの空気の冷たさに肩を震わせ、三月は目を覚ました。口元までかけていたはずの布団が、肩の下までずり下げられている。しだいにはっきりしてきた視界に、満足げに自分を見つめる恋人の顔が大写しになり、三月は唇を尖らせた。
「おはよ……」
「ん、おはよ。何。不機嫌そうじゃん」
 大和の指が、三月の唇をむにりと押す。横にねそべって頬杖をつき、大和は三月をずっと見ていたらしい。いつから起きて見ていたのか、寝起きにしては浴衣も整っている。
「起きてたなら起こせよ」
 もう外はかなり明るい。少なくとも八時は回っているだろう。もしも大和が仕事のある日に合わせた時間に起きていたのなら、かなり長い間、寝顔を見られていたことになる。
 気まずさに掛け布団を引き上げて口元を隠そうとする三月に、大和は上機嫌に笑いかけた。
「起こさなくても起きたじゃん。寝坊してやるって張り切ってたから、起こさなかったんだけど」
 大和の長い指が、三月の目にかかった前髪をかき分けるのを、三月は目を閉じてやりすごした。クリアになった視界で、改めて、朝日の中の大和と目が合う。
「朝はオレが先に起きたかった、昨日負けたし」
「勝ち負けなの? じゃあ、敗者のミツには何してもらおうかな」
「なんでも聞いてやるよ!」
 また三月の唇を押したり引いたり弄り回す大和の手を歯牙にもかけず、三月は腹筋に力を込めて起き上がった。ばさりと布団を払うと、ぴっちりと浴衣を整えて揃えた大和の両脚があらわになる。
「じゃ、大和さんにお茶一杯淹れてよ」
「はいよ……なあ」
「うん?」
ベッドを離れようと、通路側の大和を跨ぎにかかりながら、三月が大和の腰に手を当てる。
「腰、平気?」
 三月の問いに、大和はにっこりと笑い返した。
「お兄さん、そんなにヤワじゃないですよ」
「……大和さんがそういう言い方するときは、信じないって決めてんだよな」
 とたんに三月は目を眇め、疑うように、大和の目をじっと見つめ返した。
「いやほんとほんと。ちょっとだるい……ってか、変な感じはするけど、いつものことだしさ。運転は問題ないよ」
「変な感じ?」
「ああいや」
「つらいなら言ってくれよ。隠し事、しないんだろ」
 三月は、大和の仕草からも答えを見通そうとするかのように、大和を眺めまわした。大和の、わかったよ、というつぶやきに、ようやく三月が眉を開く。
「まだ何か入ってる感じすんの。言わせるなっての」
 どこに何が、という言葉をぼかした言い方でも、勘の良い三月にはすぐに伝わったらしい。三月ははじかれたように大和の体の上から退き、立ち上がった。
「あ、あー! なるほどな!」
「ミツが照れんじゃないよ」
「うはは」
「ははは」
 笑いながら、ベッドの脇に立っていた三月が、膝をつく。大和の枕もとに顔を寄せ、ちゅう、と頬に吸い付いた。二度、三度、キスを何度も繰り返す。
「あとで温泉入ろうな、腰、さすってやるから」
三月は喋る間もキスをやめない。むちゅむちゅと顔に押し付けられるくちびるに、大和は片目をつぶり、それから眉を下げた。
「ん……ちょ、ミツ……も……キスしすぎ」
「顔中にしていい?」
「なんで。いいけど」
 大和が許可しなくてもキスをするつもりなのだろう、三月はすでに、両手で大和の眼鏡を取り上げている。鼻の頭にキスを落とされ、あまつさえ唇で甘く挟んで呼吸を妨げられて、大和はさすがに眉をしかめた。三月が、大和の嫌そうな様子に気づいて、楽しげに唇を離す。
「今朝の大和さん、かっこよくてムカついたから。仕返し」
「別に攻撃してないんですけどね……」
 大和の表情が和らぐと、三月の表情はそれ以上に明るくなる。窓からさしこむやわらかな陽光のなかで、三月の茶髪が、オレンジに透けた。
 大和は一瞬、目を瞠った。
 それから、褒められた喜びをとどめずに顔に出す。
「あは、だらしねー顔」
「誰のせいよ。眼鏡返して」
「照れてる顔はかわいいぜ」
「お茶!」
「はいはい」
 茶化して満足したらしい三月が、立って備付けのポットに水をくむ。急須に茶葉を用意して、お湯が沸くまでの間、ベッドの端に腰かけた三月の背に、大和はそっと寄り添った。三月の、大和よりも小さな背中は、しかし揺るぐことなく大和の体重を支える。大和は三月の両手に自分の手を重ねた。
「何? 甘えた?」
「えーと、あれ。椅子。たーくん椅子してー」
「似てるし。大和さん、オレの声真似は下手なのになあ」
「そりゃ、惚れた弱みってやつでしょ。ミツの真似なんかしなくても、ミツ、ここにいるじゃん」
「……そういうこと言う?」
「言えちまうんだなあ。お湯、沸いたみたいよ」
「ちくしょー。オレ今日負けっぱなし」
 ぼやいて立ち上がった三月は、大和の左手は握ったまま、右手だけで器用に急須にお湯を注いだ。
「ちょっと冷ますよな」
「うん」
 三月が、猫舌の大和を気遣って、またベッドに腰を下ろす。ふにふにと、繋いだ三月の手のひらが、大和の手のひらの柔らかいところを押した。筋張った手の甲をさするように指を立てたかと思えば、親指で手のひらを撫でてくすぐって、ごまかすようにまた手を繋ぎなおす。
「帰ってからも……」
「うん」
 言いかけて引っ込めた大和の言葉を、三月は手のひらから受け取ったらしい。しっとりと熱い手のひらが、少しだけ強く、大和の手を握った。
 しばらくして、大和も飲める程度にお茶が温くなった頃には、もう朝食の時間になった。渋く煮出されてしまっただろうと覚悟をして飲んだのに、温泉由来のお湯の効果なのか、お茶は甘い口当たりだった。
昨日と同じ和室に用意してもらった朝食は、やはり豪華に、色とりどりの皿でテーブルに並んでいた。
「豪華だな。あー、でも俺、食前酒は飲めないんだよな」
「貰う。これ梅入ってる!」
「金箔もな。ちょっとだけ舐めさせて」
「ダメ。……あ、美味い」
名残惜しそうにグラスを見つめる大和を後目に、三月はさっそく大和の分の梅酒を飲みきってしまった。続いて自分のグラスを取る三月に、大和はじゃれつくような不平を漏らす。
「言うこと聞いてくれるって言ったのに」
「運転手だろ。今年は時期過ぎちまったけど、今度寮で漬けといてやるよ」
 観光が目当てではない。十一時のチェックアウトまで残る時間を、なるべくだらだら過ごそうと、朝食の支度は九時にしてもらった。ゆっくり食べても十時にもならず、二人は最後にもう一度風呂に浸かることにした。
「……生々しいな」
 インナー一枚になった大和を見るなり、三月は目を眇めた。
「え。何」
「いや、昨日いろいろしたの、体見たら丸わかりだなって」
 言われて胸を見下ろすと、乳首が、その存在を主張するように腫れ上がっていた。胸の中心にぽちりと勃ってインナーを押し上げる乳首を、大和はなんとなく、手で隠してみる。三月がぱっと視線をそらして、含み笑いをしながら言った。
「いや、もう脱いじまえよ」
「そうする」
 脱いだ服を適当に畳んで、浴場へ繋がる引き戸を開けると、今日は金木犀の香りが濃い。
「うわっ、いいにおいする!」
「金木犀だー! って叫ばねえの?」
「見えねえもん。あれば叫ぶぜ」
「はは。匂い、どこからだろうな」
「ぱっと目につくとこにはないよな。やー、でも秋って感じ。温泉たまんねえ」
「風呂上がりのマッサージチェアは本館にしかないんだな」
「それだけ悔しいよな。また健康ランド行こうぜ」
「だな」
 大和の短い返事の後で、三月が、客室露天風呂付き、とつぶやく。ちらりと視線を送られて、大和はその言葉尻に乗った。
「離れ一棟貸し切り」
「食事は和食懐石」
 三月の満足そうな返しに、大和の気分もよくなる。つい鼻歌を歌うと、三月が行きがけの話を持ち出した。
「オレとナギが月と太陽なら、大和さんは地球?」 
「なんだろうな。普通に人じゃね?」
「ナギなら、宇宙戦艦! って言いそう」
「もうちょっと楽な仕事につきたいわ」
「じゃあオレに就職する?」
「面接してくれんの?」
「二階堂君、君が弊社を志望した理由は?」
「えーっと、メシに惹かれて?」
「採用!」
「採用なの」
「胃袋掴んだ責任は取るぜ!」
 三月はきっと、何があっても逃げない。
いつか三月が疲れたとき、大和は、ありもしない逃げ道を、三月の前に用意するだろう。地下をめぐる線路に、ありもしない最果てを探すように。でも、三月には、見えないものは見えないし、愛して信じるものがある。だから大和は、その道を選ぶことを断られて、そうだよな、とその隣に立つことになるのだろう。
のんびり、時折何か話したり歌ったり、湯船から出たり入ったりを繰り返していると、日が高くなってきた。影を作るものの少ない露天風呂では、少し暑く感じるほどだ。
「そろそろあがる?」
「ん」
「帰りも売ってっかな、今川焼き。今度こそオレが買う」
「上りはどうかな」
 風呂を上がれば、もうすることはない。宿をチェックアウトして、車に鍵をさして、東京へ、あの日常へ帰ることになる。
ほんの一泊二日の、逃避行と呼ぶのもおこがましいような旅行から、三月はやはりきちんと帰る。三月のあるべき場所へ、役割を果たしに。
大和の役割は、逃げない三月に、逃がしてやると囁いて、オレは逃げないと言わせることだ。三月が三月の覚悟を、他の誰も太刀打ちできない、特別な才能なんだと自覚できるように。
そして、逃げない三月の背中をいつでも支えてやれる隣に、何も言わず立ち続けることだ。一緒になって、同じ未来を目指して歩く。
 ――ミツだけのものになれないのなら、ミツにしか見せない俺を、じっくりミツに覚えさせる。
逃げないミツ。一人で抱えきれないときは、俺がミツの覚悟になるよ。
逃がさないで、そばに居る。
じっと三月の裸身を見つめて黙り込む大和を、三月がふしぎそうに振り向く。
「大和さん? 行かねーの?」
「ん、行く」
 湯船を出ながら、三月が差し出した手のひらに、大和は自分の左手を重ねた。存在を確かめるようにぎゅっと強く、湿った手のひらを握る。
勝手に出てくる食事、ふかふかのベッド、二人を隠す湯気、甘い金木犀の香り。誰とも関わらなくていい時間。それらすべてを手放して、三月の手は、大和の手を握り返す。
「帰りも運転、頼んだぜ」
「任せなさい」
 部屋に足を踏み入れると、室咲きの紫苑が目についた。白い花を上へ上へと押し上げるような緑の葉。花の真ん中に盛り上がる鮮やかな黄色は、カーテンに翳らされ、オレンジがかって見える。
「帰りのプレイリストも作ってあんの?」
「おう! 帰りは歴代人気アイドル祭りだぜ!」
「てことは、ミツのソロ曲もあんじゃん。楽しみだな」
「今川焼き何個買わせる気だよ」
 おだてたつもりないんだけど、と笑って返し、大和は足元のバスタオルを拾う。三月の頬を拭くと、三月がくすぐったそうに目を細めて、大和の頬に手を添えた。
「一個でいいよ。その代わり、またミツのこしあん食べさせてよ」
「こしあんだけでいいんだ?」
「どういう意味よ」
「こういう意味」
 頬を包む三月の手のひらに力がこもったのに気づき、大和は少し背中をかがめた。濡れた髪が頬を撫でる冷たさに、合わせた唇が笑みの形を作る。それから大和は、唇をすぼめて、声もなく恋人を呼ぶ。
 ミツ。
 もっと俺のこと信じてよ。
逃げないお前が逃げないことを、お前の代わりに認めるから。一生懸命にさ。
 逃げない覚悟ができるってことは当たり前のことじゃないんだって、隣でいつも、当たり前に言ってやる。
 俺がおまえを、第三軌条の果てに逃がすよ。

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