第三軌条の果てに逃がすよ

助手席の三月がナビを操作して、慣れた動作で目的地を設定する。次いで、夏の終わりにふさわしい、落ち着いたトーンの曲が車内を満たした。Bluetoothで繋いだスマートフォンのプレイリストは、音楽好きな壮五と共に三月が作成したものだ。今日、二人きりで旅行に行く三月と大和を、メンバーたちは喜んで送り出した。
大和がフロントミラーの位置を直すと、三月もシートベルトを引いた。
「今日はよろしくお願いします」
「はいよ」
三月が、殊勝な声音で軽く頭を下げた。素直そうに澄ました声。大和が応じれば、二人きりのドライブが始まる。
 午前七時。いつものオフなら高校生たちの朝食に付き合って、慌ただしい朝を過ごしている時刻。二人は、伊豆に向けて出発した。
「もうちょっと、夏っぽい曲でもよかったかな」
 走行距離が八〇キロを超える頃、プレイリストが一周し、三月がスマートフォンに視線を落とす。
「車の中暑くなってきたよな。窓開けるか?」
「オレらの曲かけたい。冷房入れる」
 二人きりのドライブでも、三月が提案する曲は、どれも七人で歌っている曲だった。大和はつい、からかうように言った。
「あれにしてよ、三日月のヴェール」
「Love two youにしてやろうか」
「遠慮しておきます」
気にした風もなく混ぜっ返され、ややあって、ナギと三人でユニットを組んだ初めての曲、「ピタゴラス☆ファイター」が流れ出す。まだそれほど膝を割って話せる間柄でなかったころの声は、いっそ新鮮にも感じる。改めて聴く自分の声が、思っていたより演技がかっていて、大和はハンドルを握りなおした。
「お兄さん、たい焼き食いたくなってきたな」
 気まずさを押し隠した声に、三月がくすりと笑いを漏らす。大和の居心地悪さを三月は見透かしているらしい。穏やかに甘やかすような声音になった。
「パーキングエリアにねーかな。運転の礼に、オレが買うよ」
「自分で買うから」
「遠慮すんなって」
三月が助手席から手を伸ばし、カーナビに表示されたパーキングエリアの一覧をスクロールする。
そのうちに、三月のスマートフォンからは、「GOOD NIGHT AWESOME」が流れ出した。
「懐かしい。大和さんの演技、マジでやばかったよな。毎回見入っちゃうから、オレらの曲流れるまで大和さんが知らない人に見えてた」
「今にしてみりゃまだまだなとこ多いけど」
「そう? あんとき、歌番組で歌ってるときも若干役っぽくてさ、大和さんじゃない大人がグループにいるみたいで、ちょっと緊張感あった」
「のわりにリラックスして歌ってるでしょ。思いっきり地声。こことか」
「それはオレの練習不足ってこと?」
「じゃない。センターで一番前で歌い出しって、初めてだったから。ミツの声がいつも通りで、元気づけられたって話。才能だよ、人を安心させるって」
 三月がシートベルトをいじりながら口をもごもごさせるのが視界の端に映り、大和はほほ笑んだ。
 たった一歳、年が違うだけ。それでも大人のようにふるまえるのは気分がよかった。いつも自分を翻弄する三月が、自分に翻弄されている。自分の運転する車に安心して体を預けて、他の誰もいない車内で、大和にだけ語りかける。
優越感ではない。ただ、三月が自分に惜しみなく与える愛を、そのままに返すことはできない大和が、そのままで三月の隣にいても良いという自信になる。
「大和さん、歌って」
「ミツ泣いてない?」
「さすがに泣いてねえよ!」
 ぐず、と鼻水を啜るように濁った懇願に、大和はぎょっとして隣を見た。確かに三月は泣いてこそいなかったものの、泣き出しそうに右手で口をかたく押さえて、ぎゅっと眉間にしわを寄せている。
 相変わらず、なんでそんなに自分を認めてやるのがへたくそなんだろう。大和の笑みが深くなり、眉が下がった。家族にもファンにもメンバーにも、三月が必要だなんてこと、誰の目にも明らかだ。愛されている自信をいくらでも持っていい人間なのに、三月はいつまで経っても花丸を自分につけない。
認めてやりたい。だから頑張るところを見ていたい。そんなふうに思っていつも自分を見つめてくれているのだろう、助手席の恋人に、大和は同じ慈愛を与えたかった。自然と、困ったような笑みが、口元に浮かぶ。
やさしくしてやりたい。
「どういう顔だよ」
 窓枠に肘をついた三月の声は恨めしそうで、前を見ている大和にも、その表情が手に取るように分かる。
「温泉楽しみだなって顔? 生歌ステレオは豪華すぎでしょ」
「えー。アレクサー」
「聞き取れませんでしたあ」
「アレクサそんな言い方しないだろ」
「アレクサじゃないっての。ミツの大和さんが、ミツだけに歌ってあげますよ」
 ハンドルを握る両手に軽く顎を預けながら、三月の方に視線を送る。三月は、とんでもなくまずいものを食べたような渋い顔で、目を瞬いていた。それから、音節ごとに区切るような、不自然なうめき声。
「う、わー」
 パーカーの首のひもを両手で前に引っ張って、三月は苦しげに眉を寄せている。
「はは、ミツこそどういう顔なの」
「温泉楽しみーって顔!」
「そうとう苦い顔だったけど」
 軽口の応酬のあとで、低く伸びやかな歌声が、大和の口から紡ぎ出される。その声が大和自身も驚いてしまうほど甘くて、三月も驚いて紐を取り落とした。
歌い終えると、タイヤが地面を滑る音、車の振動音だけが車内に響く。空気を入れ換えたくなった大和が細く窓を開けると、目の高さに強い風が吹き込んできた。
「開けんの?」
「ん。嫌?」
「や、大丈夫」
 三月が手を伸ばし、車内の冷房を切った。日は高く昇り始め、助手席側に日が差し込む。三月のプレイリストからは、よく知った自分たちの曲が流れ出した。
「ナナツイロREALiZE」――MVの撮影を思い出せば、北欧らしい街並みから、愛しい自分たちの仲間の顔が連想される。このごろいつもと様子の違う、人懐っこいくせに抜かりのない、十九歳のメンバー。いつだって愛に満ちた眼差しで自分たちを見つめる、金色の笑顔の彼。
「ナギは太陽みたいだよな」
 大和がまぶしさに目を細めたとき、三月がぽつりと呟いた。風の音にかき消されそうなつぶやき。見れば、三月の横顔は、うぶ毛まで光り輝くように、照らされている。ばさばさと風に髪を煽られるのを直そうともせず、じっと前を向いて座っている。
 月夜に、大和に一生懸命を教えた時と同じ、きれいな横顔。愛らしい、と評されやすい大きな瞳も、ぷくりと尖った唇も、形よくつんとした鼻も、まっすぐに進路を見据えて、りりしい。
「そうだな。黙ってると、月って感じの美形だけど」
「色も白いし。この世のものじゃないみたいな美形。ほら、かぐや姫とかああいう部類」
「けど喋ると、北風と太陽だよな。暑苦しくてさ」
「北国出身なのにな。オー! ノー! イエース!」
「はいかいいえかどっちだよ」
 ナギの口調を真似てみせる三月にも、月と太陽はどちらも似合う。月のように誰かを見守る、決然とした真剣さも、居るだけで場がぱっと明るくなる、太陽のようなエネルギーも、兼ね備えている。普通に生きていれば、大和はまず関わりを持たなかったタイプだろう。
大和は軽く肩をすくめた。
「太陽と月に挟まれて、ぜいたくなユニットですよ」
 りりしく引き結ばれていた唇が、ふ、と緩み、息をつく。伸びをしていた三月の背が、ぼすん、とシートに預けられた。からかうように三月が尋ねる。
「接待モード?」
「て言うより、デートモード」
 普段なら言わないような大和の言葉は、朗らかな午前の日差しを帯びて三月の耳朶に染み入った。あたたかなよろこびに、三月は口を開き、つぐむ。
 何も言われないと、心に恥ずかしさが育つ。大和のハンドルを握る手がじっとりと汗ばみ始めた。
「なんか言ってよ」
 尖った声音で促すと、三月はたっぷりと間を取ってから、その尖りに触発されたようないじけた声を出す。
「……運転中じゃなけりゃキスしたのに」
 軽口の途切れた車内に沈黙が下りる。視線のやり場に困るのか、三月は窓の外に顔を向けた。次々に流れていく景色は、もはやビルの立ち並ぶそれではない。木々の残像が木々に押し流されて行く、その向こうにもまた木ばかり見える。日ごろ目にしている東京の街並みとは違う郊外の風景は、三月に、大和と二人で過ごしていることを実感させた。日のさしてくる方に向かって枝を伸ばしている木々が、けなげに枝を揺らしているのが、遠くの方に見える。今日は風が強いらしい。

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