第三軌条の果てに逃がすよ
後続車の様子がおかしいと先に気づいたのは、三月だった。
「後ろ、車間おかしくない?」
言われてみれば、後ろの車がやけに近い。
「そのうち追い越し車線行くだろ」
道幅の広く取られた高速道路、空いている右の車線は追い越し専用だ、飛ばしたいのならそちらに行けばいい。
しかし後続車は予想に反し、大和たちの後ろを離れない。どころか、急に車間を詰めては、高速道路だというのに急ブレーキをかけてみたり、追い越したそうにゆらゆらと車線変更めいた動きをしてみせたりする。
キャップを目深に被った、黒いワンボックスカーの運転手は、どうも調子づいた若者のようだ。煽り目的でしているのだと、大和にもはっきり分かった。余計な衝突は避けたい、開いていた窓を閉める。窓はいやにゆっくりと閉まった。
薄目で隣を見れば、三月はすっかり気分を害した表情で首を傾げている。首を傾げる仕草といっても、纏う気配は愛嬌ではなく、ガンをつける類のそれ。
「は? なにあいつ」
三月はスマートフォンを取り出して、どうやらサイドミラーの動画を撮っているらしい。小刻みに鳴らされるクラクション。三月の眉が胡乱げにすっと上がった。今にも窓を開けて手を突き出して、立てた親指で地を示しそうな、不穏な表情が浮かぶ。
「させとけさせとけ、お兄さんは安全運転しますよ」
大和は慌てた内心を悟られないように、つとめて飄々とした声を出した。
三月の唇がへにょりと曲がる。
「大和さんだって腹立ってんだろ」
大和の耳に届いたのは、さっきとは違う、身内への甘えを含んだ不平の声だった。
「そりゃイラッとはするけど……隣に大事なミツ乗せてますから」
多少唇を尖らせてしまうのを隠しもせず、大和は少し照れながら、本心からの言葉を口にした。らしくないセリフを吐くとき、大和は、三月を見ることが出来ない。三月にも大和の言葉が本心だとわかったらしい、目を丸くして大和を見つめているのが、大和の視界の端に映る。
三月の左手が、三月の唇を覆った。
「なんかさ」
「何よ」
ずるりと、三月の背中が下がっていく。後ろ髪とTシャツの肩が座席シートにまきあげられた。グローブボックスにごつんと膝がぶつかって、三月の動きが止まる。
はあ、と長い溜息は、うっとりと尾を吊り上げ。その尾を取り戻すかに、三月は大きく息を吸った。
「オレの彼氏超かっこいい!」
車の外まで響いてしまいそうな叫びが、三月の胸からどっとあふれる。大和は肩をすくめてその大声をいなした。
「そ? ありがとな」
大和が横目で三月を見ると、目が合った三月が嬉しそうに笑う。にっと惜しげなく白い歯をさらし、大和に全幅の信頼を預けていると分かる、てらいのない笑顔。
咳払いをする大和の隣で、三月がふふんと鼻を鳴らした。気を取り直すように座りなおす。
「構って欲しいやつ構ったらつけ上がるしな」
「そーそ。ミツも俺も他の男構ってる暇無いし」
自分たちを納得させるための言葉を口にしあえば、自然と目が合う。ふ、と三月がいたずらっぽく笑い、ファンにするようなウインクをした。唇を軽くとがらせ、キスでも飛ばすようなリップ音を立てる。
「オレだけじゃなくて前も見てろな」
「安全運転つったでしょうが」
声優の現場で覚えてきたらしい小技がいじらしい。苦い表情を隠さず、大和は前方へ視線を戻した。三月は楽しげに含み笑いをしている。大和はほっと息をついた。
後続車は未だ厄介な動きを続けているが、ひりついていた車内の空気は、もう穏やかなものに変わっている。三月が、一一〇番を表示したスマートフォンを、センターコンソールに置いた。動画を撮るのはもうやめるらしい。
「なんかあったら通報はするぜ。事務所には悪いけどさ」
「そうなる前にパーキングエリア入るから」
首を傾けて鳴らす大和に、おう、と応じながら、三月が拳を突き上げる。打倒、とでも言うようなしぐさ。
「客室露天風呂つき!」
三月の叫びに、大和はほとんど条件反射で応じた。
「離れ一棟貸し切り、食事は和食懐石」
今朝まで何度も二人で定型文のように言い合った合言葉。何週間も前から楽しみにしていたこの日を、台無しになどさせるつもりはなかった。
速度を変えることはせず、大和はいつもと変わらない走行を続ける。大和が横目でうかがうと、三月は後ろの車に注意を払いながらも、車内に流れ出した曲に合わせて体を揺らしている。
三月のことを、逃がしてやりたい、と思っていた。何から、と言われてもわからない。切羽詰ったものはない。ただ、どこかにはけ口を作ってやりたかった。誰も悪くはないことに傷つけられては、傷だらけで前を向いて走っていくそいつに、傷つかないでいい場所でひと息つかせてやりたい。めったにない連休に温泉旅行を提案したのは大和からだった。
今後いつあるかもわからない連休、どこかに誰かと合宿にでも行く予定がもう入っているかとダメもとで誘ったら、三月は二つ返事で了承し、大和の希望や交通手段を聞き出すなり、宿の予約まで済ませてしまった。あれよあれよと進む準備に大和の方が驚いたくらいだ、
だってデートの誘いだろ、めちゃくちゃ嬉しいよ。本当にいいの、と尋ねたとき、三月は予約済みの画面にキスをするふりをしてはにかんだのだった。
往復の運転手が大和、ということははじめから決まっていたが、三月がドライブ中のプレイリストまで用意しているとは思わなかった。本当に楽しみにしていたのだと、三月は全身で伝えてくる。
だから、三月と大和のこの時間を妨げるものは許さない。パーキングエリアへ誘導する看板が出て、大和は方向指示器を点滅させた。筋張った腕で、軽くハンドルを回す。すぐさまもとの向きにハンドルを直しながら減速していく。まだ十時台の駐車場には、そこここに空車がある。空いたスペースに車を頭から突っ込み、大和は左手でサイドブレーキを引いた。
「ほい、到着。……何見てんの」
「や、運転してる大和さん、かっけえなって」
三月がシートベルトも外さずに、かぶりつくように大和に顔を近づける。大和は手を伸ばして、三月のシートベルトを解錠した。解放された三月の頭が、ドン、と大和の胸にぶつかった。
「助手席から見る大和さんは、ファンの子たちも知らないだろ?」
大和の汗ばんで湿ったTシャツに、三月が鼻先を擦り付ける。その淡い茶髪をぐっと押しのけ、大和もシートベルトを外した。
「降りますよ」
「はーい」
大和がドアを開けて外へ出ようとすると、三月が驚いた声を上げる。
「大和さん、汗やばいぜ」
「背中? もうじっとりよ」
言われて振り向いても自分の背中はよく見えないが、三月がそのシャツの裾を引いてぱたぱたと空気を送り込むと、ひんやりと冷たい。かなり広い範囲に汗が染みているようだ。
「運転中は動けないもんな。おつかれさま。着替え、オレの上着貸す?」
「や、シャツ羽織るから平気」
後部座席に投げ込んであったシャツを取り、靴をサンダルに履き替えてから、車のドアをロックする。すると、いつの間にか大和のそばに来ていた三月が、体を伸ばしながら大声を上げた。
「あー!」
「うおっ。どうした?」
驚いて、少し身をかがめて問えば、車の陰に隠れるようにして、三月が左手の甲を大和の左手にぶつけた。三月がすこし背伸びして、大和の耳元で囁く。
「手、つなぎてー、って思っただけ。二人きり、やばい」
「なっ」
三月の左手が、するりと大和の手の甲を撫でて、離れる。大和を捉える三月の目は、太陽の下でオレンジに輝いた。いたずらっぽさだけではない、獣が獲物を品定めするような、雄っぽい光が、瞳に揺れる。
自分が一歩後ずさったのを大和が知ったのは、三月の瞳に映された自分の姿をみとめたためだった。苦し紛れに、小さく吐き捨てる。
「……顔洗って来いよ」
三月に撫でられた左手の甲が熱い。警戒してぞわりと毛が立つ感覚を押さえようと、大和は右手でそこを押さえた。三月がくすりと笑って、Tシャツの腰に両手を置く。
「そうする」
三月が去ってから、大和は車のドアにもたれてため息をついた。さっきよりも肩がずしりと重いのは、運転のせいばかりではない。
「運転より、ミツに疲れさせられてる気がするわ……」
遠くで雲が風に流され、ゆっくりと東の空へ動いている。東京では、そろそろ全員目覚めたころだろうか。大和はため息をついて、車から離れた。