第三軌条の果てに逃がすよ


 重い体を引きずって売店へ行き、目当てのものを買って車に戻って、運転席のシートをリクライニングさせる。それだけの数分の活動で、大和の体はもう炭酸を求めていた。早くビールが飲みたい。買ってきたコーラを一口飲んでから、大和は体を起こす。
ほかほかと湯気を立てるビニール袋を手にしたとき、ちょうど三月がこちらへ向かってくるのが見えた。
 手洗いから戻ってきた三月が、大和の手の中のものをみとめ、目を輝かせる。顔を洗え、という大和の言葉に従ってか、かきあげたこめかみの髪が少し濡れていた。助手席から車に乗り込めばいいものを、その時間さえ惜しいのか、運転席の窓をとんとんと叩く。
 大和は手の中のものをくわえ、右手で窓を操作した。
「今川焼きじゃん! チョコ?」
「そ。たい焼きはなかった。こしあんもあるよ」
「さすが! 買うのやめて正解だったぜ」
 大和の食べている今川焼きの匂いがわかるくらい顔を近づけて、三月が嬉しそうに笑った。
「チョコも食う?」
「食う!」
「とりあえず助手席来なさい、半分こしてやるから」
「はいよ!」
 大和が窓を閉める間に、三月がちゃきちゃきと車の前を回って、勢いよく助手席に飛び込んできた。ぐわ、と車が大きく揺れる。
「やっぱこういうのはこしあんだよなー」
「チョコもカスタードも食うくせに」
「決まり事みたいなさ。パスタは巻くけど、蕎麦は啜って食う!」
「格式? お兄さんは味がうまけりゃいいと思うけど……ほい、チョコ」
「さんきゅ!」
 大和が今川焼きを差し出すと、三月はその手首をつかんでぐいと引き、そのままかみついた。かみつく勢いでチョコがあふれてしまったらしい、口の端を汚したチョコの餡を、大和は自分の頬を指で示して教えてやる。三月が大きな目をくりっと回して、あらぬ方を見ながら舌先でチョコをぬぐった。拭いきれていないチョコが、三月の唇のすぐそばに残る。
 ふっくらした唇の横にちょんとチョコレートをくっつけたまま、三月が大和の口の前にこしあんの今川焼きを差し出した。
「こしあんも食っていいぜ、って、大和さんが買ってくれたやつだけど」
 大和の返事も待たず、三月はふたたび大和の手の今川焼きをほおばる。手首を三月にとられたままで、大和は三月の手から今川焼きを食べた。黙々と手に顔をうずめる大和に、さっきの一口を飲み下した三月が話しかける。
「そういえば、沖縄では今川焼きのことあんこ饅頭って言うんだって」
「十さん?」
「そうそう。地域で違うらしいぜ。でも、クリームとかどう呼ぶんだろうな」
「クリームあんこ饅頭とか」
「あんこも入ってるみたいじゃねえ?」
「饅頭って言うのがそもそも誤解の元だよな」
「饅頭は饅頭だよな」
当たり前のことを言い合いながら、互いの手から今川焼きを食べた。
車に乗っているだけでも、それなりに空腹になる。会話もそこそこに、二人はあっという間に食べ終えてしまった。
 ごみを手早くビニール袋にまとめて、三月がシートベルトを締める。
「ごちそうさま! ほんと、ありがとうな」
「そんな感謝されるほどの値段じゃないって」
「今川焼きだけじゃなくてさ」
 ジュースボックスから三月が大和のコーラを取りあげて、ぷしゅ、と栓をひねる。
「さっきの、オレも大和さんも他の男構う暇無いってやつ。嬉しかったぜ」
 言い終えて一口コーラを飲み下し、三月は喉にはじける炭酸の刺激を目をつむって噛みしめてから、言葉を継いだ。
「旅館、楽しみだな」
 嫌な思いをしたことなどみじんも感じさせすに、三月が屈託なく笑う。本当はまだ怒りたい気持ちがあるのか、もうまったく気にしていないのか、三月の真意は大和にはわからない。
 楽しみだな、と三月が笑えば、たとえ疲れていても、がんばりますか、という気分が湧いてくる。頑張っている三月の天真爛漫な表情は、見るものに前進する勇気をくれる。
大和はそんな三月が好きだ。座席のリクライニングを起こして、座りなおす。
「楽しみね」
応えながら、三月の口元に手を伸ばした。唇にほど近いところについたままになっていたチョコを親指で拭って、自分の口に運ぶ。親指を唇に押し当てるようにしてチョコを味わう大和を見て、三月が、ふっと眉を上げた。
「ほんと、楽しみだな」
 同じ言葉を繰り返しながら、きっと考えていることはさっきとは違うのだろう。日ざしのように明るかった声が、今は夜の気配を帯びている。トーンの低くなった三月の声に、眉をしかめてから、大和は車を発進させた。
 その後の道のりには何事もなく、二人は予定通りに旅館の駐車場に降り立った。離れ貸し切りとはいえ、チェックインする本館の入り口には、ほかの宿泊客もいる。念のため三月は伊達眼鏡と帽子をかぶっていた。大和はいつも通りのいでたちだが、人に注目されにくい振る舞いはわかっている。演技と同じだ。そう騒ぎになることもないだろう。
「金木犀の匂いだ!」
「いい匂いだな」
三月の声は喜びに弾んでいる。咲き始めなのだろう、まだオレンジのまばらな金木犀に三月が駆け寄った。今年は秋の訪れが遅かった、旅館の入口の金木犀の半分くらいはまだ薄緑に、色づくのを待っている。それでももう充分、秋らしい香りを漂わせていた。プレイリストの選曲は案外正しかったのかもしれない。
「大和さん」
見せたいものでもあるのだろうか、三月が、ゆっくり歩く大和を急かすように呼ぶ。
昼前の到着、旅館の入り口を彩る金木犀の根元には、まだ露草が開いていた。紺に近い濃い青は、三月の愛する弟のカラー。イチの色だな、と声を掛けようと、大和は三月の隣に並んだ。すると、三月がふちの太い伊達眼鏡越しに大和を見上げる。
「へへ、オレンジと緑」
 三月は、小さく寄り集まった金木犀しか見ていなかった。
 大和は三月のキャップのつばを掴んで、ぐいと押し下げる。
「なにすんだよ」
「あんまりはしゃぐと目立つでしょ」
「変装もしてない大和さんに言われたくないんだけど」
「はいはい。入りますよ」
「はーい」
 わかりやすく不満をにじませた三月の返事に、大和は安堵の息をついた。緩んだ口元は、三月には見えなかったらしい。
三月が帽子を直しながら、大和に続いて自動ドアをくぐる。和装の女性が足音も立てずに歩み寄ってきて、上品に微笑んだ。
「お荷物、お預かりします」
「ああ、ほとんど手ぶらなので、大丈夫です」
「恐れ入ります。ご予約の、和泉様ですね。お待ちしておりました。こちらへおかけください」
案内された席は、ガラス張りの中庭がよく見える、ロビーの最奥の席だった。用意された紅葉の形の練り切りをつまみながら、三月がチェックインを済ませると、二人は部屋へ案内された。
本館の外庭の池に橋を架けて繋いだ離れは、よく手入れされた低木に囲まれている。池の間には足湯もあり、離れは本館からかなり離れるようだ。ようやくたどり着いた離れは、明るい秋の日差しの中、いっそ手を触れがたいほどの厳かな風体をしていた。三月が、大和の後ろで、ふわあ、と感嘆する。
案内人の女性に続いて橋を渡りながら、我知らず、大和は肩を回した。何ごともなく目的地に着いたこと、旅館の雰囲気が宣材写真の数倍良いこと、三月が喜んでいること、これから三月と過ごすこと。何もかもが、大和の肩を軽くする。
部屋はかなり豪華だった。座椅子の置かれた部屋、壁の戸棚を開くまでテレビが隠れる仕様も、二人の気に入った。寝室にはすでにベッドが支度されているらしい。このあとは、食事の用意以外、離れに人が出入りすることはないそうだ。
一室一室、案内人の女性が扉を開けては部屋の説明をする。そわそわする二人に説明を全て終え、食事の時間を聞き出すと、女性は部屋を出ていった。
いよいよ二人きりになった。と、後ろからちょんちょんと肘をつつかれる。
「すっげーきれいなとこだな」
「なんで小声なのよ」
「なんか緊張しちゃって」
大和は、羽織っていたシャツを脱ぎ、座椅子の背にかけた。不安そうに眉を下げる三月の帽子を取り上げて、文机に置く。
「何を緊張するわけ」
「チェックインの最中にお菓子とかさ。普通ねーじゃん」
「無いってこともないでしょ」
「オレにはねえの」
 三月の大きな瞳が、不安げな色をたたえたまま、大和を見返した。
「リラックスしろって」
いつもするように三月の肩に手を置いて、大和は肩をすくめた。あえて陽気な声を出す。
「まずは風呂だな!」
「ビールも飲まなくちゃな。あとはなんだろ、マッサージチェア? あっ、風呂も観に行こうぜ! 寝室の向こうって言ってたよな」
 大和の嬉しそうな声に、三月もつられて嬉しそうに応じる。楽しみにしていたことを端から羅列され、大和は三月の肩に載せていた手を、背中に回した。金木犀と同じ淡さのオレンジを、自分の胸に、強く抱き寄せる。
「そんな急がなくても、全部できるって。一泊二日もあるんだから」
 今にも飛び跳ねそうなつむじに額を預けて言えば、三月はくすぐったそうに身をよじった。
「一泊二日……連休! たまんねー!」
「ミツはとりあえず叫ぶよな」
いつかも口にしたような台詞をなぞると、三月が顎を上げて、大和を振り仰ぐ。
「それ、前も言ってたぜ」
 白い歯をのぞかせた唇が、すぐに閉じ、大和の頬に押し付けられた。柔らかな唇の感触は、これまで何度も受けたものと同じ。
同じ記憶の中に生きている。これから、同じ記憶が増えていく。ほかの誰でもないたった一人の相手と、過ごしていく。
「こんなに……」
「ん?」
 思わず口をついて出たつぶやきは、最後まで声になることはなかった。幸せだと口に出せば逃がしてしまうような気がして、大和は唇を閉じた。
 告げる代わりにキスを返した。三月の頭を片手でがしりとつかんで、頬に受けたキスを唇に返せば、三月の腕が首に回される。
「風呂、行こうぜ」
 甘く誘う声。三月の瞼は半分降りて、残る半分の瞳に大和を映す。わずかに上がった口角が、三月の思いを大和に知らせた。
「うん」
 応じる声に期待がにじむのを、三月も感じ取ったらしい。名残惜しそうに三月の両手が大和のこめかみを撫でる。大和の額にばらつく前髪を、三月は目を細めて整えた。
 その手に自分の手を重ねて、大和はゆっくりと手を降ろした。子どもが手遊びをするみたいに、両手をつないで向かい合う格好になる。
「なに照れてんの」
「大和さんもだろ」
 まっすぐに大和を見つめて、三月がふふんと鼻を鳴らした。それから目を閉じて、何かを待つように大和の手を強く握りなおす。降りた瞼の向こう側で、挑むような目が大和を見ている。
 望みどおりにキスをしたとき、三月の片手が大和の手を逃れて、大和の後頭部をぐっと引き寄せた。
「んっん!? んん!」
 強引な舌の侵入に、下唇がめくれた。驚きながらも、歯列に三月の舌が押し当てられたとき、大和はあっさり口を開けて、その舌を迎え入れてしまった。
奥歯を舐められる感触に背中が震えた。一つ一つの歯の表面をなぞった舌が、大和の喉の奥を目指して上あごを滑り出す。大和の口の端が、三月の唾液に濡らされる。じわじわと育つくすぐったさが、あと少しで快感に変わってしまう、というところで、三月が唇を離した。
離した唇を、先ほどまで大和の口にうずめていた舌で舐める動作。もったいつけるような仕草の後で、三月は細めた目に大和を捉えた。
「足んない」
「そんな急がなくても、全部できるって……」
 大和の目に苛立ちがにじむのを見て取り、三月の笑みが深くなる。掴んだ大和の手を振りながら、寝室へ向かった。

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