第三軌条の果てに逃がすよ

「まずは無事の到着に。乾杯」
 大和の号令で、つくりの薄い小さなグラスを打ち合わせる。かちんという音のあと、ビールを飲み干す沈黙が和室に降りた。湯から出て、さっぱりした体で仮眠を取れば、もう夕食の時刻になっていた。先に起きていた大和に起こされた分、酒を注ぐのは三月の役目だ。
「無事なー。煽り運転はされたけど」
 ビールを注ぎ足しながら悪戯っぽく付け足した三月に、大和が口元の泡をぬぐいながら肩をすくめる。
「いやほんと、あの時ミツがいつ暴れ出すか、お兄さん戦々恐々でしたわ」
「え? すげーかっこいいこと言ってたじゃん! また嘘?」
畳の上に向かい合う座椅子と座布団、広い漆塗りの座卓というテンプレートな支度の光景に、色とりどりの季節の食事が載っている。勝手にやるので、と、順繰り出てくるはずの料理を全て一度に出してもらったために、前菜からメインまでが所狭しと並んでいた。
火を入れられたすき焼き鍋から、割り下のあまじょっぱい匂いが漂い始める。白く鼻の下に残った泡もそのままに、三月は野菜を鍋に落とした。
「あれも本音だけど! これも本音」
「それ言わなきゃかっこいいままだったのに」
「ミツには全部教えちゃう」
 大和も三月に倣って、切り分けられた食材を鍋の中に落とした。三月は口元の泡をぬぐいながら、井戸端会議の奥さんのようなしぐさで、手で口を隠す。
「はー? かわいい……」
「うはは。好き?」
「好き!」
イエーイ! と三月が差し出したグラスに、大和もグラスを合わせて乾杯する。二度目の乾杯の小気味いい音がはじけて、三月がたのしげに笑いだした。
「腹減った! 昼、結局今川焼きしか食ってねえもん」
「やー、寝起きのビールが旨いわ」
「寝起きじゃなくても旨いだろ、大和さん、ビール」
 三月が肩を揺すって笑う、その朗らかな表情につられて、大和の頬も緩む。大和の、あきらかに気を抜いた表情を認めて、三月もまた笑みを深くした。
「明日の朝も飲みたいな」
「朝はダメ。今夜も、深酒すんなよ?」
「えー」
「その分、朝すっげー寝坊しようぜ!」
「すっげー寝坊すんの?」
「おう! あ、でも、チェックアウトの前に一回温泉入れるくらいな!」
いい日だ。大和は、ピンクの生姜の添えられただし巻き玉子を箸で崩しながら、目を細める。
愛する人と二人きりで、同じ浴衣に身を包んで、食事を囲んで、酌み交わす。こんな晩餐が、自分の人生にあるなんて。口の中に広がる出汁の風味は、日ごろ三月の作るものとはやはり味わいが違ったけれど、どことなく、三月の作るものの味がする気がした。大和はもう、何を食べてもそう思うのかもしれない。
「あ、これ旨い」
 何か口に含んだ三月が、ひょいと眉を上げる。
「え、どれ」
「これ……ん、あーん」
 三月が、吸い物の手毬のような麩を持ち上げ、大和の方へ箸を向けた。
「俺の方にもある……」
「いいから」
 促されるままに開いた口に、漆塗りの箸が侵入し、舌の上にぬるい麩を落とす。染み入った出汁の味は、飛魚だろうか、さきほどの出汁巻き卵とはまた違う風味がした。
「……旨い」
「だろ! なあ、オレにも」
「えー? ……あーん」
しぶしぶ、大和もおなじ麩を三月の方へ差し出す。ぱっとその箸の先の麩をくわえ、三月が笑った。
「んー、やっぱうめー!」
「そりゃよかった」
「さっきよりうまいかも」
「人の飯って自分の飯よりうまいよな」
「大和さんのあーんだし、二割増しくらい」
「誤差じゃね?」
 軽口をたたき合いながら、大和は膝を崩した。三月も胡坐をかいていて、はしたなく開いた浴衣の間から、下着が少し見えている。
「ミツ」
三月のグラスの減りが早いのに気づき、ビール瓶を持ち上げて呼べば、三月は袖を押さえながらグラスの口を大和に向けた。
ゆるく傾けられたグラスに、瓶の口を差し出す。大和は瓶の中身をすっかりグラスに注ぎきってしまった。黄金の液体がグラスの中に泡を結んで、たちまちグラスはいっぱいになる。三月は、零さないように腕を引き、グラスに唇をつけた。
空っぽの瓶を脇に置きながら、大和は匙を手に取った。
「ミツにだけは全部あげるよ」
ゆるめに作られた豆腐をすくって、口に運ぶ。舌にのせた先からとろけて形を失うそれは、濃厚な風味を大和の口内に残した。カラフルな皿が身を寄せ合う座卓の上に、鍋のオレンジの火がちらつく。
三月は、大和に注がれたビールを、ひと息に飲み干す。それからすぐ、脇にあった中瓶に栓抜きを当てた。
「オレにだけじゃなくて、アイドリッシュセブンに、全部よこせよ」
瓶の王冠にあてがわれた栓抜きの銀色がにぶい。王冠は栓抜きにぐにゃりとゆがめられ、三月の指につまみ取られた。二つに折れた王冠は、三月の手の中に隠れてしまう。
「隠しごと、してもいいよ」
三月が、いつかの喧嘩を思い出したように、呟いた。空のグラスを持ち上げて、自らの手でグラスを満たしていく。注がれたビールが、じゅわりと泡立って嵩を増し、こぼれる寸前まで盛り上がった。
「でもいつか、ちゃんと言ってくれよ。全部受け止めてやるからさ」
 三月のつぶやきに口をはさめない大和の方へ、三月が瓶を差し出した。中途半端にビールの残った大和のグラスへ、黄金色の液体がなみなみと注ぎ足される。
「あんたに信じてもらえること、あいつらも喜ぶ」
 三月の答えは、いつもこうだった。
 大和は器用に泡の立てられたグラスを取り上げ、一口飲む。
 三月は大和だけのものではない。
 大和を三月だけのものにすることもない。
 大和はつぶやいた。
「今は、隠しごと、してない」
「うん。みんな知ってる。信じてるぜ」
 三月も大和と同じように、同じ瓶から注がれたビールを飲んでいるのに、大和が三月にしてほしいことは、三月には伝わらない。いつの間に置いたのか、三月と大和の間には、二つに折れ曲がった王冠が置かれている。もう蓋として機能することはない王冠。
 ぐ、と飲み干したグラスに、大和が自分でビールを注いでいると、三月がくすりと笑いを漏らす。
 照れくさがっているのだろう、と察したような微笑みのあと、三月は話題を変えた。

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