第三軌条の果てに逃がすよ
「煽り運転て、何のためにすんのかな」
「んー。リストカットみたいなもんじゃないの」
「手首切るやつ? どっちかって言うと自己顕示欲じゃねえ? オラオラ! みたいな」
「じゃああれだ、飛び降り」
物騒な会話をしながら、大和はとろろ昆布の巻かれた湯葉の塊をとる。飛び降りなあ。相槌を打ちながら、三月は金箔の散った出汁のゼリーを掬った。刻み海苔と一緒にオリーブが載せられているあたり、和モダンというコンセプトが料理にも活かされているのがわかる。底に溜まったオレンジ色は、何かと思えば明太子のジュレだった。
「飛び降りはしないけどさ、もしホームに飛び降りた人いて、助けてる間に電車来たらやばいよな、とか、たまに考えねえ?」
「ミツ本当にやりそう。もしそうなったらホームの下の窪んだとこ逃げ込めよ」
「そんなのあるっけ」
「あるある……ほらこれ、待避所」
ホームの下、窪み、と検索した先の画像を、大和が見せる。三月はそのサイトに興味を持ったらしい、大和のスマホの画面をタップして、画像の元のサイトを開いた。
「うわ、ホームって落ちたら感電すんだって。大和さん、知ってた?」
「たしかに電車、電気だしな」
サイトによると、地下鉄では、第三軌条、という線路から車体に充電しているらしい。そこに通った電気に感電する危険があるという話だった。
三、という数字を見ると、なんとなく三月に繋げてしまう。大和がスマートフォンから視線をあげると、大きな目をこぼれんばかりに開いて記事を読む三月が目に映った。三月は真剣に、そのサイトの感想をつぶやく。
「重力ヤバくて上がんねーのか。たしかに下から人間持ち上げんのはきついよな」
「ホーム、意外と深いんだな。俺は上がれないな」
「おっさんが酔って落ちたら、すぐ電車止めてやるよ」
三月がスマホを置いて、何か押すようなしぐさをする。浴衣の袖の奥の暗がりに白い脇がちらりと見えて、大和は一瞬、言葉に詰まった。ごまかすように、一口大に握られた高菜おにぎりをほおばってから、問いかける。
「……何だよそれ」
「非常停止ボタン押す素振り」
「要る?」
笑ってまた食事を再開する三月の鍋はもうかなり煮えていて、くたくたの白菜の緑に人参が透けている。野菜を一通り取ってから、三月が肉を投入したのに倣い、大和も肉に箸をつけた。
第三軌条。初めて知った言葉を、大和は胸の内に繰り返す。人を乗せる入れ物に動力を注ぎ続けるために、地下をめぐらされた線路。陽の光を知ることの無いその線路に、果てはあるのだろうか。
きれいに飾られた刺身を、舌で迎えるように一口にほおばって、咀嚼する。他ならぬ自分が、堂々巡って逃げ場のないものを思ってしまうのが、大和にはばかばかしかった。ばかばかしい、というより、どこかくすぐったい。先生に習った書き順で、黒板にひらがなを書くみたいな、懐かしい、誇らしくて気恥ずかしい感覚。
三月が置いたスマホの電源を落として、床に置きなおす。それから大和は、三月を見つめた。
いつだって誰かのために、より多くの人のために、小さな体に全開の力をみなぎらせている三月。三月の箸は、さきほど取り分けた野菜にのびた。三月の皿の多くはバランスよく中身を減らされ、残りを取られるのを待っている。
「ミツはさ。難しく考えてる奴、そんな好きじゃないだろ」
「うん?」
突然話し出した大和に、三月が箸を止め、顔を上げた。
「ああ、好きじゃないっていうか、ミツは単純に捉えがちっていうか」
「なに、短絡的って言いてえの?」
「じゃなくてさ。直感でわかるだろ、相手のこと。そういう感度が高いから、頭回して相手のこと必死こいて考えるみたいなこと、考えたこともないっていうか」
ぱちぱちと視界の端に火がちらつく。明るかった外はもうすっかり暗くなり、二人だけの離れをいっそう世の中から隔絶しようとしているようだ。しんとした室内の空気に耐えかねて、大和は話を強引にまとめようとした。
「ダメだ酔ってる、うまく言えないわ。この話はここまでで」
「だめ。ちゃんと言えよ。聴くからさ」
三月が箸を置いたのを、言うから、と小さな声で制しながら、鍋の野菜を口に運ぶ。大和も食べられるほどに温んだ野菜は、三月には冷めたと感じられるかもしれない。
「……チョコのたい焼きは邪道で、こしあんが王道だろ」
「おう」
「遠慮しないで言うけどさ。普通さ、男は女と付き合うもんでしょ」
語弊のある表現であることを前置いて、大和がグラスをとり、口をつける。薄いグラスのふちは、冷たく、大和の唇を濡らした。
「ミツは、普通の生き方をするって、思ってた」
つぶやきは、決して大きくはない。けれど、向かいの三月の耳に届くには、十分な大きさだった。どちらかが黙れば、どちらかの声しか聞こえない。そういう場所に二人きり。
ふと、鍋の火が落ちた。
ふちに灰汁のこびりついた鍋の中に、湯気を立てながら、肉が色を変えて浸かっている。三月はその肉を、溶き卵にくぐらせて、一口で食べた。大和も同じようにそれを口に運ぶ。
「うわ、うま」
「な! 火通しすぎた気してたけど、ぜんぜん柔らかい」
思わず大和が零した声に、三月も応じて、二人して無心で肉をほおばった。ほとんどビールばかり収まっていた胃袋が、米と肉で刺激されると、とたんに箸が進む。鍋に残ったえのき茸も、刺身のツマも、ふたりですべて平らげてしまった。
あっという間に、豪勢に並んでいた机の上の食事を食べきって、二人はそれぞれ手のひらを合わせる。寮でいつもメンバーたちとやっている、ごちそうさま、の挨拶をすれば、おいしいものに舌鼓を打つ時間に代わって、話の続きがまた始まる。
「……確かにオレは、大和さんへの気持ちが恋なんて、思いもしなかったよ」
三月のグラスには、もうほとんどビールは残っていない。残る泡を飲み干すように、三月がぐいとグラスをあおった。
「なあ大和さん、温泉行こっか」
グラスを離した三月の口には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
三月が膝を立てて立ち上がり、皺の寄った浴衣の裾を手で払う。座卓を回って大和の方に来ると、胡坐をかいた大和に手を差し伸べて、目を合わせた。載せた手を、強い力で引かれ、大和は立ち上がりざまに二、三歩よろけてしまう。
それに触れると、感電するという、線路の名前は、何だったか。三月に手を引かれながら、自分たちの部屋の寝室へ戻る。触れた手の熱さに、胸は熱くなるばかりだった。