第三軌条の果てに逃がすよ


部屋につくと、三月の手が、大和の腰の帯をするりと引いた。肩に引っかかった浴衣を落として、下着に手を掛けながら、三月がなんでもない話を大和に持ち掛ける。
「さっきも思ったんだけどさ。ここの露天、盗撮しようと思えば出来ちまうよな」
 さっさと大和の服を脱がせた三月が、自分の浴衣も下着も脱いで、大和の手を再び取った。
 何ら特別なことなど無いと言うような自然な動作で、三月が大和の手を引きながら、浴場に続く引き戸に手を掛ける。
「思いながら、あんなことしてきたわけね」
「体洗ってただけだろ」
 昼間のことを互いに思い出しながら、吹き込む夜風に目を細めた。まだ暑いとはいえ、夜になれば、秋らしい涼風が吹く。酒に火照っていた体が、思い出したように震えた。
人の気配で浴場に明かりが点くらしい。ぼんやりと明るく灯ったオレンジの光に誘われるように、二人は浴場へ足を踏み出した。つま先に、濡れた冷たさを感じながら、大和は身をかがめて、桶に手を伸ばす。ざば、と桶の中に湯を掬う音は、暗い森の閑けさへ飲み込まれていった。
「盗撮ったって、川の向こう山だし。あんな草ぼうぼうのとこ、誰も入れないでしょ」
「分かんねえぜ。探検してて迷い込むとかさ」
「ミツじゃないんだから」
「は?」
 軽口の応酬の合間に、三月の体と自分の体に一緒くたに湯をかけて、大和は温泉に身を滑り込ませた。三月は手を離さないまま、大和の隣に座る。
 湯気がもわりといびつな円を結んで、夜の闇へ消えていく。夜空にほぐされて行くような湯気の動きを、大和は何も言わずに見つめた。
 左手を握る、三月の右手の重みと、三月の体が立てる湯の音。そのほかに、いま必要なものなど無かった。
「普通ってさ、大和さんが言うみたいに、男は女を好きになって、男が男のアイドルを応援するのは邪道で、そういう話なんだと思うけど」
 ふと、三月が先ほどの話の続きを始める。ゆったりと穏やかな、独特のかすれた声が、大和の耳にしっとりと届いた。
「オレと大和さんの間の普通が、普通になればいいんじゃねえの」
 三月の瞳に、浴場のオレンジの明かりが映る。湯にも同じように映った灯りが、三月の手でばしゃりと乱された。三月は、握った大和の手を、ぐっと口元に引き寄せて、大和を見上げた。
「今川焼きはこしあんだけど、チョコが美味いのも知ってるし」
 大和の手から今川焼きをほおばった、あの時のように、三月に唇が大和の手にうずめられる。柔らかな唇で手のひらを撫でられるくすぐったさに、大和は少し肩をこわばらせた。
「今川焼きがあんこ饅頭って呼ばれるのが普通の場所もあるんだぜ。普通なんて、自分にとって普通ならいいんだよ」
 三月が、肩の力抜けよ、とでも言うように、眉を下げる。
「大和さんが運転して、オレがうまいもん作って、二人で酒飲めば楽しくて、キスしたら気持ちよくて」
 ちゅ、とちいさな音を立て、三月の唇が大和の左手から離れる。
「オレの中に生まれるもんは、つくりもんじゃない。あんたのために何かしたいし、あんたの隣に立ってたい」
 三月が、浴槽の端に預けていた体を起こした。手を引かれて、大和も体を起こす。水面に立ったさざ波が、大和の体にぶつかってはじけた。
「つくりもんじゃなければ自然だろ。自然ってことは、普通ってことじゃん」
 夜空の下、濡れた裸をかすかな風にさらしながら、三月の腕を肩に受け止める。
 三月が、膝立ちになった大和に甘えるように、大和の首を抱きすくめた。どこからか、ふわりと金木犀が香る。
 何も答えない大和の頬に、三月の影が落ちた。
「普通じゃなくったっていいけど」
 三月の髪の先に、じわりと雫が膨らんで、落ちる。それを追った大和の目を自分に向けさせようとして、三月は大和の顔を覗きこんだ。
「あんたのこと、もう嫌いになんてなれねえし」
 いつか聞いたような、いつだって言えるような言葉を、三月は惜しまない。
 大和の唇が、これから発される言葉を悟って、泣き出しそうにわななく。それを寒さのせいだと言い訳もできないほど、三月の目はまっすぐに大和を捉えていた。
三月の唇が、大和の欲しい言葉を紡ぐ。
「好きだよ」
 三月の瞳に、大和の姿がすっぽりと収まる。そのシルエットが段々と大きくなって、三月の瞼が下りていく。
 唇が重なった。
また、ちゃぷんと波が立って、水面が静まるまでの間。
二人は、ずっと、唇を合わせていた。
「は……寒いな」
「オレも。肩まで浸かろうぜ」
 唇を離すころには、肩はすっかり冷えていた。二人で腰を下ろす。
「百秒数える?」
「ワン、トゥー、スリー、フォー」
「ファイブ、シックス、セブン、ジャンプ」
「始まりなのさ……」
 自分たちのデビュー曲を口ずさむ三月のカウントアップに、大和も歌って応じる。曲の歌い出しが、やがて鼻歌になり、三月が大和の方にもたれてきた。甘えるように、大和の首に腕を回したまま。ぴったりと肌が合わさったところから、熱が伝わる。大和より幾分か細い手首や腰が、大和を逃さないというように、大和の体に預けられる。
 大和の胸板に、全幅の信頼を持って預けられる、三月の胸。合わさった胸の鼓動が、直に胸を温めてくる。かすかに水面を揺らすその重みが、大和には心地よかった。
 信じることも、信じられることも、こそばゆくて厭わしいと思っていたのに。
三月が体を動かすと、乳首が大和の胸に擦れた。胸の突起に突起が触れる感覚に、大和は眉をしかめる。
ふう、と三月が吐いた息が、湯気を揺らした。酒のせいもあってか、肌の赤みは頬だけでなく、鎖骨の方まで広がっていた。
「なあ」
 三月がつぶやき、大和の肩に回していた両腕を、ゆっくりと引いた。首すじをなぞり、大和の伸びた横髪を掬いあげて、耳に掛ける。こめかみから耳の裏に触れた指先は、名残惜しそうに数回耳の裏を触って、鎖骨のくぼみへと降りた。
「朝飯、何時だっけ」
「……九時だろ。ミツ、一番遅い時間にしてたじゃん」
「大和さんだって、いっぱい寝たいだろ」
「まだ九時にもなってないって。なんで今、そんな話」
 大和の問いには答えず、三月は大和の首の回りをゆっくりと撫でる。
体を伝う三月の指が肩口に届くまでの間、大和はじっと三月を見ていた。湯気にぼやける眼鏡越しに、三月の目が、大和をとらえる。毛先から水を滴らせながら、三月が、大和の膝に乗る。大和の上げた腕に、湯が追い付かずに落ち、ばしゃりと水面を打った。
三月の頬を両手で挟んで、引き寄せる。キスの瞬間、三月の指が、大和の胸の脇をなぞった。ぞろりと口内に押し入ってくる舌を、あらがわず受け止めながら、大和は鼻から熱い息を吐いた。ぶあつい舌が舌の面をなぞるざらついた感触が、乳輪をゆっくりとなぞる三月の指の動きに合わせて、大和の脳にしびれを送る。
オレンジの明かりも、オレンジの髪も、すべてがまぶしくて、大和は目を閉じる。まつ毛の先にはじけた水を、三月の頬が受け止めて、雫を結んで湯に落とす。その湯の揺れさえ、大和の背すじに甘く響いた。
「勃ってる」
「ミツもな」
 はあ、と押し出した吐息が混ざりあう距離で、二人は互いの腰を見下ろした。赤く色づいた屹立は、互いの視線に射竦められて、ぐ、と頭をもたげた。意図せず収縮する筋肉の塊にごくりと鳴ったのは、どちらの喉だったのか。
 三月が目を閉じて、大和の唇に自分の唇をぴたりと合わせた。舌先で舌先をもてあそぶ、くすぐったいような刺激に、大和の腕が三月の首に回る。
 舌を合わせては離す、合間に吸い込んだ冷たい空気は、すぐさま熱い吐息になって、二人の口の中を行き来する。相手の呼気を吸う苦しさに、大和が唇を離した。
「……のぼせる」
 三月をにらみつける目に、てろりと潤んだ光をみとめ、三月がにんまり笑む。
「あがろっか」
 三月の手のひらが、大和の耳に掛けていた髪をとり、頭を撫でた。視界の端にいつものように降りた髪が、濡れて頬に貼り付く。軽くかぶりを振ってその髪をどけながら、大和は三月の首に回した腕を離さない。
「あがんねえの?」
 三月がおもしろそうな顔になって、大和の顎をくすぐった。
「あがる」
「ん」
 大和の答えに、三月は満足そうに微笑んで、唇を触れ合わせる。ちゅ、と軽い音の立つ、戯れのようなキスの後、三月が立ち上がった。
 均整の取れた三月の体の中心に聳えるものの大きさに、大和は思わず目をつむる。そんな大和の様子を気に留めず、三月は大和に再び手を差し伸べた。
 その手を取って、浴槽を出る。オレンジの光に背を向けて、ガラスの引き戸を開ければ、室内にまたふわりと、金木犀が香った。
 暗がりに白く浮かび上がる室咲きの花、それと同じ白さのタオルを、三月が大和の頭に掛ける。
「ありがと」
 部屋のマットを踏みしめ、大和は曇った眼鏡をタオルで拭った。眼鏡をかけなおすと、三月が髪を拭きながら、こちらを見つめている。
「大和さんのそのしぐさ好きなんだよな」
 こう、眼鏡上げんの、と言いながら、ない眼鏡を押し上げるように、三月も右手で顔を覆った。中指で眉間を押すふりをする、その指の間から覗く眼差しが、何かを期待して大和を捕らえる。甘く目を細めながら、その下半身はきつく反り、その時を待っていた。どうしようもなく勃ちあがった赤い肉の棒を隠しもせず、三月は大和をじっと見つめる。大和は、自分の脚の間にもそびえる同じものが、それを求めて湿るのを感じた。
 三月の唇の間に、赤い舌がちろりと覗いて、下唇をなぞって引っ込む。ぱさりと、三月が、髪を拭いていたタオルを床に落とした。大和が身をかがめ、体が近づく。
どちらからともなくキスをした。ふと目が合って、気づけば吸い寄せられていた。体を起こした大和の頭のタオルが、三月の両手に捕まれ、ぐっと引き寄せられる。
「しよ」
 ふたたび唇が触れる寸前まで顔を近づけて、三月がささやいた。熱気にうるんだ瞳と、負けないほど、熱い吐息。

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