方舟Ⅰ _暴かれて終わったオレたちの関係について


Ⅰ.暴かれて終わったオレたちの関係について

プロローグ

「別れましょう。俺たち」
似合わない敬語に、笑って肩を組んだ夜の、オレたちの笑顔がフラッシュバックした。
大和さんの頬に浮かんだ微笑みは、きっと、いつか大和さんが演じる切ないシーンの糧になる……なんて、こんなときにも、仕事のことを思ってしまう。
ざざん、と、大きな波の音がして、目の前の潮が引いていく。轟轟と風の音がする、冬の海。やたらに紅い夕焼け。
また、波がちいさく寄せてきて、オレたちの立つ堤防にバチャリと打って返っていく。大和さんは黙っていた。
オレと付き合ってから大和さんが演じた、少女漫画原作の振られ役の先生を思い出す。ヒロインに「先生のこと好きになっちゃうよ」と言われた時に見せた、こどもみたいな破顔。大和さんは、その演技で若い子のファンを増やした。その笑顔は、オレからの五回目の告白に、やっと大和さんが根負けした時に見せた笑顔だった。
画面の中のその演技を見たとき、大和さんのなかに、”オレ”が増えているのを感じて、くすぐったかった。
今日、今、この瞬間も、大和さんのなかに息づくオレのひとつになるんだろう。
いつかこんなふうに、別れを惜しむまなざしを、おだやかに海へ向ける男を、演じてみせるはずだ。この人は。
「はい」
オレも敬語で答えてやりながら。
ああ、本当に終わるんだ。って思いながら。
ちょっとだけ、鼻をすんと鳴らしながら。
貰った指輪をゆっくり抜いた。
休みの日、二人で過ごす間だけつけてよと、大和さんがそれを差し出した日を思い出す。
付き合って一年も経っていなかった頃、大和さんが買ってきたもの。お前さんは、こういうの、好きじゃないかもしれないけど、なんて、ぼそぼそと言い訳めいたことをつぶやいて、オレの指に嵌めてくれたもの。嘘だろお、と泣き出したオレに、本当だって信じたいから買ってきた、と、はずかしそうに声をふるわせて囁いた、銀色の指輪。
指の節に引っかかって抜けない指輪を、手のひらを上下に返して外す間、大和さんはオレの手を見ていた。
隣で、暮れていく海の風を受けて、せつなく微笑んでいる人が。途方もなく遠く感じた。波が引くたび、水平線に引っ張られるように、空に昏さが広がっていく。
けさ。今日この指輪を返すことになると分かっていて填めた指輪は冷たかった。指輪はすぐオレの体温に馴染んで、初めからそこにあったかのように、オレの薬指に光った。
……どうして、こうなってしまったんだろう。
海からのにぶい光が指輪を照らして、視界をじわりと滲ませる。
何度もあの人をいかせた。
何度もあの人と繋いだ。
何度もあの人と重ねた。
くすぐりあって、酒を交わして、子供らのための餃子をつつんで。
何度もあの人と。
ざざん、と、また波が寄せた。一度引いたおおきな水の塊が、ぐるんと裏返って落ちる、いきもののような蠢きの音が、胸を冷やす。
もう終わりなんだ。
指輪が抜けたので、渡す。その人は、裏面に印字された自分の名前のイニシャルを呟いた。
「ワイ」
大和さんの、無骨で男らしい指のなかに、オレの温もりが光っている。
「エム」
オレもまねしてつぶやいて、さっき受け取ったすこし大きい指輪を、人差し指に嵌める。
指輪を貰った次のオフに、大和さんと同じ店で買ったもの。シンプルなデザインなのに、とんでもない値段で笑ってしまった。あんたどんだけ本気だよ、と、指輪をくれた日の大和さんに胸の中で笑いかけながら、ああ、本気なんだ、と、店の中で溢れそうになった涙をこらえた。
自分用なんで、内側に、M、って刻印してください。伊達眼鏡に潤んだ瞳を隠して店員さんに頼んだ指輪。オレの指より少し太い、何度も絡め合わせた指に、オレの贈った指輪がひかる想像をして、飛び跳ねたいような、しゃがみこみたいような気持ちだった。
ずっと楽しかった。
大和さんと恋人でいることは。
「いままでありがと、ミツ」
やけに素直な声が、耳朶を打つ。
やめろよなんて言えなかった。泣き出してしまいそうだったのに。
海風が大和さんの長いシャツをはためかせ、大和さんの身体を、後ろへ引きずろうとしていた。大和さんは、よろめきもせず、海を見ている。
そうだ、ふだんは飄々として見せるのに、ほんとうはがっしりしていて、それなりに体力もあるんだ。
オレの好きな人。
「うん……」
過ごしてきた夜を思い返して。手のひらにつかんだ腰の勁さが、指の間から、風にさらわれていく。
遠い。
あの人だけの愛称が。オレだけの、あの人からの愛情が。
もうこれっきり。
両手を組んで、空にかざすと、人差し指に銀色が光った。
「ありがと、大和さん」
大和さんが、オレを振り向く。
もう涙をこらえることも出来なくて、あとからあとから頬を濡らすものを流れるままにして、オレは笑った。
オレはあんたが好きだから笑います。
泣いてるオレを笑うあんたも好き。
だから笑って。
精一杯の願いを込めて、大きく息を吸う。
「好きだーーーっ!」
胸をいっぱいに満たした気持ちのままに、ただ叫んだ。他にどうすることも出来ない。
大和さんが、隣で胸を膨らまし、口を開いた。
こういうときはいつも、肩を組んで、頬を押し付けあって笑って、口づけてきた。もう触れることはできない。お互いにわかっていて、ばかみたいに叫んだ。喉が潰れたっていいと思った。でも、オレもこの人も、潰れない程度に叫ぶんだろう。
「大好きだ……馬鹿野郎!」
大和さんの叫びに、目の前がぶわりと滲む。
こんなにもお互いに求め合っているのに、もう終わりなんだ。
夜空に突き上げた手のひら。人さし指の、鈍い銀色のきらめきを月明かりが照らして、とろりと頬に光を落とす。
衝動的に飛び乗った電車の、帰りの時刻が迫っていた。きいろい車両の、灰色の座席に身をしずめて、オレたちはあの街へ帰る。リュックを抱きしめて首をまげ、眠ったように目を閉じて、斜め前の座席に座る大和さん。オレの、深く被った帽子の上で、釣り広告にいくつもの文字が揺れる。
『二階堂大和 和泉三月 熱愛⁉︎ 都内ホテルで…』
『禁断の愛情か 薬指にお揃いの指輪』
『メンバー七瀬陸のコメントが決め手?』
昨夜。もう止められません、と、深く、深く頭を下げたマネージャーの前で。スポーツ新聞の一面なんて輝かしい場所にどでかく居座ったオレたちの名前を、二人で指差して笑った 。
夜中。ふたりして、ライブのアンコールくらい泣いた。珍しく大きく肩を震わせて泣くその人の身体は、信じられないくらい熱くて、大きかった。
その日、オレたちはメンバーに戻った。
それまでの全てを、嘘にした。

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