32SS 


◆今日は

「今日はカラッとお洗濯日和の一日です。それでは今日も一日、いってらっしゃい!」
「今日、なんの日か、覚えてる?」
 テレビの女子アナウンサーが陽気に放った見送りの言葉にかぶせるように、低い声が耳朶を打った。いつもより声がかすれて聴こえて、オレは隣に寝そべる恋人の下腹に手を当てた。
 当の恋人はというと、寝そべる、というか、両手を頭の後ろで組んで、休日のおっさんらしいだらけぶりの寝姿である。この人が昨日は目の端をじっとり濡らして、熱っぽい声で必死にミツミツと愛称を囁いてはキスをねだってきたことが嘘のようだ。とは思いつつ、やっぱり多少の無理をさせた自覚もあるし、腰はいちおういたわってやる。
 がっしりと骨太なわりに肉の乏しい薄い腰をさすりながら、オレは素直に問いかけた。
「なんか大事な日だったっけ?」
 昨晩、珍しく誘われて体を重ねたまま、その人のベッドで眠りについた。なんの日、なんて、それも体を重ねた翌朝に問うからには、何か特別な日なんだろうけど。
 一年記念日? なら、つい先週、そういえば今日で一年だな、おめでとさん、なんて言葉と水筒のお茶の乾杯で祝った。仕事の合間の楽屋で、二人きりでもなんでもない時に。子供たちがふざけあってはしゃぐ声の響く室内で、そのひと息だけ、声を潜めて。
 そういえば、なんて軽い言葉を使っているその人が、実はずっと前から記念日を心待ちにしていたことは、実は前から気付いていた。マネージャーにスケジュールの調整ができないかそれとなく話している場面に居合わせたのだ。いじらしい恋人にまた惚れ直した勢いのまま、その日の晩飯を無駄に豪華にしてしまって、大和さん本人から後ろめたいことでもあるのかとあらぬ疑いもかけられた。
 寮に帰ったらちゃんと祝おうなんて思っていたのに、オレも大和さんも疲れ切ってそれどころではないまま、スケジュールが合わずに結局昨日まで引き延ばしてしまった。
 ようやく二人きりになれたのは、昨晩。大和さんの、ちょっと大事な話があるから部屋に来て、とかいう濁したいんだか直球なんだか分からない誘いのおかげだ。大和さんの部屋で座れるところなんてベッドぐらいしかない。予想外に熱い掌で腰を抱き寄せられ、何も言葉にできない様子で肩口に?ずりをされれば、大事な話の内容なんて言葉より明らかにわかる。
 久々の挿入に身を震わせる大和さんのをしごきながら、これからもよろしくな、なんて囁いたら、今言うの、なんか体目当てっぽくない? と混ぜっ返された。終わってからも明日も言うし、と尖らせた唇に、大和さんが指を押し当てて。その指で自分の唇を押しつぶすようにしてキスをねだるもんだから、体目当てじゃないオレからはキスしてやれないな、と意地悪を言って拗ねさせてしまった。
 お詫びのキスも、大好きのキスも、数え切れないほどに交わして。正直、大和さんの乗り気具合は常じゃなかった。よっぽど溜まっていたのか、オレが欲しいって顔も態度も声も、後ろの熱も明け透けで、加減も駆け引きもすぐに吹っ飛んだ。久々だしなるべくゆっくり、と思っていた体の熱を無理やり引きずり上げられて搾り取られたような気分だった。
 終わってから時計を見ればもう日が昇るまで一時間もなくて、いつ日付が変わったのかも覚えていないオレたちは苦い目をして笑い合って、またキスをした。朝食の当番似合わせた目覚ましで起きたから、三時間も眠っていない計算になる。狭いシングルベッドで大の男が二人、熟睡なんてもとよりできるはずもない。それでも、不思議と普段の撮影明けよりずっと疲れは取れていた。
「なんかヒントねえ?」
「ヒント? えーっと、初回」
「初回? 初めてってこと?」
「そうとも言えるかな」
 煮え切らない言い方でヒントを告げながら、大和さんは視線をふいとテレビの方にずらした。ベッドからテレビを見ようとするとどうしても椅子が邪魔になる、時間を知るためだけにつけた番組を、まだ消さずにいるのは、この話題が大和さんにとって正面からするには恥ずかしい話題だからなのだろう。
 ということは、確実に恋人同士になってからのことのはずだ。
 初めてデートをした日、なんて概念はあるのだろうか。恋人関係を結ぶ前にも、何度も二人で買い物には行った。
いちおう、大和さんから送られてきた待ち合わせ場所を、わざわざ時間をずらして訪れて、待った? なんて定番のやり取りで笑いを誘って。
初めて唇を重ねたのも、付き合ってから、プライベートでに限定するなら、その日の帰り道だった。ただ、それは一ヶ月も先のことだ。
 恥ずかしながら、人と一緒に住みながら、一緒に仕事をしながら、恋人でもあるなんて距離感に、最初は慣れなくて。今の時期はむしろ、二人きりにならないように部屋を訪れることさえ避けていた。
思い詰めた大和さんが、もう終わりにしたいの、なんて、キッチンの壁にオレを追い詰めて聞いてきたこともあった。そんなわけないだろ、と無理やり抱きしめた体が、オレの腕の中で震えを熱に変えていくのが、生々しくて恥ずかしかったけど、すげえ嬉しくて。あんたを一生大事にする、って言ったら、得意の日記に書くなよ、黒歴史になるから、なんて言われた。
思いを軽んじられたようで、へそを曲げて部屋に引っ込んだのは、オレの方だった。その日のことは、仕返しに大和さんの晩飯を手抜きの茶漬けにしてやったのに、うまいうまいって喜ばれて、嬉しいし拍子抜けしたことも思い出せる。
 この人の、いちいち探りを入れないと好かれていることを信じきれない臆病さに、その後オレは何度も直面させられた。そういえば、そのことも、やっぱり日記に書いておいたような。
「うーん、思い出せねえ……朝飯作ったら、部屋で日記読み返すわ」
「いや、そこまでのことじゃないし、いいよ」
 大和さんの返す声音は、こころなしか硬い。
 またこの人は。
「あんたなあ。今またなんか我慢しただろ。あんた、一回引っ込めてまたちょっと経ったら出して様子見てってよくやるけど、最初からふつうにわがままこねたっていいんだぜ」
「いや、ほんと大したことじゃないし……ミツ、そろそろ手離してよ」
「なんで」
 質問ははぐらかされるわ、気遣いの手は拒まれるわで、オレのほうも声に力が入った。大和さんが眉を下げて、組んでいた手をほどく。
 ぱしりとオレの手をとらえ、そのまま布団の下に押し込むと、ギュッと両手で握り込んでしまった。
「お前さん、そこ、昨日散々舐めて煽った場所なの、分かってる? 思い出すでしょ」
「……する?」
「バカ。しません。朝飯作ってくれるんじゃねえのかよ。子どもらももう起きてくる時間じゃん」
「うー。せめて壮五がいたら、代わりに飯の面倒みといてくれんのに……」
「ソウがいたらむしろできないでしょ。ほら起きろって」
 この部屋の隣に住む、しっかり者の年下は、昨晩年下の相方と外泊をしている。オレたちのような色っぽい理由ではなく、ロケ先からの帰りの飛行機が天候の関係で機体ぐりがつかず、とかそんな理由だった気がする。
もしかしたら、単なる偶然ではなく、オレと大和さんの様子に気づいて気を遣ったのかもしれない。頼もしく聡すぎる隣人を思い出すと、朝食当番をサボる気にもなれなかった。
「って、せかしながら、オレの手離さないじゃん。大和さん」
「……離しました」
「オレに言われたからだろ。……ちゃんと思い出すから、待っててよ。朝飯も和食にしてやるし」
「もともとシャケだの卵だの買い込んでたの知ってんだけど」
「じゃあ、大和さんの米だけ合わせ薬味作って卵かけご飯にしてやるよ。ワサビが意外ときいてて、超うまいやつ」
 あとでおいで、と大和さんの額に口付けて、手早く服を着る。大和さんは、また頭の後ろに手を組んで興味もないだろう情報番組に視線を戻した。多分一年前のオレだったら見逃していたくらいのさりげなさで、唇を少し尖らせて。
 ……やっぱ拗ねてる。
 この一年でだいぶわかるようになった、大和さんのスローペースでわかりやすい感情の機微が愛しくて、もう一度ベッドに上がって大和さんの頭を抱き寄せる。
「早く行けって」
「んー、一回だけキスして?」
「……ん。いってらっしゃい」
 恋人のややなおざりなキスに送り出されて、渋々ベッドを降りる。
 離れぎわに見た大和さんの唇は、もう尖ってはいなくて、少しほっとした。
 ほんとにオレ、何を忘れてるんだろう。

おすすめ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。