32SS
居酒屋の暖簾に見覚えがあって、引き戸に手をかけたその人の表情を伺う。背が高くて髪が長い恋人の顔は、夕暮れの薄暗がりにはよく見えなかった。奥の座敷しか空いていなくて、二人しかいないのに、六人がけのテーブルをあてがわれてしまった。靴を揃えて座敷に上がり、あぐらで向き合って座る。
早めに出ような、と目配せで告げると、同じ思いだったらしい大和さんが、手早くつまみと生ビール二杯の注文を済ませてくれた。いつも、ミツが頼んだやつでいいよ、と自分からは頼もうとしない大和さんにしては珍しい。
乾杯するなり、ジョッキの半分近くを減らし、お通しのキャベツと鰹だしの煮物に箸をつける。そんなに喉が乾くほどの運動も、今日はしていないのに。
大和さんは、何を喋るでもなく、メニューに視線を落としている。話題なんていくらでもあったけど、むしろ何もないような気もして、その横顔をただ見つめた。
子どもらに付き合って菓子食ってる時とか、楽屋でぼーっと弁当食ってる時も、この人、既製品のパッケージの原料欄読むの好きだよな。なまじその原材料の意味するところに覚えがある分、オレなんかは、そんなとこ読みながら飯食って萎えねえのかと思うけど、何を見ているわけでもないらしい。
ぽけっと唇に箸を当て、口の中のものの咀嚼もそこそこに、頭を空っぽにする時間が好きみたいだ。飯の時間が静かなのは、一人っ子ならではなのかもしんねえな、と、オレはオレで大和さんの生い立ちを思う時間が嫌いじゃない。あと、単純に、何も考えていない大和さんは存外綺麗な顔立ちをしていて、しかもオレの視線に全く気付かないので、見ていて楽しい。
一杯目のアルコールを喉に滑り込ませた後の眠気のなかで、大和さんを見ながら、大和さんのことを考える時間は、この人と付き合ってるんだ、と感じて、すごく幸せだった。
自分じゃ悪人面って言うけど、細い猫目は涼やかで、通った鼻筋も羨ましい。鋭い顎におさまった、ちょっとぷくりと盛り上がった艶やかな唇は、理知的な印象の目元と裏腹に、欲望を煽る。目と唇の印象のアンバランスさが、そのままこの人自身の頼もしいのに世話を焼きたくなる不思議な魅力を表している気がする。
歌い方も、仕草もエロくふるまえる人だけど、一番は外見だよな。迫力と愛嬌が一緒になった、親しみやすいのに人を食ったような、穏やかさと怜悧さの調和した顔立ち。
この人に微笑まれたら、自分は特別な人間だと錯覚しそうになる魅力がある。大和さんの顔を見ていると、この人はアイドルとか俳優とか、そういう仕事に就くべくして就いたんだなと思う。その顔が特に好みのタイプってわけじゃない人でも、目が離せなくなるなんて、どんな特権だよ。
ふと、大和さんが視線を上げた。
「ミツ、ペース早いな」
「そう? こんなもんだったろ」
「次頼むわ」
オレのジョッキの減りに合わせて、大和さんが残った生ビールを煽り、店員さんを呼んだ。もしもこの居酒屋にボタンがあって、今二人きりでなかったら、店員を呼ぶ役目をめぐって勝負になっただろう年下たちを思う。
今日は俺とミツは外で飲むから、という、本題だけのメッセージには、いってらっしゃい! と心得たような返事が5つ並んでいた。どっか飲み行こうか、と誘ったのはオレからだったけど、やっぱり心得たように店を決めたのは大和さんだった。
二杯目も生。二杯目を頼むついでに、軟骨の唐揚げと、山形だしの冷奴。
大和さんの注文には迷いがなくて、おぼろげだった記憶がだんだん確かな形を帯びていく。大和さんは、あの日の記憶をなぞっている。
その膝に爪先をぶつけると、大和さんがメニューを置いた。
「一年前の今日の日記、見たらさ。一行しか書いてなくて。字もへろへろなんだよな。酔っ払ってて」
「……見なくていいっつったのに」
「よくなかっただろ。……なんて書いてあったと思う?」
「えー……日付と天気」
「だけじゃねえよ、それ足す一行なんだって」
「分かんねえっての。ヒントは?」
「んー、最初は、『打ち上げのとき』」
「打ち上げね」
大和さんが、オレの言葉を繰り返し、チラリと横目で周囲の席を伺った。靴を脱ぐのが遅かった大和さんが店内を背にする形だが、座敷の入り口は半分閉まり、周囲の席からこの席は死角になる。
どうしたのかと問う前に、大和さんは膝を立て、オレの隣へ回ってきた。
「……『ようやく覚悟を決めた』、とか?」
ぴったりと寄り添って座り、オレの腕に自分の腕をぶつけて、大和さんが囁いてくる。
あの日はもっと遠かった。成人だけの複数人の打ち上げで、座敷に通されて。冠番組を持つアイドルやドラマの出演者が何グループも集まる、チャンネル総合の運動会みたいな特番の打ち上げだったけど、壮五は先に帰させていたから、同じグループの二人ってことでたまたま隣の席に座った。
酔って正体をなくした人を囲んで盛り上がる集団にツッコミやおべんちゃらを言いながら、付き合って間もない大和さんとの距離感を掴みかねていたオレは、さりげなく席を動こうとした。そのとき、手首を掴まれて、引かれた。
結局席を動くことはせず、二杯目を頼んだその人に倣って二杯目とつまみを注文してから、オレは、その手に自分の手を合わせた。
黙り込んだオレたちの顔が真っ赤になっていることに気付いて、あの場にいた一人がタクシーを呼んでくれて、手を離して。言葉もなく、タクシーに乗り込んで帰った。酒と緊張のせいでところどころ記憶があいまいだけど、あの日の顛末は、そんなところだったように思う。
指の絡め方も知らない、握手のような手の繋ぎ方は、何度もライブでしたつなぎ方と同じだったのに、手のひらがぎこちなく吸い付いて離しがたくて驚いた。自分が思っていたよりずっと、オレは大和さんを欲しいんだって、そのとき初めて気付いたんだ。
「正解は?」
大和さんの手が、オレの手首を柔く掴む。
テーブルの下でその手に手を重ねてやると、大和さんの手は、ぎゅうとオレの手を握り返した。ようやくかよ、と責めるような、通じ合えた喜びのような、少し痛いくらいの力がこもる。その力加減は、あの日というより、もっと先の、初めて繋がった夜に似ていた。
大和さんの肩口に、コツンと後頭部を乗せた。
「『机の下で手を繋いだ』、だけ。……忘れてたわ、初めて、手繋いだ日」
「まあ、覚えてなきゃなんないほど重大な日でもないしな。あの頃、なんかミツに避けられてたし。帰ってからもちょっとぎこちなかったですし」
「そういうわけでもないけど……よく覚えてんな。覚悟とか、告白の日がピークだったっていうか……寂しい思いさせてごめんな」
「いや、寂しいとかじゃないって」
付き合って一年も経つというのに、付き合いたてのような噛み合わない会話をしながら、手はがっしりと睦み合わせる。程よく回った酔いに身を委ね、大和さんの手の甲の節を指先でなぞったとき、入口の引き戸が開いた。
「お待たせいたしました! あれっ」
注文の品が運ばれてきた途端、あわてて寝たフリをしてその胸板にもたれた。大和さんが店員さんに、連れが寝ちゃったのでタクシー呼んでくださいなんて話しているのを、目を閉じて聞く。
大和さんの胸に耳を当てて聴く大和さんの声は、熱く籠もって、いつもより低く聞こえる。オレの腕の中では、高く、引きつるように叫ぶのに。
「大和さん。わがまま言っていい?」
店員さんが去ってから、声をかける。ぼんやりと視界に、テーブルの下で繋いだ手をとらえつつ、大和さんの胸板に頭を預けたままで。常にない小さな声に、大和さんが少し顔を傾け、こちらに耳を近づけた。
「タクシーの行き先、オレに決めさせて」
「行き先?」
「記念日、ちゃんと祝わせてよ」
いまいちピンと来ていないらしい大和さんの手を、大和さんの下腹へずり上げる。
今朝触れたそこを、昨夜も触れたその温もりを、手首でスリとこすった。
「昨日の今日で、体つらいなら、いいけど」
見上げると。大和さんの耳は、この店中の酔っぱらいの中で誰より赤いだろうと思うほど真っ赤に充血していた。店内の明るさのなかでは、オレの視線から逃れられない。焦って手を引こうとする大和さんに、オレは酔っ払いらしいそぶりで大袈裟によろめいて、体当たりした。
どさりと、居酒屋の畳に組み敷かれ、大和さんの顔にオレの影が落ちる。
さっきまでぼんやりと物思いにふけっていた目は、今はもう、オレだけを映している。
「オレのわがまま聞いてくれんなら、あんたのわがままも、聞いてやるぜ」
怯えと驚きに見開かれていた瞳が、期待に緩んだ。しょうがねえな、って顔になって、オレの頭をくしゃりと撫でる。
「はいはい。酔っ払いのわがまま、聞いてやりますよ」
微笑みは、紛れもない、愛しさの声音を紡ぐ。
この人の特別な一人が、オレなんだ。
「じゃあ、大和さんのわがままは?」
手を引いて助け起こしながら、自分からじゃ絶対に言おうとしないだろうわがままを促すと、手の甲に驚くほどの熱。大和さんが、オレと繋いだ手にもう片方の手も重ねたらしい。
両手にオレの手を包んで、大和さんは、唇を舐めて湿らせた。
小さく、喘ぐように息を吸う。
「一晩中、手、繋いでたい」
ぽつりと、わがままを告げるなり。大和さんは、ぱっと片手を離してビールジョッキに手を伸ばした。
繋がれた手に力が篭りすぎて、ビールをぐびぐび煽った大和さんが、泡の少しこびりついた口元を歪ませる。その口を手拭いで拭ってやりながら、オレは目を閉じて衝動に耐えた。
助け起こしたばかりの体を、今すぐ押し倒して思い切り抱きしめて頭を撫で回して頬擦りして、オレこの人の彼氏なんです、この人オレが大好きで、オレもこの人が大好きなんです! って世界中に触れ回りたい。
「今日の日記に書いていい?」
「なんて書く気だよ」
「大和さんが、オレにわがまま言った記念日」
大和さんは照れるんじゃないかと思って言ったのに、むしろ呆れたような顔でため息をつかれる。
「嫌って言っても書くんだろ」
「もちろん。嫌って言っても離さねえから」
宣言通り、会計の間も、タクシーに乗り込んでも、オレは繋いだ手を離さなかった。はたからは酔っぱらいの戯れに見えるように、限りなく陽気に、押し付けがましく振る舞いながら。
昨日囁いたのと同じ言葉を、やっぱり今日も繰り返すのだろうと、むずがゆい予感に胸が躍る。
付き合って一年も経つのに、何度もあんたを好きになる。
たまに、マメじゃなかったり、合わないところがあったりは、お互い様ってことでさ。
これからもよろしくな。