32SS
◆桜の木
【付き合っている】
かすかに、ひざしのにおいがした。
布団の中で、三月の足が大和をさがした。自分を求めて擦り寄る、すべらかな足の甲に、大和は脛をすこし傾けて応じる。
寝入る相手を起こさないように布団に滑り込むのも、もう随分上手くなった。朝の三時半を示すスマートフォンに、五時半の目覚ましをセットして、固く目を閉じる。
自分より早く起きて早く部屋を出るのだろう恋人の、ささやかな寝息を聴きながら、まだ演技のあとの熱の残った体を、息を潜めて落ち着かせる。
二人きりでいる時、寄り添う相手は愛しい恋人だった。でも、それ以外の時は、メンバーだった。
互いへの思いを胸に膨らませても、仕事の合間、僅かに会える時間には、いつも他の誰かが共に居た。
若さを、愛の渇望を理由に二の次にできるほど、二人への期待は軽くはなかったし、他ならぬたった一人の自分を望まれることが嬉しかった。自分が求められることも、互いが自分の知らないところで、誰かに求められていることも。
誇らしさに嘘をつきたくない。
三月が、風呂上がりにふと部屋を訪れ、これからのスケジュールの忙しさを大和に告げたとき。
大和はベッドの上から、ベッドの脇に腰を下ろした三月のつむじを見下ろしながら、湿気にへたりと萎れた三月の髪を撫でようとした。
そのとき、三月が告げた。
しばらく、そういうことは無しにしよう。
あんたのこと考えて集中できねえのは、嫌だ。あいつらにも、あんたにも、胸張れなくなるから。
三月が打ち明けたことに、大和も、うん、と応じた。三月が握りしめた、明日のバラエティの進行表に、無数の書き込みを見つけながら。
三月が、寝転ぶ大和の腹に、ぐ、と後頭部を押し付けた。大和もまた、開きあとのついた台本を、顔まで持ち上げて。
好き。
三月の呟きを聴きながら、行き場のなかった片手を、三月の頭に載せた。
うん。
もう一度呟き返したあの時とおなじ、離れがたくて、狂おしくて、でも抗う気持ちは湧かない、不思議な充足感を、大和は今日も感じていた。
仕事の間は一人だ。それでよかった。
冷めない演技の熱の中に、三月の影はなかった。代わりに、おだやかであたたかな光だけが、胸の奥に、ベッドのかたちにひらいていた。眩くはない、ぼんやりとした光を溜めた、空洞のようなそれが、大和の帰る場所だった。
三月と寄り添う、この場所の形。それだけ知っていれば、大和には十分だった。
本当は、色恋の遊蕩に、欲望のままに身を委ねてもみたいけれど。それはいまの二人には余分だった。それを切り落とした分だけひらいたあたたかな光の穴を、大和はもう、ちゃんと、愛しさだと知っていた。
すうすうと、三月の胸が膨らんではしぼむ感触を、腕に受ける。大和の腕には三月の両手がぐるりと絡みついていた。
「晴れてたからさ。寮の裏手通って出かけたんだけど」
額にキスをしてみた。
あどけなさの残る頬に長いまつ毛をぴたりと添わせて、いたいけなうぶ毛の生えたこめかみの下に規則正しく血を巡らせる恋人。呼吸は、ちっとも乱れることはなかった。
「桜が咲いてた。お前さんなら、ナギに見せてやりてえって言うだろうなと思った」
返事はない。
太陽の下、桜の木の根が、大地をしっかり掴むように、三月の脚がぎゅうと大和の脚を絞めた。
「咲いてんの、知ってた?」
尋ねると、三月がうるさそうに、づ、だとか、ん、だとか、意味を結ばない声を発した。眉をひそめた拍子に、前髪が額にかかる。そのつむじに鼻を填めて、すん、と鼻を鳴らしてみる。
胸いっぱいに、三月のにおいがした。
このにおいが、いま三月と大和にゆるされた、せいいっぱいの『好きだ』だった。
桜の木が、太陽のにおいをかぎとって、いっせいに花開くイメージを、大和はぼんやりとまどろみの中に見た。
「俺も好き」
ほとんど寝言のような呟きを、布団のなかにあたためて。ひとつになろうとするように絡みつく、三月の体を抱きしめた。
明日になれば、また別々の体で、別々の仕事に行く。相手がどこで何をしているのかも知らないで、ただ相手が笑っていることだけは疑わず。
そしてまた、この部屋で、たった一つの布団を分け合う。
この時間だけ、たった一つの何かになれる。
二人で眠っているうちは。