32SS 


◆ひととせの河岸
【数年後、一人暮らし、付き合っている】

「潮時だな」
立ち止まった緑のシャツカーディガンが風に煽られて巻き上がる。春の若葉がさざめいた。行き過ぎようとして、三月もまた、足を止める。そういう映画のワンシーンみたいだな、と三月は思った。
だから、名前をつけて始めるのは嫌だったんだ。
その人が、ゆっくりと三月に向き直る。
火に火を継ぎ足すような無為を、その人は望んでいた。
三月は、薪を用意しなければいつか火は尽きることを知っていて、火をその人に任せていた。何をするでもなく、ただ、交際しているという事実だけを二人の間に横たえて、たまにその閨で体を重ねる。
わざわざ教え合ったお互いのことなんて、その晩のホテルの部屋番号くらいだ。それ以上の甘い時間なんてほとんどない、惰性の交際。好きだとも、愛しているとも囁きはせず、ただその体を抱きしめて果てさせた。その人のなかに果てた。
その関係から生まれてくるものなど何も無かった。
大和が、きめごとを確かめるように、ゆっくりと告げる。
「止めようぜ。もう」
眼鏡の向こうからこちらをとらえる、大和の眼差しに、あの頃のような熱はない。
出会って何年も経って、酒の勢いで初めて体を重ねてから、また何年も経ってしまった。とっくに寮も出て、それぞれ帰って寝るだけの部屋を、同じ路線も通っていない近くもない場所に借りている。凪いだ表情の冷たさに、三月はポケットのなかで指を擦り合わせた。
立ち並ぶコンクリートの建物と、草木の茂る森の間の遊歩道で向かい合う二人が別れ話をしているなど、きっと誰にもわからない。
それぞれに、上着のポケットに片手を突っ込んで、空いた片手でスマホを握る。その立ち姿が似通ってしまうほどの時間を、共にすごした。
でもそれだけだった。別れがそろそろ来ること、言い出すのは大和だろうということも、二人には分かっていた。
冷たい金属を熱して、伸ばしていくような日々だった。元々あった冷たさまで戻ってしまっただけだ。
薄く伸ばした金属は、それだけ折れやすく、冷めやすい。展延するむなしさの延長に別れがある。今日たまたまそこに行き着いただけ。
全て滅んでも、お互いだけを欲する、そんな溶鉱炉になりふり構わず身を投じられるほど、幼くはなかった。
三月は、大和の目を見返した。鏡写しのように、無表情に向かい合う。
「別にいいよ」
お誂え向きに、崩れ去る音がした。団地の古いアパートの一部を壊しているようだ。黄色いクレーンが、上部の崩れて半分だけになったアパートに、顔を填めて貪っている。
煤けた白いコンクリートの建物が、中の鉄筋をむき出しにして、破壊されていく。
平日ののどかな街中で、いつか暮らしを容れていたひとつの単位が崩壊する音が、がらがらと響いた。
三月が、砂埃に目を細める。
ほうぼうに散って消えゆく煙を眩しがるような仕草に、大和は手を伸ばしもしない。
ただ見ていた。ひとつに組み上げた、四角い生活の入れ物が、轟音をたてくずれさる所を。
三月は続けた。
「これからも、テレビの中で会える」
お互いの世界の登場人物はだいたい同じだ。過ごすシーンが違うだけ。
もうグループでの仕事も少ない、忘年会や花見のようなイベントごとに集うのも容易ではない。
でも、二人がここで別れることは、今後の活動になんら差支えないことだった。
「連絡先だってあるし。いつだって電話もラビチャも繋がる。これまでと何にも変わんねえよ」
三月は手にしていたスマートフォンを顔の横に持ち上げた。
おどけたような軽い声音や、大袈裟な身振りは、いつだか身につけた処世術。もう癖になっていた。大和はほんの少しだけ口の端を上げた。愛想笑いをされた、とわかって、三月はスマートフォンを尻ポケットにしまう。
住宅街の午後の春。
鳥は囀り、木々の若葉は風にそよぐ。それら全てが、ここに沈む春の澱。春の底に、いま自分たちは立っている。
別々の二つの体は、もう同じ場所で笑い合う時間も、ほとんど過ごさない。二人の関係は、同じ事務所の芸能人同士の、当たり障りのない付き合いへシフトしていくだろう。
この数年、二人は、肉体を通して、ひとつのテクストを紡いだ。名前をつけて、物語をはじめてしまえば、いつか終止符を打つ日が来る。終わりが来ることをわかっていて、その関係を恋人と呼んだ。
なし崩しに始まった関係を、三月がそう呼ばせた。だから、大和から終わらせることに、三月も異論はなかった。
「じゃあ、また」
「おう」
大和が、ポケットに片手を入れたまま、踵を返して歩き出した。片手のスマートフォンを確認しながら歩いていく。来た道を戻っていく大和の背中に、解体現場の砂埃が重なって、大和の体が霞んだ。三月は、その背中を振り向くのをやめ、尻ポケットから手を離す。
春だというのに寒い。見上げても、白い花はまだどこにも見つからなかった。
まだ咲かない桜を、いつか見に行く日には、また笑って話すのだろう。
同じ瓶から酒を飲み、肩を組んで歌うだろう。
そして違う家に帰って、また変わらない日を過ごしていく。
いやに晴れた空の底で、三月は、両手をポケットに突っ込んだ。誰かからの連絡に震動する、尻ポケットのスマートフォンには、手を触れない。
また、古ぼけたアパートの外壁が、ガラガラと音を立てて崩れた。

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