32SS
盃を重ねていけば、恋愛の話なんかになってしまった。
花見というのは、花を見るなんてのは名目だけで、花に飽きれば求められるのは俗っぽい話題と相場が決まっている。好きな女でもできたかよお、と絡んだ相手に、思い出の中にだけな、と笑い返されて、三月は自分の笑顔が凍るのを感じた。
酒の飲み方もうまくなったせいか、記憶を失って逃げることはもうできないのに、つい言いたい気持ちに身を任せてしまう。
「思い出に出来なきゃダメなのかよ」
三月のつぶやきに、楽が目を瞬き、口に当てていたプラスチックのコップを置いた。はちきれた桜の蕾が、自分の半身をひらりと剥がれ落として、その盃の水面を揺らす。
「珍しいな、和泉兄の恋愛の話」
「言う相手も、いなかったし。言う必要もなかったし」
「別れたのか?」
楽の問いかけに頷きながら、そういえばこの美形は別れの歌を歌っていたな、と思い出す。曲名は、『幸せでいて』。三月は自分の中でつながったその話題を、間を飛ばして口に出した。
「幸せなんてずっと願ってる。オレもあの人も幸せになれる道が、なんで一本じゃないんだって」
楽は、特に聞き返さなかった。もう気づいているのかもしれない。三月が誰の話をしているのか。
今二人の後ろでへべれけになって天や一織に疎まれている男の陽気さも、三月の恋愛話と同じくらいに珍しいもののはずだ。
花びらが、三月の指の先で、別の花びらの隣に落ちた。
楽が身を乗り出してきて、その花びらを摘まみ取る。
「一本にすりゃいいじゃねえか。和泉兄はそういう男だろ」
「それやるといろいろまずいんだよ」
「なんだその言い種。和泉兄、二階堂みたいになってきたな」
「はは、一緒に居すぎたかな」
氷を揺らして、三月は最後に残ったハイボールを呑みほした。
「諦めんのか」
楽が言う。芸能人として、自分の恋と距離を置いたことのある楽の言葉は、つまんだ花びらほど軽くはない。
楽の指先が、三月の手元の花びらに、花びらを重ねる。諦めるのか、と問いかける真っ直ぐな目つきは、三月の答えを求めてはいなかった。
もう残っていないハイボールを煽るふりをして、三月が視線を逸らす。
コップを置くと、一度唇に触れた氷が、コップの底でぶつかって、からんと軽い音を立てた。少し融けた丸い氷の下に、二枚重なった花びらを閉じ込めて、三月は唇を指で拭った。
♯
森の暗がりをあたためるような、やわらかく湿った、土のにおい。
夏の祭りに似つかわしい人いきれが、ぼんやりと灯る夜店の明かりをはみだして、境内を賑わせていた。
三月は、ぼやぼやと人を包む明かりと同じ気配をまとって、奥社の端の石の椅子、大和の隣に腰を下ろしている。人の群れよりいちだん上の奥社まで来てしまえば、ほかに人気はなかった。
「なんか食わねえの?」
三月が尋ねる。大和をまっすぐに捉える大きな目は、相変わらず、光を吸ってオレンジに翳っている。大和は眼鏡を直しながら、石段の向こうへ視線を移した。
「色々あったよなあ、出店」
本当に言いたいことなんてないのに、口は勝手に言葉を選ぶ。
こんなに人が溢れているのに、どうしてか、2人きりになってしまった。人が溢れているからかもしれない。ここではないどこかに居なくちゃいけないと、何かに追い立てられるように人のぬくもりを離れれば、同じように逃れてきたのだろう三月が居た。
大和は何故か泣きたくなった。三月と同じ場所にたどり着いてしまうことがどうしようもなく皮肉に思えた。
二人になってしまえば、告げられるだろうと分かっていたのに、どうして二人になってしまったのだろう。
案の定、三月は、縁にアルミの蓋が張り付いたままのワンカップを煽る大和を、じっと見ている。
大和は指を折って数えた。
「フランクフルト」
一口飲む。
「たこ焼き」
一口飲む。
「りんご飴」
また一口飲む。
ずいぶん高いところに来た、遠い出店の文字なんて見えるはずもない。ただ、ありがちなものを、ありがちだから並べただけだった。
往来に在るすべてを端から言挙げていけば、そのどれかの姿を借りてここから逃げられるのではないか。はかない希求に追い立てられて、大和は酒をつぎつぎに喉に注いだ。
「そんなもんより、帰って、ミツの飯が食いたい」
喉を灼く潤滑油に、大和の口はするすると、言葉を紡ぐ。三月は黙って聞いていた。
「なんて、昔みたいなこと、言わねえよ」
何が本音なのだろう。
あえて冷たく振る舞うことで、隣の相手に壁を作って、それでも椅子から立ち上がらないでいる自分は。繕うことで鎧っていた、ずっと昔に戻ってしまったみたいだ。
自分が本当はどうしたいのか、自分の気持ちを見つける方法も、もうわからない。
植わった木々の間に渡された敬虔な白い紙垂。折り目正しいその飾りが、明滅する祭りの明かりに、ちらちらと照らされている。
社のぐるりに紙垂が巡らされ、二人だけがこの境内に囚われているみたいに思えた。
ふと三月が口を開く。
「色々、あったよな」
「そうだな。色々あった」
大和が口にした夜店の話を、三月が自分たちの関係に置き換えたことを、大和は目を閉じて流した。
手にしたワンカップのアルミの蓋を、大和の長い指がゆっくりとはがしていく。ぴり、と、電気の走るような、金属の裂ける音。
「いろいろあったのに、一個だけ、やってなかったこと、思い出したからさ」
ぴり、ぴり。
三月の言葉を遮るつもりはないらしい、控えめなその音は、けれど確かに大和の拒絶をあらわしていた。
「オレは」
三月の声は心地いい。
でも大和は、それ以上聞いていたくなかった。
何を言われてしまうのかも、自分がその言葉に答えられないことも、大和には分かっていた。
三月の唇が開いた時、ワンカップの蓋をつなぎとめていた最後の金属が、ばり。と裂けた。
「あんたのことが好きだ」
大和の手の中の金属は、夏の夜に似つかわしくない冷たさで、大和の指先を冷やす。
俯いて、聞いているのかもわからない大和に、三月が続けた。
「もっと前からずっと」
珍しく静かな、落ち着き払った声音。大和は何も喋らない。
「いまさら、白々しいよな」
わあわあと、喧騒が遠い。
二人の間にみえない河があって、その岸辺をたゆたうように、時間をかけて沈黙が流れた。
大和が腰を上げ、祭りの明かりの方へと石段を下りていくのを、三月は夢のように見た。
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