32SS
◆願い
【付き合ってない】
「ミツ~! ミツくん! ちょっとちょっと、この前のアレ! ええ感じやったで、どこで買うたん?」
「かっぱ橋の飯田屋って道具屋です! 調理器具たくさん揃ってて……」
まただ。
ミツが話しているのは、ミツを気に入った芸人さんで、ゴールデンタイムのMCも務める敏腕司会者。
が、なぜか、ミツを「ミツ」と呼ぶ。
……別に、誰がミツをなんて呼ぼうが、俺には関係ないですけど。ミツも俺も別にただのメンバーですし。なんだこの、変な、独占欲みたいな。
俺の方がおかしいなんてわかってる。わかってるけど。
もやもやする。
「俺先戻ってるわ。後でな、七五三」
胸に凝った黒い澱のようなものが、鋭くとがって口をついて出る。ミツはムッとしたように唇を曲げつつも、誰が七五三だ、このおっさん! と明るく返してきた。
向けられた悪意さえちゃんと受け止めて笑いに変えられる、ミツのすごいところだ。尊敬もしてる。こんな形で、その力を見たいわけじゃなかったけど。
何やってんだ、俺。
結局その日、ミツは芸人さんと飲みに行ってしまった。他のメンバーも寝静まった後、リビングで一人、大してうまくもないビールを煽る。今日はソウも泊まりで仕事に行っていて、ミツもまだ帰らない。ダイニングの灯りは消した、一人には広くて、ほの暗い部屋。
いつもなら隣に、オレンジの髪を揺らしてべらべらとしゃべり続ける奴が座っているのに。
「……ミツ。って、呼ぶの、俺だけだったじゃん」
独り言ちたとき、カチャリと控えめなドアノブの音。
現れたそいつが楽しそうで、余計に酒が不味くなる。くしゃりと手の中で缶が凹んだ。
「おかえり」
「ただいま! すっげえ楽しかった!」
「ふーん」
全身に酒の匂いをまとって、ミツがどかりとソファに腰掛け、あぐらをかく。隣ではなく、向かいのソファに座って、ミツは真っ直ぐに俺を見た。
「なあ、何怒ってんの」
「怒ってなんか……」
「じゃあ、なんの理由もなく、人のこと七五三だなんだ呼んでたのかよ」
弁明の一言も許さず、ミツが腕を組んで睨み上げてくる。
「……悪かった。もう呼ばないって」
「理由は、教えてくんねえの?」
「別に。三月さんに怒ってる訳じゃないんで」
「……なんだよそれ」
ミツが立ち上がる。一瞬、くらりとよろめく姿に、手を伸ばしかけて、引っ込めた。
こんな気持ちで、ミツに触るとか、出来ないよな。
「……大和さん」
そばに居るだけで匂ってくるほどの酒の匂いをまといながら、ミツが隣にあぐらをかいた。なんとなく叱られそうな空気が気まずくて、ビールの缶のふちを摘んで立ち上がる。
「あー俺、そろそろ寝るわ。お前さんも水飲め、持ってくるから」
「大和さん」
また、名前を呼ばれた。
酒のせいかもしれないけど、ちょっと悔しそうに鼻を赤くして。眉を寄せながら、ミツが俺の袖口を摘む。
「名前で呼んでよ」
「……呼んだじゃん」
ミツに背中を向けたまま呟く。
「そうじゃなくて、ミツ、って呼んで」
「何、酔ってんの。もう寝ろよ」
「酔ってる。酔ってるけど、あんたとこんな感じのまま寝たくない」
「こんな感じ、って」
手にした缶の中身はまだ半分ばかり残っていて、啜ろうと手をあげようとしても、ミツに肘の辺りを掴まれて、手を上げることが出来ない。
「力強いな! 離せって」
「なら名前で呼べよ!」
酔っぱらい特有の、急な激昴に眉をしかめる。この分じゃ、明日になったら忘れているだろう。甘い呂律と裏腹に、俺の袖を引く力はさらに強まった。
ため息をついて尋ねる。
「……そんなに気になるのかよ」
「だって、……好きだから」
「……好き、って」
好き。
ミツは誰にだってそういう言葉を振りまく。
特別な意味なんてない。
「あんたが、ミツって呼ぶの、好きだから」
「……それ、特別ってこと?」
訊くな。
「俺が、お前さんにとって、特別ってこと?」
酔っぱらいにそんなこと訊いて、どうするんだよ。
ミツの手が力を抜いて、するりと、俺の指に降りてきた。
一瞬、手のひらをくすぐって離れる手は、気のせいかもしれないけど、名残惜しそうで。ビールを握っていなければ、この手を握ってくれたのかと、錯覚しそうになった。
「そうだよ」
ミツの呟きが、仄かに暗いダイニングへ吸い込まれていく。
「なあ、呼んで」
「……ミツ」
「うん」
明日になったら覚えてないくせに、本当に俺のことが他の誰より大事みたいな声をして、酔った男が甘く頷く。
「ミツ」
「うん」
「……ミツ」
どうせ覚えていないのならば、言ってしまおうか。
「……俺も」
ただのメンバー、のはずのその男に、特別扱いをされたいこと。
その男が、俺の特別だってこと。
「俺も、好きだから」
「え?」
「ミツ、って呼ぶの」
「……そっか」
ふへへ、と、ミツが笑う気配。
「水飲めよ。持ってくる」
「うん。オレも行く」
「座ってろって」
なおざりに告げて、ソファを離れる。ミツの愛用のコップにミネラルウォーターを注ぎ、残ったビールをキッチンに置いて、俺もそのペットボトルに口をつける。
……ちゃんと忘れろよ。
願いを込めて、コップを握った。
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