方舟Ⅱ_恋に落ちるテンカウント

Ⅱ恋に落ちるテンカウント

1.ひとつめのねがい

ミツに、好かれている、気がする。
というか、俺がミツを……好きなんだと思う。たぶん。付き合いたいとか、独占したいとか、そういうつもりは一切ない。そういうつもり、にならないために、必要以上にミツとの間に線を引いた。
いつも通りの仕草、声、いつも通りの表情──を投げやりに作っていたら、ミツを怒らせた。
「オレあんたになんかした?」
いきなりの喧嘩腰で壁ドンである。いや、俺は愛する自室のリラックスチェアで優雅にうたた寝していたので、椅子ドンである。
これがナギなら、適当な言葉遊びで煙に巻いて逃げ切れるんだけどな……。
「ほら、今夜はひじきご飯がいいなーと思ってたらデミオムライスだったからさ……」
「じゃあ明日はひじきご飯にする。他には?」
「……明日の飯当番、ソウだろ」
「代わるよ。壮五、最近忙しそうだし」
「あー、じゃあ、リビングの当番表書き換えないとな」
肘置きに手をついて体を起こす。なおもどこうとしないミツの肩を肩で押し返すと、ミツは、思っていた以上に簡単に体を離した。離した、というより、力を失って、後ろに倒れ込んだ。
「えっ、っあ?!」
思わず支えようと伸ばした手を、ミツが掴んで、俺を引き倒す。目をつぶって衝撃に耐えようとした俺の体を、ベッドが軋みながら受け止めた。
腕の下に、ミツの体。
胸に、胸がぶつかって、鼓動している。
かち合う眼差し。
なにかに触れている。
唇。
「あ……!」
がばりと体を起こす。ミツも驚いたように目を見開いていた。こぼれ落ちそうな大きな瞳に、俺の体が影を落とす。
「……あ、はは、悪い、やー……」
唇に指で触れてみる。さっきまで、やわらかな感触のあったところ。固くかさついた指で押すと、その場所は動きを止めてしまった。なにか、言い訳しないと、いつもみたいに流さないと、隠さないと、いけないのに。
ミツの手が、俺の口元に伸びてきて、指を掴んだ。唇から指が離れて、代わりに、ぬるい空気がふれる。
唯一、体の外に出ている内臓。粘膜を、俺は、いま、この腕の下にいる男の、その場所に……。
ミツがごくりと喉を鳴らした。それから、かすかに頬を赤らめて、参ったように眉根を寄せる。やたらに色っぽいしぐさに、息が詰まった。
震える指を、ミツが、変わらず掴んでいる。ミツの舌が、ミツのそこの粘膜を、ちろりとなぞった。
「あんた、顔、真っ赤だぜ……」
目の前が真っ白になる。
「あっあ、いや、ごめん、ごめん!」
「うおっ」
「忘れよう! な! じゃあ仕事行くから!」
「はあ?! 何時だと思ってんだよ! 今から仕事なんかないだろ!」
「ランニングだよ! ほら、ボクサー役やるからさあ、体作りも仕事だろ、なっ、ははっ」
「待てって、あぶなっ……」
ミツの声を背中に受けたと思ったとき、慌てて体を離してドアの方に向かおうとしたはいいものの、そういえば動転してろくに周りが見えていなかった俺は、足元をウンウンと移動する黒い機械に気づきもせず。
足の小指を思い切りぶつけた。
「イッ………………!」
「あー……大丈夫かよ。見せてみ」
はだしの足首をミツのかさついた手のひらが包む。シンデレラの王子のように跪いて、しゃがみ込んだ俺の足を、指先でなぞった。
「爪剥がれかけてんなー。絆創膏取ってくる。座ってて」
「や……自分で」
「武蔵、大和さん逃げないように見張ってて」
従順なお掃除ロボットの名前を出され、いや、武蔵にそんな機能は、と言う暇もなく、ミツが部屋を出ていく。ぱたぱたとスリッパが床を打つ音、三月どうしたの、大きい音したけど……リクの心配そうな声。
大和さんの小指が武蔵と事故って……不名誉な説明の声が遠ざかる。
いま、足首を離した手の熱を。
さっき、唇に受け止めた。
唇が、唇にふれた。
キスだった。
爪の先に、じんわりと、血が滲んでくる。
「……いやいや。少女漫画じゃあるまいし。そういうドラマ出るのは千さんとか八乙女とか、イチとか棗ちゃんとかさあ……。俺じゃないって……」
座り込んだままの俺を避けて、武蔵が部屋の隅へと進んでいく。がたがたん、と小さく段差を超える音がして、武蔵は寝床に戻ったようだった。
「蹴ってごめんなー……」
ピピ、と武蔵が小さく答える。眠りに落ちる前の、今夜も仕事を終えました、という報告音だと分かってはいるが、少し気持ちが慰められた。
スリッパが床を擦る音がして、ミツが部屋に戻ってくる。ミツも少しは恥ずかしいのか、頬にはかすかな赤みが残っていた。
複雑そうに尖った唇と、まげられた眉に、胸のうちがぐつぐつと熱くなる。
たぶん、見透かされている。
「足出して」
「いい、自分でやるから……」
「……じゃあ、終わんの待ってる」
救急箱を受け取る、ほんの少しで手の振れそうな距離に、ぎゅっと体が熱くなる。
3度目のブラックオアホワイトを終え、あらゆる年始の特番ラッシュも走り抜き、あっという間に1ヶ月が過ぎた。
年末の打ち上げの最中には、年始の仕事が終わったら浴びるほど酒飲んで寝倒すぞとか肩を組んでいたはずなのに、二月になってもその機会は訪れず──というか俺が一方的に避け続けて、気づけば二月も終わろうとしていた。
ピンセットに脱脂綿を取り、小指に消毒液を当てる。
「っ」
刺すような消毒の冷たさ、傷口の熱さを、眉を歪めてやりすごす。ぺろりと絆創膏をひろげると、足元に影が落ちた。
「普通に貼るだけじゃ、靴とか当たって痛くなるよ」
「まあ、しょうがないでしょ」
「二個使えば、ちょっとマシだと思うぜ。こう、十字みたいに……」
一緒になってしゃがみ込んで、俺の足を見下ろしながら、ミツが細い手の甲を絆創膏に見立てて、重ね合わせてみせる。
「えー……こういうこと?」
「じゃなくて、縦と横で……」
じれったそうに、ミツが自分の靴下を脱ぎ、未開封の絆創膏を爪先に重ねた。白い肌色に、指先のピンク色だけが濃い、触れたら熱そうな、ミツの──。
「こうやんの」
「……ああ、なるほど。さすが」
気づけば見入っていた視線を逸らして、教わった通りのやり方で、絆創膏をつけ終える。……終えてしまう。
「じゃ、オレの番」
「……なんのこと?」
「今さらしらばっくれんのは無理だろ。いかにも演技臭い笑い方してさー……誤魔化せると思ってたのかよ?」
とん、とミツの手が、肩を押してくる。背中がベッドのへりにぶつかった。
バランスを崩して、ミツの前に投げ出す格好になったつま先を、ミツがつついた。
「あんたさあ。オレのこと……」
「それ以上言うな」
にんまりと笑んだ目つきは、たったひとことの制止では止まらない。
「す……」
「言うなっつってんだろ!」
ガバリと起き上がってその口に両手を押し付けると、ミツが愉快そうに身を捩って、手から逃れる。
「……っふふ、なんだ、やっぱそれで態度悪かったんだ? あははっ、くく……」
「わ、らいすぎ、だろ……」
「あー……、ふ……あんた、かわいいな」
ミツが嬉しそうに、俺の手首を掴んで、引きよせようとする。
踏ん張って抵抗し、睨みつけても、ミツは瞳を緩ませたまま、俺の方を見ていた。
目の前で足掻く獲物が、決して逃げられないことを知っている、捕食者の表情。
「なあ、あんたが言いたくないなら、オレが言うよ」
うっとりととろける笑顔で、ミツが断罪を告げる。
「好きです。付き合ってください」

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