【新刊サンプル】Dom/Subユニバース
「あれ、ミツ帰んないの?」
撮影終わり、マネージャーが車を回してくれた、と告げると、ミツは、オレはいいや、と足を止めた。
「うん。このあと飲み会」
「えー……俺も行こうかな。飲みたい……誰くるやつ?」
「芸人さんの飲みだけど。来んの?」
来んの、じゃなく、来いよ、と言って欲しい。
テレビ局の地下駐車場に通じる、蛍光灯の灯った小さなエレベーターホールで、ミツの丸い瞳を見下ろして、わざと逡巡の表情を浮かべて見せる。
「芸人さんか……俺は喋ってみたいけど、迷惑じゃない?」
「気にすんなって! みんな酒好きな奴好きな人ばっかだよ。来たいなら、大和さんも来いよ」
「……じゃ、二次会から行くわ。シャワーだけ浴びてくよ、今日ラストの仕事で血糊かぶったからさ」
「帽子の下、血まみれなの?」
「そうだよ。見る?」
「見せて……あははっ、やっばいな! シャワー浴びなかったのかよ?」
「どうせすぐ帰るし、帽子もスタッフさんがくれたやつだし、いいかなって」
「適当だなー。そのまま行ったらそれはそれでウケそうだけどな。じゃ、話通しとく。あとで会場ラビチャするわ!」
ミツがひらりと手を振って、俺を見送る。きっとここで待ち合わせなんだろう、ミツの視線が、上がっていったエレベーターの階数表示に投げられた。
車に乗り込んで、マネージャーに見つからないように、こっそりと微笑む。
来いよ。見せて。ミツの普段の声が、俺にはやたらと甘く響く。
回りくどいやりかたで、ミツから欲しい言葉を引き出す──ミツに悟られないように、ひそかに欲望を満たすことが、俺はすっかり上手くなっていた。
演技派さまさまだわ。こんなのいつまでも続けてるわけにいかないけど、ミツに特定の相手ができるまでは、ちょっとだけ……いいよな……。
国道を走る車の中で、仕事終わりの眠気に目を閉じて揺られながら、ミツが今日与えてくれた、ささやかな命令を思い返す。
早く、行かなきゃ。俺のDomがくれた命令を、満たして、撫でてもらいたい──。
体がその欲求に疼くたび、もう一つの欲が、俺を満たせと暴れそうになる。
俺がまだ、満たしてもらえていない、もう一つの欲。
よくやったなと、頭を撫でて褒めてもらうことだ。
一方的な関係で、勝手に命令に気持ちよくなっているだけ──いわば思春期の男子が思い込みの片想いでやるオナニーみたいな状態では、当然、命令をこなしたことへのご褒美はない。
そのせいで、俺はミツの命令を求めるのをやめられないんだと思う。満たされきらない欲求が体の中にいくつも溜まって、自家中毒を起こしている。ミツが一度撫でてくれれば、ひょっとしたら、この不毛で愉しい自慰行為から、卒業することができるのかもしれない。
……まあ、そんな絵面想像したら気色悪いし、ミツが俺を撫でて褒めるなんて、起きるわけないだろうけど……。
帽子のつばを深く下ろして、火照った顔を隠す。ため息が震えた。小さくつぶやく。
「どうやったら……」
どうしたら、撫でてもらえるよう仕向けられるだろう。頭の中で、都合のいい脚本を描き始める。描いた青写真、あるいは夢物語が、酔い潰れれば子守唄で甘やかしてもらえると俺に告げる。
体の奥が熱くて、自分の身を抱きしめた。
*
「いやあ、大和くん、かわいいんやなあ。ええ子ええ子したるわ! もっとこっち寄りんさい」
地方出身の芸人さんに肩を組まれ、曖昧に笑いながら、あー失敗した。と頭の中で思いっきり顔を顰める。
二次会の会場には、男ばっかり八人が鮨詰めになっていて、見た目で言えば中の中から下の下くらい。ミツが呼ばれた理由もわかろうというものだった。
おおかた、華がほしい大御所に、じゃあアイドルの子連れてきますよとか言って、女の子を捕まえられなかった芸人がミツに泣きついたというところだろう。ミツは見た目だけは華やかで、いわゆるかわいい枠に申し分ない。中身はこの中の誰より男らしいだろうが。
ミツは、この中で一番売れている大御所の隣に座り、しきりに酒を注いでやっていた。俺たちが生まれた頃から第一線で活躍している芸人さんの、売れるまでの苦労話を聞くのが本当に楽しいんだろう、赤い顔をしてにこにこと、オーバーなリアクションで芸人の気を良くさせているようだ。
俺はと言うと、超面倒そうな酔っ払いの芸人に端の席に追い詰められて、安い酒を飲まされている。
「ほれ、グラス空いとるで、ついだるわ」
「ああいや、自分で」
「こんな細かく気いついてから、売れとるのに鼻にもかけん。ええ子やのお。ええ匂いもするし。ほれ、ええ子、ええ子」
「やっ、ほんと、おかまいなく……ハハ……」
グラスは奪われるわ肩は抱かれるわ、かいぐりかいぐり頭を抱きこんで撫でられていると、ふとミツと目が合った。
大きな瞳が、少し剣呑に細まる。
ミツ?
「大和くん〜」
しなだれてくる芸人の向こうで、ミツが大御所に断って、こちらへ席を移動してくる。
「ほら大和くん、ぐいーっと。ぐいーっと飲み」
「あ、どうも、いただきます……」
戯けた様子で、調子外れの手拍子で煽られ、グラスに唇をつける。そのとき、ちょうど俺の向かいに移動してきたミツが、目を細めて、つぶやいた。
「大和さん。”飲むな”」
「え……あっ」
ミツのひくい声が。俺には、Stay、と聞こえた。
DomがSubに使うコマンド──。
ばしゃばしゃと、グラスの酒が胸を冷やした。
「ぁ……っああ、やばい、目算ミスってこぼした。すいません、手拭き……」
「オレが拭くから、あんたは”おとなしくしてて”」
「……ッ、お、う……」
”Kneel”と、ミツの低い声が、頭の中で重なる。ぺたんと、両膝が座布団に落ちた。両手を、犬のお手とおかわりのようにみっともなく掲げたままで、動けなくなる。
ガクンと落ちた体が重い。重いのに、奥底から甘く痺れて、何かが体の底で膨らんでくる。
ほしい。もっと。もっと強く俺を見て。続々と立ち上るような熱気が胸に起き、胸の先端までじんじんと震えた。
「ぁっ……ッ」
「大和さん具合悪そうなんで、オレが面倒見ます。調子乗って飲みすぎたんだろー。すいません、冨永さんの横空いちゃってるんで、ちょっと」
にこやかに言い渡された芸人は、ミツの視線の先に手持ち無沙汰そうな大御所を見つけ、慌てて席を移動した。
壁際で、ミツに追い詰められて。がやつく居酒屋の隅で、なぜか、世界に二人きりのように錯覚する。
俺の。
俺のDom──。
「……あ、自分で……」
「いい。オレが拭く」
ミツがテーブルの上に身を乗り出して、手拭きで俺の体を拭う。重たい布の感触が、べたりとシャツ越しに体を冷やした。杏色の瞳は、俺の体だけを見下ろして、ちいさなくちびるはすこし尖って、無表情に俺の視線をほしいままにする。
じっとりと俺を見つめながら。俺の過敏になったところを。布越しに、ミツの手が、優しく撫でた。
「は……ぁ……っ」
甲斐甲斐しく尽くすような素振りで、けれど視線は威圧的に、俺を見据えている。ミツに触れられるたび、指先まで何かが走る。腰の奥に通った太い神経まで、ミツに握られているみたいに、体がざわついた。
「も、いい……」
「……すげえ濡れちまったな。大和さん、一回帰って着替えないと風邪引くぜ。ほら、帰る支度は?」
「やっ、あ、た、たてない」
「立てないんだ。動けない?」
「う、うごけない……」
「オレが命令したから?」
目が合った。
甘い瞳が俺を貫く。
心配そうな声を作って聞きながら、Domが、テーブルの脇を抜け、近づいてきた。俺をたった今動けなくさせた、蜜色にとろけた瞳の持ち主は、ゆっくり膝をついて、俺の体を抱きとめる。
耳元で、Domがささやいた。
「がんばったな。動いていいよ」
「っ、ぅ……!」
どっと、強く心臓が跳ねる。命令をきちんとこなせたことへのご褒美。ずっと欲しかった言葉が、手のひらが、俺の頭に乗せられて、じっくりと撫で下ろしてくる。
「いい子だな」
「アッ……!?」
ひくい声が、愉しげに俺の耳たぶを掠めた。
俺のDomが、ふっと微笑んで、うなじのあたりを撫でてくる。指の背で、擦るように、あわく。
アルコールに火照った首を、ミツの、少し濡れた冷たい手が撫でるせいで、肩が跳ねる。
「なあ、大和さん。今、どうしたい?」
「え、な、んの、こと……」
「このあと。オレと、どこで、どうしたい?」
「な……っ」
ミツが、熱い腕に俺を抱きとめて、質問を重ねる。けれど、決定的なことは言わなかった。
言えよ、と。一言命じてくれれば、言えるのに。
ミツのチェックのニットベストに、縋るように手を伸ばして、触れる。その下の胸が、どくどくと打っていた。
居酒屋の喧騒の中、他の誰にも見えないように、壁際に俺を追い詰めて。
光を背負ったDomが、自分の影に俺を閉じ込めて、吐息した。
逃げ場がないのは俺の方なのに、まるで、ミツが喉に凶器を突きつけられてでもいるかのような、震えた吐息。興奮に照った唇が、舌を覗かせる。
「……み、」
「帰ろっか。もう、いいだろ?」
自分の体がどう動いたのか、認識する前に、顎が降りていた。頷く俺の姿を、ミツの瞳は満足そうに捉え、緩む。
パッと体を返し、ミツが光の方へ向いた。大和さん具合悪そうなんで連れて帰ります、また呼んでくださいよー、と、明るい声をあげている。
そうやって、他の誰かに願いを告げながら。
ミツの片手は、俺を逃すまいとして、頸を掴んだままだった。
*