【新刊サンプル】Dom/Subユニバース

 タクシーの独特の匂いのなかでも、なぜか、隣にいる男の匂いばかりを強く感じた。
 靖国通りをずっとまっすぐ。ミツが運転手に伝えたオーダーは、そのまま進めば寮に近づく、いつもの帰り道だ。
 でも、地図なんてろくに読まないミツがそんな言い方をすることには、何か別の意図があるに違いなかった。
 例えば。靖国通り沿いの、違うどこかを目指しているとか。それは、新宿大ガードの少し手前、北へ入った、あの胡散臭いネオンの一角かも──。
 腰骨の下の臓器が、それを求めて震えたのに、気づかないふりをして、平気そうな声を取り繕う。
「……悪かったな、飲み会、切り上げさせて」
「気にしてないって。オレこそごめん、悪酔いする人がいるの分かってたのに」
 ミツの手が、さっき俺があの男に撫でられた耳の後ろの辺りをかすめ、またミツの膝に降りた。
 その手の動きを目で追ってから、慌てて視線を逸らす。物欲しい気持ちが、ミツに悟られてしまう。
 気づいていないのか、優しい声が続けた。
「悪い人じゃねえから、多分明日、平謝りで楽屋来ると思うけど」
「あー、はは、それは逆に悪いことしたな……」
 黒いバケットハットに、丸い銀縁のサングラス。芸能人然としたいでたちで、ミツが黙り込む。唇をつぐんでいると、とたんに、心臓の音を強く感じる。
 さっき。ミツは、俺がミツのコマンドに従ったことに気づいていた。
 そのうえで俺を褒めて、俺はそのミツの振る舞いに、蕩けて応じた。SubがDomにする仕草そのものの、主人への服従と、本能的な愛情で……。
「……話、いい?」
 呟いたのはミツからだった。頷いて、続きを待つ。
 何から話せばいいかな。小さなささやきは、窓の方へと向けられた。かすかにミツの姿が映る窓。表情までは、俺の方からは見えない。
「あのさあ。オレ、気付いてたんだよな。あんたがSubだって」
 そう、とつぶやく代わりに、ジーンズの縁を擦った。手元を見下ろして、意味のない動作を続ける俺に、ミツが言い募る。
「大和さん。”こっち見て”」
「……っ」
 命令に、はじかれたように顔を上げる。
 ずっと、この声が欲しかった体は、俺の気持ちなんて考えもせず、ミツのコマンドに嬉々として応じた。
「ずっと、オレが、あんたをちゃんと褒めたかった」
 コマンドを放ったばかりのDomは、俺の顔を見てくれない。
「あんたが、オレが命令っぽい言い回しするたびに、嬉しそうにすんの、……かわいいなあ、この人って、思ってたよ」
 褒めたい、と言ったのに。いま、俺に命令したくせに。
 ミツは窓の外ばかり見ながら、いつもより少し低い声で続ける。
「あんた、たぶん性の話されんの嫌なんだろうなって思ってたから……面と向かってSubかなんて聞けないしさ。でも今日、あんたが他の誰かに飲まされて、褒められてんの見て、……」
 手が、ぎゅっと、座席の上で拳を作った。それがまた開くまでの、ゆっくりした間を取って、ミツが、吐き出すように言う。
「ごめん。誰でもよくて、とりあえず手近なオレにやってただけだって、分かってるけど」
 手が、俺の膝にぶつかって、止まる。
「……オレのにしたいんだ。あんたのこと」
 ミツは、タクシーの窓から、外を見ている。いつだって人の目を見て、真っ直ぐに言葉を放ってみせるくせに。気まずそうに、こちらを見ないで。悪いことをした子供が、謝れずにいるときのように。
 手のひらを重ねた。
 ミツが息を呑む。
 こちらを見た目は、すこし濡れていた。
 じっと、視線を合わせると、言葉に詰まった、切ない表情で、ミツは眉を寄せ、唇をつぐんでいた。
 潤んだ瞳が尋ねてくる。
 いいんだよな?
 右手を上げる。
「……すいません、この辺で、降ろしてもらえますか?」
 運転手に声をかけ、車を止めさせた。繁華街を過ぎて、上り坂に差し掛かるところ。
 手が離れた。代わりにミツが肩を寄せ、囁いてくる。
「行くだろ」
 この道の先には、ビジネスホテルが建っている。
 よく道覚えてたな、とからかいを口にしてみせると、ミツはくしゃりと笑って、タクシーを降りた。
「あんたも早く降りろよ」
 頷いて後を追うと、道路に足を下ろした途端、頭に何かが載せられる。温かい手。
「よくできました」

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