酔った和泉を迎えに来るそいつ
2回生だけど二浪してて、今日で22歳なんだ。
真夏。安いチェーン店での飲み会で、俺が秘密を打ち明けたのは、そいつにだけだった。同じサークルの、年下の同級生。早生まれのそいつは当時まだ19だった。
いいんじゃないですか。それだけやりたいことがあって、今ここでそれが叶っているのなら。あなたの人生です。
そいつは事も無げに、いっそ興味すらなさそうに、そんな言葉を投げ出した。細い眉、長いまつ毛に縁取られた涼し気な目元、通った鼻筋の先に薄いくちびる。端正な顔立ち、という言葉はこいつのためにあるのだろうと思える美しい顔は、その美しさを支えるようなきれいな言葉づかいで、決して甘くはない言葉をいつも紡ぎ出す。
そいつはそれから微笑んで、あと、お誕生日おめでとうございます。と付け足した。センター分けの黒い前髪がさらりと額にかかり、目元に影を落としても、その瞳は真っ直ぐに俺を捉えていた。
なぜそいつにだけ秘密を打ち明ける気になったのか、その時わかった。
そいつがサークルの副幹事に指名されて、さもありなん、と無性に誇らしく思ったのが、冬の話だ。日頃アイドル活動で目の回るほど忙しいだろうそいつは、それでも副幹事を引き受け、授業やサークルへ、時間を見つけては顔を出す。オンデマンドの授業や短期集中講義を上手く取り、未だ落単はしていないとか。どんなマネジメント能力だよ。
和泉はいつも、こういう集まりから得られる知見もありますから、なんて澄まして、ちょくちょく部室に溜まった領収書や報告書を整理して帰っていく。
大学で一人でいても凛として、画面の中では安心したような幼い笑顔も見せる、和泉一織はそういう男だった。
男であるそいつに、俺が抱いている感情は、どちらかというと恋慕に近いのかもしれない。過ぎた憧れが、所有欲に変わっていくような。「ファン」と言えば聞こえはいいが、和泉の仕草にどきりと疼くのは、胸ばかりではなかった。
あの日、和泉に微笑まれてから1年。これはいよいよもって危ないかもな、と自分の性癖を危惧していたその頃、事件は起きた。
やっぱりそれも飲み会で。
「そういえば、あなた今日誕生日でしょう。こんな所に顔を出していていいんですか」
「こんな所って。それ言えば和泉もだろ。仕事、忙しいんじゃねえの」
「お陰様で。うちのマネージャーもようやくスケジュール管理のノウハウが分かってきたようで、週に何時間かは自由時間があるんです。どこに来ようと自由でしょう」
「……誕生日、覚えてくれてんの、サンキュ」
「たまたまですよ」
和泉が俺の誕生日を覚えてくれているのが嬉しくて軽くどつくと、和泉は俺の肩を手で押しやりながら目元を緩ませた。
その日、和泉は少し荒れて見えた。
サークルの飲み会はいつもお決まりのチェーンの居酒屋で、一次会で飲んでいいのは生ビールだけ、という決まりもあった。ボードゲーム研究会の飲みサーめいた決まりごとを嫌ってか、和泉は1杯目をちびちびと飲み、俺が3杯目を頼んでもまだジョッキの半分も減らしていなかった。口数が多少増える程度には酔っているのだろうが、飲み慣れていない様子も少し感じられた。
盛り上がった飲みの席では、食事は放って置かれがちだ。焼き鳥やら鍋やらとんぺい焼きやらが取り分けもそこそこにテーブルに並べられている。和泉はそれらを少しずつ自分の皿に取り分けては、箸で崩して小さな口へ運んでいた。
飲み会に来ておいて黙々と食うなんて陰キャっぽい所作でさえ、和泉がすると気高く見えてくるのだから、立ち居振る舞いの洗練されたアイドルというのは恐ろしい。単純な外見の良さも八割はあるだろうが。
「俺も別に彼女とか居ねえし、上京だから家族も地元だし、一人寂しいよかサークル来た方が楽しいかなって」
「そうですか。私もそんなものです」
「え、和泉、彼女居ねえの」
「居ると思いますか?アイドルですよ」
「……あー、はは、そりゃそうか」
ボードゲーム研究会の活動内容は、ボードゲームカフェに赴いて遊び倒したり、新たなゲームを編み出したり、手遊びからスポーツに至るまでゲームと名のつくものの戦術を話し合ったり、それなりに中身のあるものだ。そういうときは積極的に核心を突く発言をする割に、自分の話は訊かれるまで話したがらないのが和泉だった。
メンバーがどうだとか、家族がどうだとか、和泉から話すのをあまり聞くことは無い。和泉がサークルに加入した時、和泉目当ての女子たちが入会届を出してきたのを、『すみませんが、女性のいる日には参加しませんので、周知願います』とラビチャの全体グループにぬけぬけと言ったこともあった。次第に和泉は、人づきあいに不慣れな、警戒心の強い子犬、という位置づけで、サークル内でじわじわと可愛がられるようになった。だからこの和泉そっちのけの飲み会の様子も、和泉としては居心地が良いらしい。たまに誰かが変な動きをすれば突っ込みもして、困ったように眉を下げて笑っている。
和泉の様子がおかしくなったのは、最初の1杯のジョッキを飲み干したときだった。
「和泉氏?和泉氏、寝てしまったでござるか?」
「その喋り方やめろよ、ほんとウケる」
「あーでもいずいずガチ寝だね。代々木住みだっけ?山手線?歩けるか」
直前まで笑ったりものを食べたりしていた和泉が、突然俯いて喋らなくなったのだ。すっかり酒の回った会員の乱暴な揺さぶりや声掛けにも応答しない。
こんなに酒弱かったのか、と驚きつつ、揺すっても起きない様子にはさすがに不安になった。ググればどうせ住所はわかるとはいえ、アイドルを酔った状態でタクシーに乗せて帰すのも躊躇われる。ググって住所のわかるアイドルってなんなんだ、事務所しっかりしろよ。
観念して、俺は和泉の腕を引き、脇に肩を入れた。気を失った成人男子のそれなりの重みが、肩にかかる。
「俺んちすぐだからいいよ、泊める。調子良くなったら歩いて帰るだろ」
「じゃあ二次会宅飲みしようぜ!」
「バカ、お開きだよ。俺明日一限あるし」
「行かねえくせに何言ってんだよ、じゃ二次会カラ館行くやつ挙手!」
「はーい!」
二次会でカラオケに行くらしいサークルの面々に、和泉の分も合わせて俺の財布から4枚の千円札を渡す。そんな俺の所作を見て、俺のターン!などとまた盛り上がり始める面々をよそに、和泉のトートバッグを自分のリュックに押し込んだ。
リュックを前にかけ、寝こけている和泉を背負って立ち上がる。重さに変に安心しながらも、半袖から覗く白い二の腕が顔の真横に来ることには、どきまぎしてしまう。あとなんかいい匂いする。アイドルって酒飲んでても酒臭くなんねえの?
ゆっくり店の外の階段を降りきって、裏の坂道を下る。和泉は小さく寝息を立て、起きる気配はない。
生3杯で止めておいて正解だった。徒歩5分といえど、アパート2階の自宅まで成人した男を背負って上がるのはなかなか骨が折れる。鍵を出すあいだ、和泉を手すりにもたれさせていたが、安アパートでも、酔って寝ていても、和泉が腕を投げ出して手すりにしなだれかかる姿は、まるで銀座のショップの広告のように画になる。酒で血色のよくなった頬に、センター分けの横髪がかかり、妙に色っぽい。
俺はリュックをまず玄関の中に置き、和泉の脇に肩を入れて部屋へなだれ込んだ。和泉のローファーを脱がせ、俺もスニーカーをもたつきながら脱ぐ。和泉の白いくつ下がしっとりと汗ばんでいて、変に動揺した。
……シャワー浴びて、さっさと寝よ。
ワンルームのしょっぱい万年床に和泉を転がす。
手狭なユニットバスでシャワーを済ませてインナーを纏い、髪を拭いたタオルを首にかけて部屋に戻ると、和泉は相変わらず綺麗な顔で眠っていた。
寝るほど酔っていたら夜中戻すかもしれないな、と思い当たる。服が汚れたら可哀想だ。
カットソーを脱がせると、タグにはPaul Smithと書かれていた。ユニクロでしか服を買ったことの無い俺には無縁の世界だが、恐らく大学生が着るなかではレベルの高いものだろう。でもインナーは俺も着ているエアリズムだった。着心地いいよな、わかる。
汚す前にとベルトのバックルも外して引き抜く。ジョセフホーム……?みたいなJの血統を思わせるブランドの9分丈のスラックスを寛げると、ぴったりしたグレーのボクサーブリーフが目に留まる。
和泉は忙しく、合宿に来たことがない。俺が和泉の下着姿を見るのは初めてだった。インナー越しの薄い胸板、控えめに下着に納まった膨らみが、和泉も男なのだと主張する。
……やばいな、と思った。白い腹部やへその窪み、浮き出た腰骨、下着の中へ繋がるうっすらとしたうぶ毛、丸みを帯びた臀部から、目が離せない。和泉のことを男だと、疑いようもなく分かっているのに、どこかで覚えた「ワンチャン」という言葉が脳裏を駆け巡る。
ダメだ!
眠っていても行儀よく揃えられた両脚からスラックスを引き抜き、代わりに俺の寝巻きを着せる。しなやかな筋肉のついた細いふくらはぎには、すね毛の1本も生えていない。
おれが高校の体育で着用していたハーフパンツは、和泉の細い腰には緩すぎるらしい。一度腰で折り返して紐をすぼめても、辛うじて尻の丸みにひっかかって留まっているのがありありとわかった。まあ、寝るだけならこんな程度で構わないだろう。寝るだけだし。寝るだけ。
誰かに言い訳するように念じながら、着古して襟ぐりの深くなってしまった白いTシャツを和泉に着せる。汗じみのないきれいなものを選んだつもりだが、作り物のように美しい顔がゆるゆるのTシャツから出てきた時は変な罪悪感があった。
……寝るか。
和泉を布団に転がしたまま、床に横になる。カーペットを敷いていても、床は固い。和泉を寝かせているのも煎餅布団だ、体が痛くならなければいいが。
和泉を案じているうちに、眠気が押し寄せてくる。男を背負って世話を焼いた疲れは大きかったらしい、俺はそのまま、眠気に身を委ねた。
微睡みから覚めたのは、窓の外からけたたましく誰かを探す声がしたときだった。
透明感のある、高い独特の声が、夜中3時の住宅街だというのにとんでもない声量で、ひとつの名前を呼んでいる。
「一織ーーー!」
声に聞き覚えがあった。
おそらく日本に住んでいて、この声を聴いたことの無い者は余程の山奥で自給自足するじいさんばあさんくらいだろう。
ここは、そこら中に「学生の皆さんは夜半大声で騒がないように」と立て札が立てられているような、学生の多い街だ。ましてこの付近の大学に通っていることが割れている和泉の名前を大声で叫ぶなんて、いくらメンバー同士であっても和泉に迷惑がかかるのではないか。
寝ぼけた頭で、慌てて玄関のドアを開ける。
一足飛びに幅の狭い急な階段を駆け下り、なおも名前を呼び続けようとするそいつを呼び止めた。
「おいあんた!七瀬陸だろ。アイドルが不用意なことすんな!和泉ならうちで寝てる、あんた迎えに来たんだろ?」
自分でも不審者然とした振る舞いだったと、言い切ってから気づいたが、そいつには特に気にすることでもなかったらしい。イメージカラー通りの赤いパーカーに身を包んだそいつは、ぱっと顔を輝かせて言った。
「一織居るんですか!お邪魔してもいいですか?」
……いきなり夜道で声掛けてきた初対面の男の言うこと、普通信じるか?
危機管理能力どうなってんだ……。
「まあ、おう、入れよ」
ふちの太い眼鏡越しにもわかる大きな目が、嬉しげに細くなる。
はい!と元気よく応じ、そいつは俺の後についてきた。
1日に2人も、こんな安アパートに、アイドルを招き入れることになるなんて。
「かっ!か、てぃ、……体操服……」
そいつは部屋に入るなり、眠る和泉の姿を目にして、驚いた声を上げた。
メンバーの前の和泉は、飲み会の時と同じで、こんなふうにだらしない格好はしないんだろう。
「ああ、吐いたりしたらまずいから、脱がせた。俺の体操着で悪いけど」
「今朝着てたのと違うから、わかります……えっと……一織の先輩ですか?」
「え?いや、同期。浪人して、歳は2個離れてるんだけど」
「じゃあオレより歳上なんですね」
七瀬陸は、勧められるままに床に座った。ぴんぴんと立った赤毛を揺らしながら、狭い部屋を物珍しげに見渡している。カーテン代わりに窓際に掛けっぱなしのシャツとか、とりあえず隅に積んである教科書とか、お世辞にも整ったとは言えない部屋だ。気まずさから、俺も口を開いた。
「俺からも質問いい?」
「あ、はい!」
「なんでここ分かったの?」
「一織とは、アプリでお互いの位置情報が分かるようにしてあるんです」
「何それ?」
「オレよく迷子になっちゃうから!それで一織が入れてくれて。便利だよ」
言いながら七瀬が自分のiPhoneを操作して、アプリを見せてくれる。そういえば入学当初はAndroidだった和泉が、iPhoneに乗り換えて操作に慣れないのを、サークルのみんなであれこれ教えたことがあった。と言ってもiPhone勢は俺のほかに2人程度で、さして協力出来なかったのだが。ひょっとして、こいつと同じアプリを入れるためだったのかもしれない。……和泉ならやりかねない、こんな危なっかしいメンバーを、あれだけしっかり者の和泉が放っておけるわけがない。
それはそれとして、明らかにこのアプリ、ピンクだしハートだし、カップル向けっぽいんだよな。突っ込まない方がいいのか。
ちっとも目を覚まさない和泉に、七瀬が不安げな視線を向ける。子犬が兄弟犬を心配するような沈痛な面持ちに、慰めるように俺は今日の経緯を話していた。
「一織が酔っ払って寝ちゃうなんて珍しい」
聞き終えた七瀬が、意外そうに目を丸くする。
「え、酒弱いんだろ?和泉が飲んだの、生一杯だけだったぜ」
「えっ!一織、体調悪かったのかな?一織も三月……えっと、一織のお兄ちゃんなんですけど、も、けっこうお酒好きで。いつもは顔が赤くなるくらいで、寝ちゃうことなんてないのに」
結局慰めには失敗してしまったらしい、七瀬はいっそう不安げに和泉の寝顔を見つめている。俺は話を変えた。
「でもまあ、よく迎えに来たよな。電車も終わってんのに」
「飲み会に行くっていうのは聞いてたから、2時くらいには戻るのかなと思ってたんですけど、帰ってこないし。電話しても出ないから、不安になって」
「帰るって……一緒に住んでんの?」
「うん。事務所の寮があって、共同生活なんだ。一織とは隣の部屋!」
敬語とタメ口を行き来して収まりの悪い喋り方に、思わずタメ口でいいよと笑ってしまう。俺からしたら年下だが、なんでも許したくなるような張り詰めない気軽さが、七瀬にはあった。和泉とは全く違うタイプだ。
「和泉、起こす?」
「あっ!いや、大丈夫。起こさないで……ちょっと気まずいから」
「気まずい?」
「喧嘩、してるんです。オレと一織。大した理由じゃないんだけど!」
「なるほど」
「だから、一織、オレに愛想つかして出てっちゃったのかなって思って、……前にも一度、一織が三月と一緒に家出しちゃったことがあったから」
そのときは三月のほうが大和さんと喧嘩したんだけど!と、アイドルに疎い俺でもドラマやバラエティでよく聞く名前が飛び出した。
関係ねえけど、俺いまマジで芸能人と喋ってんだな……。や、いつも和泉と喋っててもそうなんだけど。
「オレ、また置いてかれるのかなって思ったら、すごい寂しくて。一織だけはぜったい、手離したくないって思って」
一織だけは、と呟く声には、自分に言い聞かせるような強さがあった。かつて誰かの手を離したことがあったみたいに、七瀬が自分の手をぎゅっと握り込む。それから、ふっと手を開いた。
ふにゃりと緊張の解けた笑顔を浮かべて、七瀬が頭をかく。
「気づいたら、来ちゃってました」
「……恥ずかしくなるような話を人の枕元でペラペラ話さないで貰えますか」
「一織!起きたの」
「七瀬さんが騒がしかったので。……すみませんが、水をいただけませんか」
「ああ、俺が。七瀬……くん、は、座ってろよ」
「助かります。その人がグラスなんて持ったら、家中水浸しですよ」
「一織、けっこう元気じゃん!心配させといて!」
「これでも酔っていますから。あまり耳元で叫ばないで」
体を起こした和泉に、冷蔵庫のペットボトルからグラスへ水を注いで渡してやる。たまたま洗い物はしてあってよかった。和泉の顔色はいつもより白い。
「あ、じゃ、あ、オレ、帰るな」
和泉が目覚めたことで、気まずい気持ちを思い出したのか、急に七瀬がそそくさと立ち上がる。二歩も歩けば玄関のワンルームでは止める間もなく、さっさと七瀬は靴を履いてしまった。
どうするのかと和泉を見れば、グラスをさっと倒れないところに置いて、立ち上がっていた。立ち上がった拍子に緩んで落ちそうになったハーフパンツを押さえながら、玄関から顔を出す。
「七瀬さん」
けして鋭くはない声だった。七瀬は近くにいたらしい。和泉がドアの向こうに出ていく。
「私も帰ります。ここで待っていてください。荷物がまだ中にあるので、取ってきます」
「……うん」
ドアの近くで話しているらしい、壁の薄い安アパートでは、七瀬陸のよく通る声は部屋の中までしっかりと聞こえてくる。和泉は抑えめに話しているが、それでもバッチリ丸聞こえだ。新宿区内ユニットバスキッチン付き2階ワンルーム家賃5万は伊達じゃないんだよな。
と、七瀬が和泉を呼び止める声が聞こえた。
「待って、一織」
「何ですか」
「浮気じゃないよ」
「分かっていますよ。あなたが女性に思わせぶりなことをしてしまうのも、私がまんまといらない心配をしてしまうのも、いつもの事です」
「言い方トゲトゲしてる」
「女性にホイホイついて行って週刊誌に撮られたこと、まだ怒っていますから」
「ホイホイじゃないもん!今度の歌番組の生演奏失敗したくないから、練習のために家で歌って欲しいって頼まれたんだよ。仕事!」
「それをホイホイと言うんですよ。事実彼女は七瀬さんを家に引き込む時、キスをしようとしたんでしょう。蓋を開けてみれば彼女はカメラマンと繋がりがあって、事務所へ写真を送ってきて……美人局じゃないですか」
「だからすぐ帰ってきたじゃん!写真は撮られちゃったけど、キスしてないもん!」
うーん、和泉が正しい。
ていうか浮気がどうとか、カップルみたいな喧嘩してるな。まあ和泉、ちょっと潔癖そうだし、自分がアイドルだからって彼女作ってねえのにメンバーはゴシップ立ててりゃ気に障るよな。こんな所でそんな話をする所まで含めて、七瀬陸、迂闊すぎないか?
聞き耳を立てる俺さえ納得しかけたところに、七瀬はなおも噛み付いた。
「一織だってホイホイ先輩のおうち来てるんじゃん」
「飲みすぎて眠ってしまった私を介抱してくださったんですよ。第一、女性と男性では世間の見方が違うでしょう」
「一織だったらわかんないじゃん!」
「どういう意味ですか。声も大きいです。……帰って寝ますよ、静かに待っていてください」
「なっ……うん」
脱線していた会話を和泉がまとめて、部屋に戻ってくる。いつもこんなやり取りをしているんだろうか。ボードゲーム研究会での、我関せずな顔の得意な和泉とはかけ離れている。
「すみません、服も布団も借りてしまったんですね」
「和泉。酒弱いなら、ほどほどにしとけよ」
「普段はあの程度でここまで酔いません。何か一服盛られたんだと思います。アイドル活動で恨みでも買ったのか……保護して下さり助かりました」
和泉は俺のリュックにもたれさせてあったトートバッグを拾い上げると、綺麗なお辞儀をした。そのまま、雑に畳んで置いてあった衣服をテキパキと身につけ始める。
あまりにもなんてことないような冷静さで言うものだから、大事なところを聴き逃しそうになった。
一服盛られたって。
「なんだよそれ……サークルの奴じゃないよな」
「どうでしょうね。誰も私のジョッキには触れていないでしょうから、店員かもしれません。飲み干した私も不用心でした。今後対策しますよ」
「……また、サークル、来れんの」
「ええ。引き受けた役目もありますし」
「次、飲み会に和泉が来る時は、俺、和泉のドリンクから目はなさねえから」
「頼もしいですね」
頼もしいなんて和泉の方がよっぽどだ。一服盛られた飲み会にまた参加するなんて、図太いというか、案外好戦的というか。ボードゲームの戦略を考えるのも嫌いではないようだし、ある意味腑に落ちる気もするが。繊細そうな見た目からは想像もつかない。
「ああ、そうだ。七瀬さんには、薬のこと、内緒にしてくださいね。あの人、心配して引き止めるでしょうから」
「ああ、うん……。なあ、あんまり怒ってやんなよ。あいつお前のこと、マジで心配してたし。大事みたいなことも言ってた」
「知っています。ご心配なく」
和泉の答えはやはり図太くて、多少なり二人の仲を取り持つべきかと意気込みもした俺は、拍子抜けしてしまった。
「あの人、あなたの言うこと、全部信じたでしょう」
「……信じた」
「だから厳しく言うんです、私だけはね」
それってつまり、七瀬の特別な存在で居たい、ってことなのか。
もしかして、俺がこの二人に感じていた違和感は、本当は全て正解だったのか?
考え込む俺をよそに、和泉はきれいな会釈をして、ではまた、と部屋を出ていく。
和泉がドアを閉めると、ドアの向こうの七瀬の声が聞こえてきた。
「一織、ごめんね。オレ、今日、一織と過ごせると思って、ほんとは楽しみにしてたんだ」
「最近じゃ、滅多にオフも被りませんしね。とはいえ、どうせ一緒に仕事でしょう」
「違うもん……仕事じゃなくて、二人きりがよかったんだよ。このまま、本当に帰る?」
「……何が言いたいんですか」
「……ここに来るまでにね、ちょっとタクシー乗ったんだけど、あんまり周りに隠れるところなさそうなホテルあったよ」
七瀬の声色が、ふと悪戯っぽくなる。
「一織、具合悪くて寝ちゃったんだもんな。休んでから、朝帰ったほうがいいんじゃない?」
「しゃあしゃあと……」
遠ざかる声に、俺は自分の恋が終わったことを知った。
でも、ひとつ得たものはあった。
あの日、俺が秘密を明かしてもいいと思った和泉が、同じように今日、俺と秘密を共有したこと。
……あと、下着姿も見たし。
誕生日の失恋、あまりいい気はしない言葉だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
「……飲み行くか」
失恋の傷には酒が一番だ。
どのみちまだ二次会の最中だろう、リュックを背負って、ボードゲーム研究会の面々に、和泉帰宅、合流させろ、とラビチャを打つ。
返事はすぐに返ってきた。
俺は和泉の畳んで行ったTシャツを名残惜しく少し見つめてから、部屋の電気を消した。