あまえんぼ
陸が脱衣所を出ると、流したばかりの汗がうっすらと滲んでくるようなぬるい空気が、部屋を満たしていた。
鏡やデスク、冷蔵庫やテレビが配されたビジネスホテルの一室に、小柄な自分たちなら4人は眠れそうな大きなベッド。
その上に、華奢な首をもたげてリモコンを操作する、白い肌に薄桃色の頬をした青年がいた。
横向きに横たわる青年が、陸をみとめて起き上がろうと膝を折る。ワンピースのような開襟シャツのルームウェアから、長くて形の良い脚がのぞいて、陸は思わず唾を飲み込んだ。
「少し空気が悪いから、窓を開けていたんだけど。湯上りには暑いかな」
陸がベッドの端に腰を下ろすと、入れ違いに青年が立ち上がり、陸に背を向けて窓辺へ歩み寄って行く。歩くと、小さな尻の形がルームウェアの上からでもはっきりとわかった。
喉の奥、胸の中心がほのかに熱くなるようで、ルームウェアの胸元を手であおぐ。
「ちょっと暑いけど、苦しくないよ。天にぃこそ、暑くない?」
「うん。夜風が気持ちいい」
気持ちいい、と言いながらも、天は窓を閉めてしまった。既に冷房が入っているらしい、ささやかな、エアコンの稼働音がする。気管支の弱い陸を気遣ってか、枕元の加湿器も蒸気を吐いていた。
陸の濡れ髪に目を留めて、仕方の無い子、と言うように眉尻を下げる。
「体調は平気?」
デスクの上の2つのグラスに水を注ぎながら、天が訊ねた。天がペットボトルの蓋を閉める手際の良い姿を目で追いかけるのに夢中になっていた陸は、えっと、ともたついて答える。
「夏は、調子がいいんだ。台風の時はちょっとつらいんだけどね」
「そう。今日は気圧も落ち着いてるし、調子のいい日?」
「うん!だからね」
陸はつい弾んでしまう言葉尻をあわてて落ち着けながら、天のほうへ身を乗り出す。
「いっぱいできるよ」
にまりと目じりをゆるめ、ベッドに四つん這いになって自分を見上げる弟を、天はため息をついて見下ろした。
「……駄目。そういうつもりで来てない」
「えー!どうして!」
「買い物だけの予定だったでしょう。家に帰るつもりだった」
説明しながらベッドの端に腰掛けた天に、陸は早速すり寄って、その細い指に自分の指を絡める。
「じゃあどうして、オレと来てくれたの?」
七月は互いの誕生日がある。大事なライブが重なり、誕生日当日には顔を合わせることが難しかったが、どうしても天に贈り物がしたいからと陸からねだって予定を合わせてもらったのが今日だった。二人とも、明日は午前中から仕事がある。離れがたくて裾を引いた陸の手に、天が応じたことは、陸にとっては意外だった。
「……楽と龍が飲んでるって、ラビチャが来た。あっちの、騒がしいのに呼び出されるよりはマシだと思って」
天に渡された水を、促されるままにちびりと飲んで、陸が問いかける。
「オレうるさくない?」
「そうだね。はしゃぎすぎてベッドから転がり落ちそうなのは、すこし心配」
「平気だよ!」
両手で持ったコップの水を、ぐい、と一気に飲み干した陸に、天は眦をきつくする。そんな飲み方をして、むせたらどうするのか。咎めるような目付きに気づいて、陸のほうは目じりをやわらげた。
「オレ、前より丈夫になったんだよ」
「それでも。リスクの大きい行動は避けなさい。それと、埃を立てないように、気をつけること」
「はーい」
くすりと笑い声を漏らした天に、うれしくなった陸がじゃれつく。天は腰に抱きついた陸の額を指で押しやった。
「天にぃ」
唇を尖らせて天を見上げる陸の手から、天はコップを奪いさり、腕を伸ばしてデスクに置いた。結露を佩いたコップがふたつ、同じ姿で、デスクに並ぶ。まだ水をたっぷりたたえた天のコップから、結露した雫がするりとデスクに垂れた。
「ルームウェア、はだけすぎ。胸を冷やすでしょ」
「涼しくなったらしまうよ」
「駄目。髪、乾かしてあげるから、おいで」
天が陸に抱きつかれたまま、バスルームへ向かおうとした。陸は、天の細い肘の辺りに余る袖を掴んで着いていく。子どものような陸のそぶりに、陸に背を向けた天の目元が緩んだ。
大きくなって、前より丈夫になったと、胸を張る弟。一度だけど、体を重ねたこともある。体は確かに成長している。けれど、弟は昔と変わらず、甘えたがりなままだ。
「……狭いね、2人も入ると」
「うん。さっきシャワー浴びたから、まだ濡れてる」
「服、脱いでしまった方がいいかも。濡れちゃうから」
「わかった」
天の言葉に素直に従って、陸はちょっと雑にルームウェアを畳んで、バスルームの外に置いた。ボクサーパンツ1枚になった裸体には、体の弱さを想像しがたいような、引き締まった筋肉をまとっている。
下着のふくらみが視界に入って、天は視線を下げた。ホテルに来るべきではなかった。分かっていて、来てしまった。コンビニに用事があるからと、チェックインするなり陸は外に出かけていた。その間、1人で汗を流している時から、期待と後悔の入り交じる感覚に、天は少し、戸惑っていた。
「天にぃは脱がないの?」
「ボクは立ったままでいい。陸、バスタブを拭いたから、向こうを向いて、そこに腰掛けて」
「向こう、向かなくちゃダメ?」
下着姿の弟が、天の両手をとって、顔を覗き込んでくる。陸の濡れた髪から、手に雫がこぼれた。
冷静な声を、意識して出す。
「髪を乾かすって言ってるんだけど」
「だって、せっかく天にぃをひとりじめできるんだもん。ずっと天にぃを見てたい」
甘えるようだった声音に、意志の強さが宿り、硬くなる。こうなった陸を退かせるには、やさしく諭して、別の何かで釣って、駆け引きをして……すこし手間がかかる。そうしている間に陸は湯冷めしてしまうだろう。
「仕方ないな。……濡れちゃうから、ボクも前だけはだけることにする」
「やった!オレ、ボタン外すね!」
「そんなに浮かれるようなこと?」
「うん!……天にぃ!」
「ちょっと!濡れた髪で抱きつかないで。もう自分で外すから……」
「ええっ。ならオレは逆側から外す!」
結局、陸は天の足元のボタンひとつしか外せなかった。
壁にコードの繋がったドライヤーを取り、天は片手で、陸の髪を混ぜる。つんと硬い髪質の毛を指の腹で撫でつけて、頭ごと抱きしめるように後頭部に手を伸ばして。天が動く度に陸の口角は上がり、天の眉は下がった。天に耳の後ろを撫でられ、陸がくすぐったそうに笑う。
結局、陸の思い通りだな。
陸が目を輝かせて天の胸に頬ずりしてきた時はさすがに耳をつまんで叱ったものの、こら、と近づいてきた天の頬に、陸はまた頬ずりをする始末だった。
それ以上やるならもうブローは終わり。ドライヤーを自分の顔に向けてしまった天に、陸はごめんなさいと謝って、寂しげに見上げてきた。
「もうしない?」
「しない」
「大人しく、乾かされるって約束できる?」
「う……はい。約束します」
いい子、とつぶやく声を、風の音にかき消して、天は陸の髪を乾かし終えた。陸が何か言い出す前に、ボタンを留めきってしまう。残念そうに部屋に出てわたわたとルームウェアに袖を通しながら、陸は、ありがとう!と笑った。襟が内側に折れこんでしまっている。
陸の襟元を整えてやって、天は落ちてきた横髪を、耳にかけた。
*
白くなめらかな肌がしっとりと汗ばんでいる。
吸い寄せられるように、陸が天のうなじにキスをしてきた。陸が体を寄せる度、ベッドが小さく軋む。
「ちょっと……」
「キスだけだよ……」
とがめる天に言い訳をする陸の声は、それだけに留まらないことがはっきり分かるほど、蠱惑的な低い囁き。天の喉仏がゴクリと上下する。
キスだけ、って、声じゃないんだけど……。
「もう寝るって、言ったじゃない」
「まだ、8時だよ……」
「起きていたってすることないでしょう」
「天にぃは、寝ててもいいよ」
何それ。ボクの行動にキミの許可がいるの?
ムッと唇を引き、天がルームウェアの前をかき合わせた手に、後ろから抱きすくめるように、陸の手が重なった。
ちゅ、ちゅ、と、目を閉じて陸が吸い付く場所が、うなじから肩口へ、体を返して胸元へ、その合間に手のひらで背中を抱きしめながら、徐々に下へと降りていく。暗い部屋の中で、陸は天の体のどこに何があるのか、天よりも詳しく知っているようだった。
陸のまつ毛がたまに上がって、天の様子をうかがうたびに、そのまつ毛の先が素肌をかすめる。天はぎゅっと眉を寄せた。いつの間にかルームウェアのボタンは解かれていて、こんな時は上手くボタンを外せるらしい弟に、眉間のシワは深くなる。
「陸。今日はしない」
「うん……明日、仕事、だもんね……」
「仕事の前に一度帰らなきゃ。服も替えたい」
「うん……」
「聞いてるの」
臍に口づけた口を陸がすぼめたのがわかった。
拗ねたような素振りをしてみせるくせに、陸の手は止まらず、天の下着の上にのせられる。
「ちょっと!」
「天にぃ……オレ、キスしかしてないよ……」
鋭く咎めたけれど、遅かった。天の、熱を持ってしまったそこを、陸が驚いた声であばく。
電気がついていないのが幸いだった。ルームウェアの前ははだけられ、下着は腿の半ばにずり下ろされて、みっともない姿をさらしている。体の上の陸を蹴り飛ばせない以上、持ち上がったペニスに陸の手が添えられてしまうことも、防げない。天は片手で額を押さえ、もう片方の手で陸の手首をつかんだ。
「やめて」
「だって、すごい……濡れてる、こんなに。ぐずぐずで、あったかい」
「けなしてるの」
「褒めてるんだよ!すごい、すっごい!こんなことあるんだ、天にぃすごい」
陸の手のひらが、自分の先走りに濡らされていくのがわかる。
筒状にした手で、陸は天のペニスを上下にしごいた。
「……ぅ」
刺激に、天の首に力がこもり、喉から声が飛び出す。陸が嘆息した。
「すっごくえっちだね……」
恍惚と、天のペニスを掴みながら、陸は天の腿に自分のものをこすりつけ始めていた。
ルームウェアと下着越しにも、それが熱く張り詰めていることがわかる。
「やっぱり、したい。だめ?天にぃ……」
陸がつばを飲んで、息を震わせる。耐え難い様子で荒い息を吐く弟に、禁欲を強いることで何が起こってしまうのか、天は胸の奥がざわつくのを感じた。
陸の身を守ることは、天がこの世に生まれ落ちて、最初に帯びた使命だった。夜の仕事をしていて家を空けがちな両親の代わりに、天は同い年の弟の面倒を見なければならなかった。明日には死んでいるんじゃないか、と怯えた夜の、焦燥感と無力感が、この胸のざわつきの正体だ。か弱い陸の不確実な未来を、力ない手をした陸の代わりに自分が掴んで引き寄せてあげなくちゃならないと感じていた。
陸の体は小康状態と悪化を繰り返し、たびたび天を不安にさせた。それでも陸はいつも、天の与えるささいな娯楽をこの世の全てのように喜んで、愛して、明るい顔で次の喜びをせがんだ。限られていつか終わりが来るかもしれない弟の生涯に、めいっぱいの光を注ぐのが、天の仕事だった。
天は、陸を甘やかすことしか知らない。学校でつらい思いをしても、学校に行けない弟にそんな話はしたくない。天の暗い声を求める人はいなかった。天は陸の面倒を見てえらいね。いつも明るくて素敵なお兄さんだね。陸が大人たちに天を褒められ、自慢する度、天は足元の自分の影がすり減るようで怖かった。その怯えを払うのは、決まって、弟の明るい笑顔だった。
もうだめだと思ったとき、光は別の場所でも浴びられるのだと教わった。その光が、自分を救う光なのだと信じた。救いたいと願うことの裏側に、ぴたりとはりついて、救われたいと欲求する自分の影があった。
太陽は月を照らす。では太陽は何に照らされるのだろう。誰しも生まれつき影を持つ。天も同じだ、影のない全き太陽ではない。影と光を争わせるようにはげしく明滅する陸という存在から、自分を切り離してみて初めて、天は自分のかたちを探す喜びを知った。弟が、ちょっとにくくて、ちょっと羨ましくて、それでも愛しくて、大切で、守りたい。自分がずっと抱いてきた感情は、はじめは誰かに求められて抱いた感情だったのかもしれない。でも、その気持ちを持ち続けてしまうことに抗う必要は無いと思うようになった。自分を追ってきて、あまつさえ追い越すとまでのたまった弟に、ムカついて、厳しい言葉を浴びせた。そういう感情に身を任せても、弟は挫けなかった。もう、走れなかったか弱い弟は、天の後ろにはいない。走って追いついて追い越そうとしてくる、強がりな弟が、天の隣にいる。
その強がりな弟が、昔みたいに天を求めることは、ふしぎといやではなかった。
「……あまえんぼ」
「天にぃこそ」
「どうしてボクが甘えてることになるの……」
「だって……オレに触ってって、こんなにきつそうに勃ってる」
「生理現象だよ」
「オレに触られたから?気持ちよかったってこと?」
「うるさい」
むくれて、陸の唇に、天が吸い付く。
「……天にぃからのキス!」
「だから何」
「うれしい!」
「そう。……続けないの?」
「……続き、したい。さわっていい……?」
「……やさしくね」
ちゅうちゅうと啄むばかりだったキスは、舌を絡め合う熱い交接にかわった。
天のちいさな口の隙間に、にゅるりと舌が割り込む。こんな大人びたしぐさをどこで覚えたのだろう。
陸は天の知らないところで、天とは違う生き方をして、大きくなった。生まれる前から、染色体が半分だった頃から一緒にいた弟が、天の知らない姿を見せてくる度、どきどきした。悔しさにも似た胸の高鳴りを、弟に覚える日がきたことに、天ははじめ、戸惑った。
それでも、自分を求めてくる弟の姿は変わらなくて、天はそんな陸をいじらしく思った。くやしくて、ムカつく、でもかわいくて、大好きで、守りたい。ごちゃごちゃと考えてしまう天の思考を散らすように、陸の熱い舌が、天の舌をにゅくにゅくとしごく。
目を閉じて、陸の体に腕を回した。陸は自分のペニスも引っ張り出して、天のものと一緒にしごいている。生まれる前よりも近くに、陸がいる。
くちびるを離して、熱い息をついて。陸の腰が、何かを抉り込むように突き出され、天の体がベッドの上でずり上がった。
はげしくもみ合うようなキスのさなか、天の腕が、ベッドヘッドの一部にかすめた。なにか押してしまった、と思うよりも先に、ぱっと、部屋の明かりがつく。
濡れた瞳が天を見下ろしていた。
「陸……」
上気した頬、愛しくて大事にしたいのにめちゃくちゃにしたい、と、知らない感情の交錯をもてあました眼差し。助けを乞うような、瞳の潤み。
助けてあげたい。
本能的に湧き上がる気持ちを、天もまた扱いかねて、その困惑は吐息となって唇からこぼれる。
天のため息を吸うように、陸がおそるおそる、天に口付けた。
離れていこうとする陸の唇に、天が吸いつく。
「……天にぃ……」
陸が眉を下げ、天をあやすように小刻みなキスを落とした。
「あのね。……さっき……買ってきたんだ、コンドーム」
さっき、というのが、1人でコンビニに行った時だとさとるのに、時間がかかった。思考が、ぼんやりと霞がかったようだ。頭も体も、熱に浮かされている。
「天にぃ、おこると思って、言えなかったけど……」
アイドルがそんなもの人目に付くところで買っていいと思ってるの。
いつもなら叱るはずなのに、言葉が出てこない。陸はティッシュに手を拭うと、ベッドの脇に置いていたワンショルダーのリュックを探って、ビニール袋を引っ張り出した。
箱のまわりの包装が上手くはげないらしい。かりかりと爪を立て、焦ったように目に力を込める陸の手から、天はその箱を奪った。
天の手の中であっけなく包装を剥がされ、取り出された2つの避妊具を、陸は信じられないものを見るように目を丸くして見つめた。天は無言のまま、陸と自分のものにコンドームをかぶせてしまう。
「……いいの?」
いいと言われなくてもする気だから、コンドームなんて出してきたんじゃないの。天の思いは伝わったのか、伝わっていないのか。陸は、天の無言を肯定ととって、天の後ろに指を当てた。
天もまた、行為の準備をしていた。
こうなる気がしていたから。
こうなったら、自分はもう拒めないだろうと分かっていた。
陸の指はかんたんに天のなかに埋まっていった。2本、3本、指を増やしても、そこは問題なく陸を受け入れる。
「天にぃ」
すこし驚いたような陸の声を無視して、天は陸のペニスに指を添えた。白い指が、濃い色のコンドームを被せられたペニスを、優しく撫でる。
「……いれるよ」
陸が唇を舐め、天の後孔に自分のものをあてがう。ずぷりと重たい圧迫感を受け止めながら、天は両目をすがめた。
熱い。苦しい。息が詰まる。
唇を引き結んで弟の挿入を受け止める。やっとのことで全てを埋めた陸は、天の両脇についていた手を、天の太ももに動かした。
「天にぃのなか、あったかいね……」
心底嬉しそうな微笑が、酸素を上手く取り込めずにいる天の胸をついた。
ぼうっと熱に浮かされたように呟く陸の腕から、ぽたりと、天の太腿に汗が落ちる。その汗を、何を見るともなく目で追うと、天の喉から声がこぼれた。
「あ……」
天の白い肌の上で、陸と天の汗が混じった。
思わずその汗のしずくに伸ばそうとした手を、陸が掴む。
「陸……」
「天にぃ」
ぎゅっと眉を寄せ、けれど苦しいのではなく愛しさのやり場がわからなくて困るという顔で、陸が天を見つめる。
「好き」
天がふいと目を逸らすと、陸が、ぽつりとつぶやく。こぼれ出してしまったものを抑えかねたように、ばっと顔を上げた。
「好き!好き、好き……好き。好き」
好きだと言って欲しいのだろう。天から。
欲しがる言葉を返してやる代わりに、天は腰を浮かせた。陸のものがもっと深く入るようにと動く天に、陸は目を見開く。
「天にぃ、苦しいの?顔、真っ赤だよ……」
うるさい。
咎める声を出す気にもならない。ほどなく重ねられた陸の唇を、唇でついばむだけで許してやった。
*
「タオル、濡らしてくる。体を拭いてから寝ないと」
「オレも行く」
「ユニットバスだから、バスルーム、そんなに広くないよ」
「くっついてたら大丈夫だよ」
「……そう」
「うん」
浮かれて答える陸にため息をつき、ぐったりと重たい体を無理に起こしてベッドを降りる。床でぐしゃぐしゃになった備え付けのルームウェアは、二人分。人のぬけがらがふたつ、絡み合って落ちている。アイドル九条天ではない自分になって、陸と絡み合って、落ちて──。
「天にぃ、着せてあげる」
かけられた声に天が瞬くと、天の見下ろしていたルームウェアを陸があっさり取り上げて、広げた。まだしわくちゃなルームウェアを、てきぱきと天に着せようとする。
「陸、それじゃ前後ろが逆。背中でボタンを留めるの?」
「あ、あれ?えーっと、こう!」
「上下が逆さま。このままボタンを留めたら、すっぽり頭に服をかぶることになる」
「おばけみたいだね。覚えてる?子どもの頃……」
「もう自分で着るよ。陸も、冷えないように着て」
「オレが着せたかったのに……」
「体を拭いたあと、着せてもらえる?」
「……うん!」
バスルームまで、背中にぴったり陸を寄り添わせて歩く。本当に子どもの頃に戻ったみたいだ。陸が転んでしまわないように、陸の歩幅で。喜んで目を細めて歩いている陸も気づくように、段差の前では声をかけて。ついさっきまで天の体と繋がっていた、男の肉体は、あどけなくはしゃぐ弟の肉体と同じもの。重たい腰と裏腹に、心が浮き立っているのを自覚する。
天の体を気遣って、陸は、小さなバスタブのふちに天を腰掛けさせて、甲斐甲斐しく体を拭った。
お湯に浸した布をたびたび搾っては、あたたかいタオルで天の体をきれいにしていく。脂肪はないながら、筋肉も必要以上つけないようにしている天の腹部を、陸はとくに熱心にぬぐった。
「オレの方が筋肉あるんだよね」
「つけないようにしてるからね。ファンは、ムキムキのボクを喜ばない」
「ムキムキの天にぃかあ……父さんや母さんが見たらびっくりするだろうな」
陸のつぶやきには答えず、天はただ微笑んでいた。
陸の目じりが、困ったように下がるのに気づきながら、何かを言うことは、天にはできない。
甘くてすこし酸っぱい、煮詰められた苺のジャムのような沈黙に、陸がそっと木べらをさしこむ。
「今日、天にぃのおなかで寝ていい?」
「だめって言っても、するんでしょ」
この期に及んで甘えようとする弟に、ちょっと意地悪いことを告げると、いつもの調子の天に安心したのか、陸はぱっと顔を明るくした。
拭き終えた腹部に、嬉しそうにキスをしてくる。陸の思惑通り、布団にふたり重なって収まると、もう日付の変わりそうな時刻になっていた。
「おなか、ぐるぐるしてる!おなかすいたの?」
天の腹部にぴたりと耳を当てて、陸が笑う。
かあっと頬が熱くなるのがわかった。その音は、長く異物を受け入れていた腸壁が元の形に戻ろうとする音だ。陸の陰茎を受け止めていた肉体のうめき。きゅんと、せつなく、後孔が締まる。
……ボクが陸を欲しがっているみたいじゃない。
「べつに、欲しくなんかない」
「そう?オレはちょっとお腹すいちゃったなあ」
「運動したからね。こんな時間に食べたら……何?」
「う、運動って……天にぃのエッチ……」
これ、ボクが悪いの?呆れと驚きを溜息で鎮めて、天は陸の両肩に腕を回した。
「天にぃのおなか、お腹の中もあったかかったけど、上から触ってもあったかいね」
「ちょっと。はむはむしない。ボタンも留め直して」
「やわらかいからおいしそうなんだもん」
「もう。寮ではいつも夜食を食べてるの?」
「食べてないけど、天にぃ見てると、お腹すいちゃう……」
「ボクは食べ物じゃないでしょ」
「うん。天にぃは、天にぃなんだけど……」
陸が脚をモジモジと天の上で擦り合わせる。腿に振動を受けながら、天は視線を足元に落とし、その理由に気づいた。
「……今日はもうしないよ。一晩にたくさんして疲れるのは、体に良くない」
「うん……でも、収まらなくて」
「収まるようなことを考えて」
「収まるようなこと?」
「性欲がどうでもよくなるようなこと。昔話でも考えてみたら?」
「ええと……さるかに合戦とか?」
「ああ、いいかもね。ほら、目を閉じてなさい」
「うん」
天の言うことをすなおに聞き入れて、陸は目を閉じたらしい。翌朝のアラームがきちんとセットされていることを確認して、天は部屋の電気を落とした。
「ふふ」
くすくす。陸の楽しげな吐息に、天は静かにため息をつく。
「天にぃ?」
「陸、楽しくなってるでしょう。寝るんじゃないの」
「寝るけど……さるがかにと仲良くなるにはどうしたらいいんだろう、って考えて、歌って踊ったらどうかなって。さるがオレたちとMONSTER GENERATiONを歌ってね……」
「もう……寝なさい、下も収まったでしょ」
「……うん」
寝かしつけるように、天の手が、陸の額にのせられる。陸はまどろみながらつぶやいた。
「天にぃのおなか……」
太ももに、腹部に、陸の重みを感じる。
本当に大きくなった。
「天にぃのおなかで寝るの、幸せだなあ」
陸の声はもうすっかり眠たそうだ。誰に対しても無防備な陸の、いちばんやわらかいところがむき出しになっている声。
「ほんとに、幸せ」
陸は、心から嬉しそうにつぶやく。
「大好きだよ、天にぃ」
口にしたばかりの幸せを噛み締めるように。
「……いつか、一緒に、家に……」
陸の呟きの全てを、目を閉じたまま聞き流し、天は陸の瞼に手を動かした。
寝なさい、と言う代わりに添えられた手に、陸が手を重ねる。
天の手を持ち上げ、口元に寄せ、陸は、唇を押し当てた。
「天にぃ」
雛鳥が餌を求めて鳴くように。
「天にぃ」
敬虔な信徒が、信じる象徴を呼ぶように。
「天にぃ……」
恋人が、手に入れたばかりの愛しい相手を慈しむように。
天の名を呼びながら、陸は眠りについたようだ。
暗闇の中に目をひらき、天は、カーテンの端から漏れる光をぼんやりと見る。
カーテンの上のうねりの形をひきのばし、天井に、都会の明かりを漏らすカーテン。
街には人々が歩き、営み、明日になれば自分も同じくその一部になる。街の灯りを浴びて、人々に望まれる通りの、九条天になる。腕の中の弟もまた。
それでも、ずしりと重たい体をすべて天にあずけて、天の手に頬ずりをして眠る弟といる間、ここは誰の手も届かない場所になっているように思えた。
「りく」
すうすうと寝息を立てる弟に、小さく呼びかける。
大きくなったね。
頭、すごく重たい。ちょっと苦しいくらい。
「……幸せ……」
陸の言ったことばを、かたちを確かめるようにつぶやく。
陸の頬に引き寄せられた手で、陸の頬を撫でた。
「ちょっと、苦しいかな……」
腹部を圧される重みにあらがわず、力を抜くと、けほ、とひとつ咳が出た。
「幸せ、なんだね……」
弟が目覚めていたら、天にぃは?と尋ねただろう。
寝たふりをしていてよかった。
人の頭を載せている苦しさのせいで、目じりがすこし濡れている。
もう寝よう。濡れた睫毛を下ろす。その湿りが、答えられない問いへの答えのような気がした。