HOPEFUL
◼️あまえんぼ
陸が脱衣所を出ると、流したばかりの汗がうっすらと滲んでくるようなぬるい空気が、部屋を満たしていた。
鏡やデスク、冷蔵庫やテレビが配されたビジネスホテルの一室に、小柄な自分たちなら4人は眠れそうな大きなベッド。
その上に、華奢な首をもたげてリモコンを操作する、白い肌に薄桃色の頬をした青年がいた。
横向きに横たわる青年が、陸をみとめて起き上がろうと膝を折る。ワンピースのような開襟シャツのルームウェアから、長くて形の良い脚がのぞいて、陸は思わず唾を飲み込んだ。
「少し空気が悪いから、窓を開けていたんだけど。湯上りには暑いかな」
陸がベッドの端に腰を下ろすと、入れ違いに青年が立ち上がり、陸に背を向けて窓辺へ歩み寄って行く。歩くと、小さな尻の形がルームウェアの上からでもはっきりとわかった。
喉の奥、胸の中心がほのかに熱くなるようで、ルームウェアの胸元を手であおぐ。
「ちょっと暑いけど、苦しくないよ。天にぃこそ、暑くない?」
「うん。夜風が気持ちいい」
気持ちいい、と言いながらも、天は窓を閉めてしまった。既に冷房が入っているらしい、ささやかな、エアコンの稼働音がする。気管支の弱い陸を気遣ってか、枕元の加湿器も蒸気を吐いていた。
陸の濡れ髪に目を留めて、仕方の無い子、と言うように眉尻を下げる。
「体調は平気?」
デスクの上の2つのグラスに水を注ぎながら、天が訊ねた。天がペットボトルの蓋を閉める手際の良い姿を目で追いかけるのに夢中になっていた陸は、えっと、ともたついて答える。
「夏は、調子がいいんだ。台風の時はちょっとつらいんだけどね」
「そう。今日は気圧も落ち着いてるし、調子のいい日?」
「うん!だからね」
陸はつい弾んでしまう言葉尻をあわてて落ち着けながら、天のほうへ身を乗り出す。
「いっぱいできるよ」
にまりと目じりをゆるめ、ベッドに四つん這いになって自分を見上げる弟を、天はため息をついて見下ろした。
「……駄目。そういうつもりで来てない」
「えー!どうして!」
「買い物だけの予定だったでしょう。家に帰るつもりだった」
説明しながらベッドの端に腰掛けた天に、陸は早速すり寄って、その細い指に自分の指を絡める。
「じゃあどうして、オレと来てくれたの?」
七月は互いの誕生日がある。大事なライブが重なり、誕生日当日には顔を合わせることが難しかったが、どうしても天に贈り物がしたいからと陸からねだって予定を合わせてもらったのが今日だった。二人とも、明日は午前中から仕事がある。離れがたくて裾を引いた陸の手に、天が応じたことは、陸にとっては意外だった。
「……楽と龍が飲んでるって、ラビチャが来た。あっちの、騒がしいのに呼び出されるよりはマシだと思って」
天に渡された水を、促されるままにちびりと飲んで、陸が問いかける。
「オレうるさくない?」
「そうだね。はしゃぎすぎてベッドから転がり落ちそうなのは、すこし心配」
「平気だよ!」
両手で持ったコップの水を、ぐい、と一気に飲み干した陸に、天は眦をきつくする。そんな飲み方をして、むせたらどうするのか。咎めるような目付きに気づいて、陸のほうは目じりをやわらげた。
「オレ、前より丈夫になったんだよ」
「それでも。リスクの大きい行動は避けなさい。それと、埃を立てないように、気をつけること」
「はーい」
くすりと笑い声を漏らした天に、うれしくなった陸がじゃれつく。天は腰に抱きついた陸の額を指で押しやった。
「天にぃ」
唇を尖らせて天を見上げる陸の手から、天はコップを奪いさり、腕を伸ばしてデスクに置いた。結露を佩いたコップがふたつ、同じ姿で、デスクに並ぶ。まだ水をたっぷりたたえた天のコップから、結露した雫がするりとデスクに垂れた。
「ルームウェア、はだけすぎ。胸を冷やすでしょ」
「涼しくなったらしまうよ」
「駄目。髪、乾かしてあげるから、おいで」
天が陸に抱きつかれたまま、バスルームへ向かおうとした。陸は、天の細い肘の辺りに余る袖を掴んで着いていく。子どものような陸のそぶりに、陸に背を向けた天の目元が緩んだ。
大きくなって、前より丈夫になったと、胸を張る弟。一度だけど、体を重ねたこともある。体は確かに成長している。けれど、弟は昔と変わらず、甘えたがりなままだ。
「……狭いね、2人も入ると」
「うん。さっきシャワー浴びたから、まだ濡れてる」
「服、脱いでしまった方がいいかも。濡れちゃうから」
「わかった」
天の言葉に素直に従って、陸はちょっと雑にルームウェアを畳んで、バスルームの外に置いた。ボクサーパンツ1枚になった裸体には、体の弱さを想像しがたいような、引き締まった筋肉をまとっている。
下着のふくらみが視界に入って、天は視線を下げた。ホテルに来るべきではなかった。分かっていて、来てしまった。コンビニに用事があるからと、チェックインするなり陸は外に出かけていた。その間、1人で汗を流している時から、期待と後悔の入り交じる感覚に、天は少し、戸惑っていた。
「天にぃは脱がないの?」
「ボクは立ったままでいい。陸、バスタブを拭いたから、向こうを向いて、そこに腰掛けて」
「向こう、向かなくちゃダメ?」
下着姿の弟が、天の両手をとって、顔を覗き込んでくる。陸の濡れた髪から、手に雫がこぼれた。
冷静な声を、意識して出す。
「髪を乾かすって言ってるんだけど」
「だって、せっかく天にぃをひとりじめできるんだもん。ずっと天にぃを見てたい」
甘えるようだった声音に、意志の強さが宿り、硬くなる。こうなった陸を退かせるには、やさしく諭して、別の何かで釣って、駆け引きをして……すこし手間がかかる。そうしている間に陸は湯冷めしてしまうだろう。
「仕方ないな。……濡れちゃうから、ボクも前だけはだけることにする」
「やった!オレ、ボタン外すね!」
「そんなに浮かれるようなこと?」
「うん!……天にぃ!」
「ちょっと!濡れた髪で抱きつかないで。もう自分で外すから……」
「ええっ。ならオレは逆側から外す!」
結局、陸は天の足元のボタンひとつしか外せなかった。
壁にコードの繋がったドライヤーを取り、天は片手で、陸の髪を混ぜる。つんと硬い髪質の毛を指の腹で撫でつけて、頭ごと抱きしめるように後頭部に手を伸ばして。天が動く度に陸の口角は上がり、天の眉は下がった。天に耳の後ろを撫でられ、陸がくすぐったそうに笑う。
結局、陸の思い通りだな。
陸が目を輝かせて天の胸に頬ずりしてきた時はさすがに耳をつまんで叱ったものの、こら、と近づいてきた天の頬に、陸はまた頬ずりをする始末だった。
それ以上やるならもうブローは終わり。ドライヤーを自分の顔に向けてしまった天に、陸はごめんなさいと謝って、寂しげに見上げてきた。
「もうしない?」
「しない」
「大人しく、乾かされるって約束できる?」
「う……はい。約束します」
いい子、とつぶやく声を、風の音にかき消して、天は陸の髪を乾かし終えた。陸が何か言い出す前に、ボタンを留めきってしまう。残念そうに部屋に出てわたわたとルームウェアに袖を通しながら、陸は、ありがとう!と笑った。襟が内側に折れこんでしまっている。
陸の襟元を整えてやって、天は落ちてきた横髪を、耳にかけた。
*
白くなめらかな肌がしっとりと汗ばんでいる。
吸い寄せられるように、陸が天のうなじにキスをしてきた。陸が体を寄せる度、ベッドが小さく軋む。
「ちょっと……」
「キスだけだよ……」
とがめる天に言い訳をする陸の声は、それだけに留まらないことがはっきり分かるほど、蠱惑的な低い囁き。天の喉仏がゴクリと上下する。
キスだけ、って、声じゃないんだけど……。
「もう寝るって、言ったじゃない」
「まだ、8時だよ……」
「起きていたってすることないでしょう」
「天にぃは、寝ててもいいよ」
何それ。ボクの行動にキミの許可がいるの?
ムッと唇を引き、天がルームウェアの前をかき合わせた手に、後ろから抱きすくめるように、陸の手が重なった。
ちゅ、ちゅ、と、目を閉じて陸が吸い付く場所が、うなじから肩口へ、体を返して胸元へ、その合間に手のひらで背中を抱きしめながら、徐々に下へと降りていく。暗い部屋の中で、陸は天の体のどこに何があるのか、天よりも詳しく知っているようだった。
陸のまつ毛がたまに上がって、天の様子をうかがうたびに、そのまつ毛の先が素肌をかすめる。天はぎゅっと眉を寄せた。いつの間にかルームウェアのボタンは解かれていて、こんな時は上手くボタンを外せるらしい弟に、眉間のシワは深くなる。
「陸。今日はしない」
「うん……明日、仕事、だもんね……」
「仕事の前に一度帰らなきゃ。服も替えたい」
「うん……」
「聞いてるの」
臍に口づけた口を陸がすぼめたのがわかった。
拗ねたような素振りをしてみせるくせに、陸の手は止まらず、天の下着の上にのせられる。
「ちょっと!」
「天にぃ……オレ、キスしかしてないよ……」
鋭く咎めたけれど、遅かった。天の、熱を持ってしまったそこを、陸が驚いた声であばく。
電気がついていないのが幸いだった。ルームウェアの前ははだけられ、下着は腿の半ばにずり下ろされて、みっともない姿をさらしている。体の上の陸を蹴り飛ばせない以上、持ち上がったペニスに陸の手が添えられてしまうことも、防げない。天は片手で額を押さえ、もう片方の手で陸の手首をつかんだ。
「やめて」
「だって、すごい……濡れてる、こんなに。ぐずぐずで、あったかい」
「けなしてるの」
「褒めてるんだよ!すごい、すっごい!こんなことあるんだ、天にぃすごい」
陸の手のひらが、自分の先走りに濡らされていくのがわかる。
筒状にした手で、陸は天のペニスを上下にしごいた。
「……ぅ」
刺激に、天の首に力がこもり、喉から声が飛び出す。陸が嘆息した。
「すっごくえっちだね……」
恍惚と、天のペニスを掴みながら、陸は天の腿に自分のものをこすりつけ始めていた。
ルームウェアと下着越しにも、それが熱く張り詰めていることがわかる。
「やっぱり、したい。だめ?天にぃ……」
陸がつばを飲んで、息を震わせる。耐え難い様子で荒い息を吐く弟に、禁欲を強いることで何が起こってしまうのか、天は胸の奥がざわつくのを感じた。
陸の身を守ることは、天がこの世に生まれ落ちて、最初に帯びた使命だった。夜の仕事をしていて家を空けがちな両親の代わりに、天は同い年の弟の面倒を見なければならなかった。明日には死んでいるんじゃないか、と怯えた夜の、焦燥感と無力感が、この胸のざわつきの正体だ。か弱い陸の不確実な未来を、力ない手をした陸の代わりに自分が掴んで引き寄せてあげなくちゃならないと感じていた。
陸の体は小康状態と悪化を繰り返し、たびたび天を不安にさせた。それでも陸はいつも、天の与えるささいな娯楽をこの世の全てのように喜んで、愛して、明るい顔で次の喜びをせがんだ。限られていつか終わりが来るかもしれない弟の生涯に、めいっぱいの光を注ぐのが、天の仕事だった。
天は、陸を甘やかすことしか知らない。学校でつらい思いをしても、学校に行けない弟にそんな話はしたくない。天の暗い声を求める人はいなかった。天は陸の面倒を見てえらいね。いつも明るくて素敵なお兄さんだね。陸が大人たちに天を褒められ、自慢する度、天は足元の自分の影がすり減るようで怖かった。その怯えを払うのは、決まって、弟の明るい笑顔だった。
もうだめだと思ったとき、光は別の場所でも浴びられるのだと教わった。その光が、自分を救う光なのだと信じた。救いたいと願うことの裏側に、ぴたりとはりついて、救われたいと欲求する自分の影があった。
太陽は月を照らす。では太陽は何に照らされるのだろう。誰しも生まれつき影を持つ。点も同じだ、影のない全き太陽ではない。影と光を争わせるようにはげしく明滅する陸という存在から、自分を切り離してみて初めて、天は自分のかたちを探す喜びを知った。弟が、ちょっとにくくて、ちょっと羨ましくて、それでも愛しくて、大切で、守りたい。自分がずっと抱いてきた感情は、はじめは誰かに求められて抱いた感情だったのかもしれない。でも、その気持ちを持ち続けてしまうことに抗う必要は無いと思うようになった。自分を追ってきて、あまつさえ追い越すとまでのたまった弟に、ムカついて、厳しい言葉を浴びせた。そういう感情に身を任せても、弟は挫けなかった。もう、走れなかったか弱い弟は、天の後ろにはいない。走って追いついて追い越そうとしてくる、強がりな弟が、天の隣にいる。
その強がりな弟が、昔みたいに天を求めることは、ふしぎといやではなかった。
「……あまえんぼ」
「天にぃこそ」
「どうしてボクが甘えてることになるの……」
「だって……オレに触ってって、こんなにきつそうに勃ってる」
「生理現象だよ」
「オレに触られたから?気持ちよかったってこと?」
「うるさい」
むくれて、陸の唇に、天が吸い付く。
「……天にぃからのキス!」
「だから何」
「うれしい!」
「そう。……続けないの?」
「……続き、したい。さわっていい……?」
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