HOPEFUL 

◼️まん丸とおねだり

まただ。
ぱちぱちと、陸がなにかを弾けさせる音で目が覚める。
この家に陸とふたりで住み始めて3日、そんな朝がずっと続いている。
今朝も、ボクを起こさないように、陸のできる範囲で静かに朝食を支度をしているようだった。まどろみの中で、そんな陸の健気さを少し得意に思いもして──ばちんと目が覚めた。
「ちょっと陸!」
「あ、天にぃ!おはよう!ほっぺ赤くなってるよ、枕に押し付けて寝てたの?」
音の出どころ、キッチンへ向かうと、Tシャツとステテコにエプロン姿の陸が、うきうきと話しかけてきた。手には菜箸、カウンターには、熱されて気泡を弾けさせる油と、リング状に成形された生地。
やっぱり……。
「今日もドーナツを揚げるつもり?」
「うん!天にぃ、好きでしょ?オレも好きだから!」
頬を照らせているのは、手元の火の気のせいだけではないだろう。純粋にボクが大好きって表情を隠しもせず、ありもしない耳としっぽをぴこぴこ動かして笑う姿は、毒気を消し飛ばせる勢いで眩しい。
アイドリッシュセブンの寮で何を教えこまれたのか、陸は寝起きのボクを迎えるなり、勝手に髪を撫でつけ始める。こんなに世話を焼きたがるような子だったっけ。
というか、いま世話を焼きたいのはボクの方だ。
「えへへ、寝ぐせ、あんまり上手に直せないや」
「そんなのはどうでもいい……油がはねるから、火を消すよ」
「あっ、待って!いま揚げるところだから」
「昨日、もうドーナツは充分食べたって言ったよね」
「昨日のは、ちょっと焦がしちゃったもんね……。三月にもっと上手にできるように教えてもらったから、平気だよ!」
「そうじゃない」
昨日の朝食にと陸が張り切って揚げたらしい、ブラウンシュガーたっぷりのドーナツは、一部は器用に芯まで焦げ、それ以外の部分は油っぽくベタついていた。生地が緩かったのだろう。その前、1日目のドーナツは、リングがほどけてスティック状になっていた。毎日違う失敗をするということは、その度に和泉三月に作り方を教わり直しているのだろうと分かる。努力して、ボクの食べたいものを作ろうとしてくれるのは嬉しい。
嬉しいけど……。
「毎日ドーナツは食べられない」
「えっ……天にぃ、ドーナツ好きじゃない?」
「好きだけど、体に悪い。必要な栄養素がドーナツだけじゃ摂れない。3日続けて朝から揚げ物なんて、アイドルの食事にふさわしくないと思うけど」
腕を組んで告げると、陸はむうと唇をひしゃげて、ボクの髪をさっきより強く撫でつけた。撫で付けると言うより、乱暴にかき混ぜるような手つきになっている。これじゃ、寝癖が直るどころか、髪はもっと乱れてしまう。
「陸」
叱責の声音を作れば、陸はよけいに悔しそうに唇に力を込めて、うつむいてしまった。
……言い過ぎた、かもしれない。陸は感受性の豊かな子だ。人の言葉を真摯に受け止める子だからこそ、込められた悪意に動揺しすぎると、体調に悪く作用することもある。
失敗した。陸の心を突き刺したいわけじゃないのに、言うことを聞かせたくて、強い言い方をしてしまった。
きゅっとボクの髪をつかんだ陸の手に、ボクも手を重ねた。ボクの冷えた手と違って、火のそばにいた陸の手は、すごく熱い。
「陸、どうして、ドーナツにこだわるの?」
穏やかに問いかけると、陸は、うつむいたままで、1歩距離を詰めてきた。陸のつむじが目の前に迫る。繋いでいない方の手に握ったままの菜箸をとり、手を伸ばしてコンロの火を落とせば、自然と、ボクから陸に抱きつくような格好になった。
鎖骨の辺りで、陸のまつ毛がぱしぱしとまたたく。パジャマの薄いコットン生地越しに、陸の体温がじわりと胸に伝わってきた。
「天にぃ、いつから、あんなに甘いもの食べるようになったの?」
泣き出す前のような、震える声で問われて、息が詰まる。
ボクが、知らない陸に戸惑うように、陸もまた、知らないボクに驚いていた。
ボクらが会うことのなかった5年間。その間に、ボクらの色々なことが変わった。
「天にぃがあんなに甘いもの好きなんて知らなかったから、びっくりした」
「……そう」
「うん。オレがちいさいころ、あんまり甘いもの食べられなかったから、天にぃはずっと我慢してたのかもって思ったんだ」
陸が、ボクの手を握り直した。少し痛いくらいの力強さで、ボクの四指を掴む。その手の甲を、ボクは親指でなだめるようにさすった。
「……甘いものをよく食べるようになったのは、たしかに、九条さんのところでお世話になり始めてからだよ」
陸の手の力が、また少し強くなる。
「でも、甘いものが食べたいから、九条さんのところに行ったわけじゃないのは、陸も知っているでしょう。理も、ボクによくドーナツを焼いてくれたけど、陸がボクのためにドーナツを焼かなくちゃいけないわけじゃないよ」
言い募っても、陸の手の力は弱まりそうにない。
少し身を乗り出して、陸の肩口に頬を預ける。
ねえ陸、と、甘くねだるような声を、その耳朶に囁いた。
「ボクのためになんて言って、危ないことをしないで。その方が、ボクはずっと心配になる」
小麦粉も油も。心配なことはいくつもある。
ボクがいくら危ないと言ったって、最近のこの子は平気だと言ってボクの言うことをきかない。陸は、自分の力では絶対にどうにかできない無茶を好んでするような子じゃないし、周囲に心配をかけまいとして自分のやりたいことを別の楽しみに置き換える分別もある子だ。
それでも、料理のような日常生活では、陸は自分のやってみたいことをあまり譲ろうとしない。あの寮でたくさんの保護者にわがままを助長されたんだろう。
陸が、楽しそうに色々なことに挑戦するのは、ボクだって嫌なわけじゃない。けど、目に見えている危険にも気づかないで手足を突っ込むような世慣れしていない無防備な子に、火や油を積極的に使わせることには、どうしても抵抗がある。
まして、その理由が自分にあるなら。
知らず、ボクの目に険が籠っていたのだろう。ゆっくり体を離した陸は、しょんぼりと気落ちしていた。
「オレ、天にぃをまた怒らせちゃったのかな」
「……怒ってるように見える?」
陸は、ふるふると首を振った。ボクの手を握っていた手の力も、もうすっかり弱まっている。ベッドの中で、眠りに落ちる直前にするような、体温を交わし合うだけのあわい繋がり。
「オレ毎朝、夢みたいなんだよ。起きたら天にぃが隣にいて、あったかくて、天にぃが一緒にごはん食べてくれて……」
陸の眉根が寄せられて、懇願するようにくちびるがわなないた。オレ、と呟いてから言葉を切って、陸は震える息を吐く。
「もう天にぃのこと、離したくない」
握られていた手は、すっかり、陸の体温になってしまった。
「だから、天にぃの喜ぶことしかしたくないんだ……」
まだ一緒に暮らし始めて3日。
陸は、家にいる間、片時もボクのそばを離れようとしない。
離れる時間なんて、お風呂とお手洗いくらいで、隙を見せればお風呂にも一緒に入ろうとする。八乙女さんや十さんとは一緒に入ったんじゃないの、と謂れもない疑いまでかけられた。風呂の温度で揉めることはあっても、誰があんな大きい二人と湯船を共になんてするだろうか。
陸だけだよ、と伝えると、陸はこっちが動揺するくらいに喜んでくれた。
陸も、きっと、ボクに同じように喜んで欲しいんだろう。ボクはじゅうぶん喜んでいるつもりだけど、陸に分かりやすいように喜ぶ姿を見せるのは、気恥ずかしかった。
「……喜んでるよ。陸の気持ちは、すごく嬉しい」
微笑みかけると、陸は困ったように眉を下げた。本当に?と、分かってるんだけど、が混ざったような顔。わかりやすい顔をする弟の頬に、目を閉じて、頬ずりをしてやる。
「でも、毎日ドーナツを食べていたら、仕事に差支えるでしょう」
「仕事に?」
「太っちゃう。……ボクがぷよぷよのまん丸になったら、陸だって嫌でしょ」
「天にぃが、ぷよぷよの、まん丸に……」
しくじった。
陸は、視線をあさってに持ち上げながら、ゆるんと目を三日月にした。
「かわいいと思う!」
そうじゃない。
ボクの頬にしっとりと丸い頬を押し付けて、陸は声を大きくした。
「太ってもちもちの天にぃも、オレは好き!」
「太ってない。もちもちなのは保湿。陸も同じボディーミルク塗ってあげてるでしょ」
「うん。すっごいもちもち!天にぃと暮らし始めてから、オレ、肌がツヤツヤしてるねって褒められるんだよ!」
「そう。いいことじゃない。アイドルの外見のクオリティは、現場の士気に関わる。コンディションの万全な、キラキラしたボクらを、スタッフも、ファンも望んでる。分かるよね?」
一転して、トーンの硬いお説教の口調になったボクに、陸も真剣な顔つきになる。
「……うん」
「いい子」
頬も手も離すと、陸は困ったようにボクを見上げてきた。背丈は違わないのに、陸がボクを見つめるとき、なぜか、見上げられている、と思う。というか、上目遣いでおねだりをされる。自分の顔がかわいいとわかっていて、その目をしたらたいていの大人は強くは出てこないと知っていてする表情。これも、アイドリッシュセブンの、特定の数人が陸を甘やかした結果、陸に獲得されてしまった既得権益のひとつだ。
陸は、ボクと暮らしていた頃より、大きくなって、いろんなことができるようになって、強くなって、たちが悪くなった。
ダダをこねる弟には、もう手がつけられない。
「ね、もうタネ作っちゃったから、今日だけドーナツでもいい?もう作らないようにするから」
「……いいよ。ドーナツも、陸が作りたいなら、一週間に一度なら食べてあげる」
「ほんと!?」
「ただし、危ないことはしないで。粉を扱う時はマスクをして、吸い込まないように。揚げる時も必ず軍手をして、長袖で。あと、ボクが起きてる時に一緒に支度するようにして」
「一緒に!?いいの!?」
「朝起きたら、キッチンに陸が倒れているなんて、想像もしたくない。火傷をするようなことがあれば、揚げ物はやめてもらうから」
「うん!オレも、三月に、ヘルシーなドーナツの作り方、聞いておくね」
陸は嬉しそうにすこし体を伸ばして、ボクの頬に吸い付いた。ちゅ、ちゅ、とかわいく頬で鳴るリップ音に、ボクは自分が呆れ顔になっていくのを自覚する。
和泉三月はきっと、次に現場で会った時、やれやれ、まあ付き合ってやれよ、みたいな目配せをくれるだろう。向こうの弟はこっちの弟とは勝手が違うようだけど、甘やかして育てたせいでちょっと聞かん気なところがあるのは同じだ。ボクたち兄が、その強情を憎むことは出来ず、弟を責めきれないことも。
「天にぃ、オレの心配してくれてたんだよね。ありがとう。だいすき」
「ちょっと、ここで抱きつかない。油もまだ熱くて危ないから……話すなら、ソファに行こう」
「うん」
陸はすっかり甘えたモードだ。さっきまで拗ねていたのが嘘のように、踵を返したボクの背中にべたりととりついて、離れようとしない。
「……歩きにくい」
「離れたくないんだもん」

★続きは冊子でお楽しみください

おすすめ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。