day-day
day-day
太陽が生まれた日を、俺は知らない。
代わりに、太陽に焦がれる目を、もう随分前に見た。
その目が太陽よりもきらきらと、ぎらぎらと眩しかったから、いつか太陽なんてこの目に吸い込まれて、取って代わられてしまうんじゃないかと思った。
「母ちゃん、俺、散歩行ってくる」
「また?あんた今朝も5キロ走ったって、犬が先にばてるわよ」
「暇なんだよ。出勤の往復3時間が急になくなっちゃった分、うちの天使に尽くしてやんなくちゃな〜」
急に抱き上げられたうちの天使こと、里親募集で引き取った雑種犬は、丸い目をくりんと回して俺を見つめ返す。ビーグルやレトリバーに似た、すらりと伸びた鼻筋に、鼻水に濡れた鼻がぽちりと乗っかった顔。うちに迎えて1週間、毎日こいつを見つめているのだが。
ん〜!
かわいい!
「かわいい〜!」
「はいはい、分かった分かった。さっさといきなさいよ、もう」
いま世の中はちょっと不安定で、猛威を振るう新型ウイルスの影響で、学生の卒業式はなくなるわ、
近所のホテルビュッフェは3月いっぱい休業するそうだ。専門出てすぐインテリア雑貨の事務所に就職した俺も、3月の新生活シーズンに合わせた商品の出荷を見届けて、めでたく出社自粛、テレワークの身分になった。
しばらく土日祝の定期の休みさえお預けだった俺がこれ幸いとお迎えした我が家の幸福ちゃんが、この、いま俺の手の中でお行儀よく首輪をつけられているわんこなのである。
「かわいいなあ。かわいいなあ」
「そんなにかわいいかわいい言ってたら、かわいいが自分の名前だと思うようになっちゃうわよ」
「それは困る。立派な名前つけたんだから」
「なら名前で呼んであげなさいよ」
「はーい。行ってきます!」
走り出した俺を引っ張るようにぐんぐんと駆けていく、推定年齢3歳という、里親募集にはすこし厳しい成犬のこいつの名前。
その名前の由来は、ずっと犬を飼うのに反対していた母が、先日とうとう折れてわんこのお迎えを許した事情に重なる。
いつもの散歩ルートの河原を通るたび思い出す、かっこいい、魔法使いの同級生のこと。
ざぁあ、と、誰かがド派手に河原を滑り降りてくる音と一緒に、俺の名前を呼ぶ声がした。
降りてきたのは、みんなの人気者で誰でも名前を知ってる、この街の自慢のケーキ屋の長男。
「和泉……くん」
「隣のクラスのやつだろ。何してんの?」
「何って……家出」
「家出?」
「母ちゃんはなんもわかってない。もう俺はここに住むんだ」
「ここに?!」
たかだか11の小学生が張って見せた見栄をそいつは信じたのか。ちょっとおおげさなくらいに驚いて、次の言葉で俺をほめてきた。今にして思えば、その時俺は既に家出を後悔して泣き暮らし、目を腫れぼったくさせていたはずなので、ただごとではないと感じた和泉が慰めてくれようとしたのかもしれない。
「かっこいいな」
「だろ。でも寒いし、腹減った」
橋の下で膝を抱えていたみじめさを振り払って立ち上がった俺に、和泉はにやりと笑いかける。
「なら、うち来いよ!」
「え?」
「オレんち、ケーキ屋なんだ!魔法かけてやる!」
和泉に手を引かれて駆け登った河原道には、小さなカゴいっぱいに牛乳を積んだ和泉の自転車があった。
ケーキ屋の息子の自転車のカゴに、家族じゃ飲みきれないようなたくさんの牛乳。それを見たとき、俺はちっぽけな理由で家出をした自分が恥ずかしくなって、すなおに和泉について歩いた。
歩きながら、和泉と話していると、初めて話す相手じゃないみたいに、ぽんぽんといろんな話ができた。
好きなヒーローアニメの話。家族の話。俺は妹がいるけど、和泉には弟がいて、まだ二年生なのにもうかけ算ができるって話。和泉は三月だからすぐに名前を全部漢字で書けたけど、弟のテストの名前の欄にはいずみ一おりと書いてあるという話。
どうして家出をしたのか訊かれて、どうしても犬が飼いたいのに、妹が犬の吠える声を怖がるから、親が反対する、と答えたら、和泉はへんな顔をした。
吠えない犬を飼えばいいじゃん。
そう思うだろ、でも今度はうんちするとかエサ代がって言って、小学校のテストで100点しかとらないくらい頭が良くないとダメって言って……。
母の暴論を次から次へ、指折り挙げて不満を連ねると、和泉は自転車を押しながらその全てに怒ってくれた。
いいやつだ!
俺はすぐに和泉をすきになった。
「でも、家出って憧れるぜ」
ふと、俺でも知ってる和泉の家の近くの角を曲がった時、和泉の声は小さくなった。
「うち、商店街の中だろ。やっぱオレが歩いてると、ああ和泉さんところの、ってみんな知ってて、何にも悪いことなんかできねえんだ」
困ったように眉を下げて、それでもまっすぐ前を向いて、俺の隣を歩く和泉。
和泉のくちびるがすこし尖ったのを、俺は今でも忘れられない。あの時和泉が言いたかった感情の名前を、その時は俺を羨んでいるんだと思ったけど、そうじゃなかった。
大好きな家族のことを手放しで大好きだと言えないことが悔しかったんだと思う。和泉がそういうやつだって、今の俺は、あの頃よりずっと分かってる。
「別に悪いことがしたいわけじゃないけど、父さんも母さんもオレや弟より店が先だろ。家出なんかしたって……」
言葉を切った和泉が、俺のほうを振り向いてにっこりと笑った。
「だから家出ってかっけえと思う!ほんとすげえよ!」
その日、和泉の家で食べさせてもらったケーキは夢みたいに美味しくて、本当に魔法みたいだ、と俺はすっかり機嫌を良くした。
和泉んちの美人のお母さんと、やさしそうなお父さんが、晩御飯が食べられなくなると困るからこれはおみやげね、と持たせてくれたプリンは、妹のぶんも合わせて4つあって。母とのいつもの喧嘩もどうでもよくなって、まあ大人になって家に帰って晩メシを食べてやってもいいかな、と思ったのだった。
「和泉の父ちゃん母ちゃん、天才魔法使いだな」
「へへ、オレもケーキ作れるんだぜ!弟によくホットケーキも焼いてやってる」
「すげえじゃん!和泉も魔法使い?!」
「ふふん。でも、もっとすげえ魔法使いがいるんだぜ」
「すげえ魔法使い?」
口の周りにイチゴのソースをべたべたつけたままでたずねた俺に、和泉は自分のことみたいに胸を張って言った。
「ゼロ!知ってるだろ!」
「ゼロって……ちょっと前いたアイドルだろ?俺らが小一くらいのときいなくなった……」
「いなくなったけど!たぶん、ぜったい!戻ってくるし!すげえんだよゼロは!」
和泉がいかにゼロがすごいかを語ろうと鼻息を荒くしたところで、和泉のお父さんが和泉の頭を優しく撫でた。
「こら。お友達が困っていますよ。もう帰してあげなさい。お母さんが近くまで迎えに来てくれているそうですから」
「えっ、どうしてわかるんですか」
「魔法使いだからです」
ほほえんではぐらかす和泉のお父さんのせいで、俺は中学を卒業するまで向こう4年間、魔法使いの実在を密かに信じる羽目になったが、それは別の話。
たんに、隣のクラスのやつ、と俺を紹介されたご両親が、担任に電話を入れて親の番号を調べて電話してくれたと言うだけだった。でも、そこで家出がどうのこうのは言わず、うちのケーキをえらく気に入ってくれて引き止めてしまったので、とやわらかい口調で話して、母ちゃんの機嫌を悪くしないでくれたのは、どんな魔法よりよく効く魔法だった。
「でもさ、アイドルってすげえんだぜ。歌って踊って、人を笑顔にすんの!」
「ケーキもすごいじゃん」
「ケーキは食べた人しか嬉しくないだろ?アイドルは、もっといっぱいの人を元気にしちまうんだぜ!」
和泉は下の歯がすこし抜けた口をせわしなく動かして、アイドルがどんなにすごいかを目を輝かせながら語った。その話の半分もわからなかったけど、俺はいきいきと語る和泉から目を離せなかった。
「だから、オレ、将来アイドルになりたい!」
和泉がこう話を結んだ時、俺はなぜか、こいつの夢を保証してやりたい、応援してる気持ちを別の言葉で言いたい、すげえよもがんばれも軽すぎて見合わない、と思った。
そしてその気持ちは見事に空回り、俺は妙な約束を口にしてしまったのである。
「なら俺!将来犬飼えたら、和泉の好きなアイドルの名前つける!」
当然、和泉は一瞬、きょとんとした。
でも、その後すぐに笑って、よろしくな!と言ってくれた。
俺の夢が犬を飼うことで、その夢と和泉の夢が繋がったことを、嬉しく思ってくれたのか。
誇らしげな和泉に送り出されて、俺は母ちゃんに謝って家に帰った。
帰り道、やっぱり犬を飼いたい、と言った俺に、大きくなったらね、と約束した母は、そのあと16年も犬を飼いたい名前はゼロ、と言われ続けて、辟易していたみたいだけど。
そうしてようやく犬を迎えたのが、2月の終わりのこと。
3度目の散歩に出かけたとき、俺はこの河原で、奇跡の再会を果たしたのだ。
「あれ、嘘、和泉?なんで。アイドルは?」
「うわっ、久しぶり!」
感激して俺の名前を叫んだ和泉に、慌てて周りを見渡したのは俺の方だった。
「バカ、芸能人が大声出したら目立つだろ!帽子もっと深くかぶれよ!」
「いやこのへん地元だし、逆に恥ずかしいって……さっきも商店街で挨拶してきたし。今日はオフだから実家の仕込み手伝って、昼過ぎのピークまでちょっと散歩」
「え、まだ実家手伝ってんの?」
「オフの日にちょっとだけ。ありがたいことにオフもほとんどないけどな……なあ、その子。犬飼えたんだな」
和泉は俺との些細な約束を忘れていなかったらしい。
「なあ、名前、やっぱりゼロ?」
すぐさましゃがみこんで、服に土が着くのも厭わずになでくりなでくりうちの子の首をかいてやる和泉に、俺はにやりと笑ってやった。
「違う」
「あー、まあそうだよな、昔のことだし……」
「そうじゃなくて。名前、ブンにしたんだ。和泉の好きなアイドルの名前にするって言っただろ」
ようやく言ってやれる。
お前にずっと言いたかったんだ。
「アイドリッシュセブンからとって、ブン。おまえのグループ名、長すぎんだよ」
言いながら肩を軽くどつくと、和泉は運動神経がいい癖にちょっとよろけた。
よろけた拍子にずれた帽子の下に、和泉のくしゃりと笑った顔が見えて。
その目じりに光るものをみとめた俺は、鼻の奥がつんとするのを感じた。
「なあ、もっと撫でてやってよ。おまえがなったアイドルの名前つけたんだぜ」
「……バカ、そんな簡単に名前、決めちゃダメだろ……」
「約束したじゃん、忘れてねえよ」
「はは、おまえ、マジかよ……」
うひひ、と恥ずかしそうに笑いながら、和泉のくちびるがちょっと震える。
あの日尖っていたくちびるがいまやわらかく笑顔の形を作っていることに、俺はほっとした。
「あー、でもちょっと後悔するわ。あの日の約束。和泉、リアクション薄いんだもん」
「え?」
「俺の好きな魔法使いの名前にする、って言えばよかったなって。そしたらお前、もっと照れたかも」
俺が犬を抱き上げると、和泉もつられて立ち上がった。いま人気のアイドルたちの中ではいちだん低い身長の和泉は、けれどがっしりとたくましい体で、まっすぐに立つ。
あの日俺が見とれた、いきいきとした目に、燦然と太陽の光を受けて。
「お前、頑張っててすげえよ、応援してる。俺のいちばん好きなアイドルは、和泉三月だよ」
無事にケーキを受け取って、あの日まんまと河原でトップアイドルを泣かせてやった功績を思い返しながら、俺は家路に着いた。スマホのロック画面で、今日の日付を誇らしく見る。
3月3日。
おまえの誕生日なんだってな。
夜中に出てた配信動画見たら、おまえ変わってなくて。勝負事に熱くて意外と抜け目なくて、でも人のしてくれたことによく気づくから誰にでも愛されて、笑うとその場がぱっと華やぐ、そんなおまえのまんまで。
遠くに行っちまったみたいなおまえんちのバースデーケーキ、今日は予約で売り切れだってよ。ファンの子たちだろうな。
俺は先月からおばさんに約束してもらってたから、抜かりなくゲットできたケーキでブンと家族とお祝いです。ブンは女の子だから、ひな祭り、祝ってやりたいし。犬用ケーキも買ってある。
おまえに憧れることって簡単で、でもおまえみたいに憧れをつかもうとして走り出すことも、走り続けることも難しい。
本当に尊敬してるんだぜ。
だから犬飼いたいってしつこくしつこく言い続けて、今年ようやく飼えたってわけ。おまえのおかげだな。
おまえのそういうがんばる姿が、どっかで、人の人生変えてんだ。俺みたいに幸せな奴がお前のおかげで増えていく。
それって、すげーことじゃね?
来年も絶対祝うから!人気でいろよ。
心配ないんだろうけど。
すべてを晴らす太陽みたいなおまえを、俺たちは応援してるぜ!
Happy birthday to MITSUKI IZUMI