花火のあとは泳げない 

 

海だ、と、歓声を上げさせたかった。
自分がそんなふうに思っていたことに、凪いだ横顔を見て気づいた。日の未だ出ない八月の早朝の海に、淡く青みがかった色素の薄い髪がぼうっと浮かび上がるようで、目を奪われる。
壮五の隣に立つひとは、17歳のあどけない頬に潮風を受けながら、呟いた。
「きたねー」
ごみや煤のまばらに浮いた、青いとはお世辞にも言えない海は、確かに彼の言う通り、汚い。壮五たちの立つ砂浜にまで、打ち寄せてきている。何かの残骸が折り重なって、きのうの潮が寄せた跡をきれいになぞっている。
「そうだね、これじゃ泳げない」
君を喜ばせたくて連れてきたんだ、そんなふうに言わなくてもいいじゃないか、と、以前の壮五なら内心穏やかさを失ったかもしれない。
でも今は面白かった。環くんはこういう時まず口に出ちゃうんだな。僕は思っても言えない。
「何、笑ってんの」
壮五の口の端にのぼった微笑みに、環が目ざとく気づいた。壮五の相方は、人の心の動きに鈍いようでいて、実はこういうするどさも持ち合わせている。
相方、とは呼ぶけれど、環は、壮五にとって、どう言い表すことも出来ないような大切な相手だ。
「なんでもないよ。これは多分、昨日の花火の煤だね。山側だったし、ホテルからは見えなかった?」
「おー。花火ってこんな汚ねえの?」
「火薬だからね。打ち上げ花火の尺玉は、層構造になっていて、中心と二層目の割薬で一層目と表面の星を飛ばすんだ」
「しゃく……そー……星?なに、そーちゃん、星飛ばせんの」
「そうじゃないんだけど」
「花火の色もそーちゃんが決めれんの?」
「決めてるのは花火師さんだよ。金属化合物の炎色反応で色が決まるんだ。層になにを含むかの配分次第」
ふーん、と鼻から抜けるようなあいづちを打ちながら、もう興味を失っているのだろう、環は足元に流れ着いているわかめをつま先でつつき始めた。
と思えば、流れ着いていた長い枝を拾って、わかめを海へ戻している。
やや乾いていたわかめは、汚くとも己を生んだ海へ戻され、ふよふよと潤いを取り戻していった。
「あのへんの黒いのも、花火?」
「そうだろうね。そのうち砕けて流れるだろうけど」
「燃え尽きたら真っ白になんじゃねえの?」
「有機物が燃える時に酸素が足りないまま不完全燃焼して炭素が生じると黒くなるね。白く残る灰は無機質同士の酸化物で……」
「聞いてもわかんねーからいー。……こいつら、きれいだったかな」
「きっとね。ゆうべは盛り上がっていたみたいだから」
昨日、壮五が都内でのラジオの放送を終え、マネージャーとこちらで合流したとき、ドン、ドンという大きな音がしていた。
ここからは見えないんですが、今日は花火大会があるようで、帰るお客さんにもみくちゃにされないうちに到着なさってよかったです。マネージャーは困ったように微笑んで教えてくれた。
MEZZO”の君をつれて逃げちゃい隊、冠コーナーの収録は、タイトルのせいもあってか、海や川、花畑のような、人気のない名勝地の回の人気が高い。そのためか、月に一度は別番組の収録のついでに、やや人気のない場所へ収録に来ることがあった。今回も例に漏れず、環と一織の出演するミネラルウォーターのCMのロケ先での収録になった。
一織と環のCMは、暑さに環の集中力が切れることもしばしばで、難航したらしい。無事半日で撮影は終わったものの、環自身上手くいかないことに苛立って一織に叱られたと、壮五はマネージャーから聞いていた。東京へ日帰りした一織からは、四葉さんには翌日のためにも早く寝るよう言い含めました、とだけラビチャで聞いた。
あとから合流した壮五は、ホテルで不貞寝をしている環の姿しか見ていない。不貞寝であろうと一織の言いつけを守っている姿に、仕事をちゃんとやりたい、という環の意志を感じて嬉しかった。
だからこそ、元気が出ればと、翌朝早く目覚めてしまった環を海に連れてきたのだ。しかし環の様子は、元気が出ているようには見えない。
「花火、する?」
提案は、思いつきだった。壮五にしては珍しく、ふと思いついた途端に口をついて出ていた。まるで音楽への愛を口にする時のようになめらかに。壮五は環の隣では、何も考えなくていい。
何も考えなくていい場所は初めてで、初めはたくさんのことを考えた。今も考えなくてはいけないときは誰よりも環のためになるようたくさんのことを考える。
それでも、そうでない時間に、脊髄反射で会話するような、肩の力の抜けた関係は、居心地がよかった。
「いーの」
環は、壮五が望んだとおり、期待を抑えきれないような明るいトーンの声で問いかけてきた。
語尾は、いい、と言われることを分かって、しっぽを振ってでもいるかのような弾みぶりだった。たった三音の言葉にここまでの喜色を含ませることができるのに、演技はほかのメンバーほど上手くはないのだから、環は本当に素直な人間だ。
やっぱり僕と環くんとでは全く違うな。
「いいよ。まだ夜も明けきっていないし、日の出まで30分はあるだろうから。ホテルの下のコンビニで買ってこよう」
連れ立って、歩いて5分もない距離のホテルに戻る。
さすがに朝4時台では、ホテルの下のコンビニも開いていなかった。しかし、フロントに部屋に代金をつけて貰えないか交渉したところ、花火はあっさり手に入った。
朝早くに対応してくれたベルスタッフに丁重に礼を伝え、壮五は彼の名前を胸に刻んでフロントを出た。帰りの新幹線で彼への高い評価をホテル宛に投書しよう。そんな壮五の画策をよそに、環は受け取ったばかりの花火を嬉しげに掲げている。
海辺へ戻って花火を開封し、中をあらためたとき、壮五はすぐに自分の迂闊さに気づいた。
「これ、蝋燭がないね。マッチは12本入りだから、すぐなくなってしまうよ。蝋燭も……」
「べつによくね?続けてやりゃいいじゃん」
「続けて?」
「だから、こー、火ついてっとこにくっつけて、おすそ分けしてもらう」
「チェーンスモークみたいなものか」
「なんそれ、かっけえ。技名?」
「悪いタバコの吸い方だよ。火が消えないうちに次の煙草を押し付けて火を移すんだ。次々吸うから体に悪いんだけど」
「ふーん。チェーン花火」
「おすそ分けの方が可愛くて僕は好きだな」
花火の詰め合わせは開封してみれば2人には少し多いほどだった。四角い箱状の置き花火もふたつ入っている。
「見て。この置き花火、バタフライエフェクトって名前だ」
「ディアバタじゃん。ふふふーふふふーButterflyEffect」
「起こしてみよう」
「君と」
「ここで」
「いつか」
「願おう?」
「いつか」
「大きな未来を」
2人して持ち歌を口ずさんで、気づけば歌いながら微笑みあっていた。へへ、と気恥ずかしそうに環が右手の手持ち花火を振る。
観客はさびしい花火のごみ、拍手の代わりに響くのは潮騒。まだ薄暗い海辺には誰もいない。それでも、壮五と環は、互いから出てくる音の重なり合いだけで、満ち足りることが出来た。
「置き花火、最後にやる?」
「やる!濡れねーとこでとっといて!」
「わかった。まず半分くらい開けようか。花火の穂先は外すんだって」
「この紙?なんで?」
「どうしてだろう。導火線のようにして長く熱すると、奥の火薬が破裂してしまう危険があるのかな、分からないけど」
「こえー。そーちゃんみてーなやつだな。ぜってー外す」
「どういう意味」
五六本ずつ包装された手持ち花火を取り出して、穂先に花びら紙のあるものはちぎりとり、砂の混ざらないところに並べる。砂浜に手で穴を作って、水を入れたビニール袋を置いた。
「じゃあ、火をつけるね」
「おー。そーちゃん手、気つけろよ」
「うん」
壮五はホテルのマッチを1本折って外し、側薬にすりつける。ぼ、とオレンジに灯ったそれを、環が捧げ持つ花火に近づけた。
燃え移った火が花火の先をじわりと巡り、ジュッ、と焼ける音はすぐさま火花を散らすシャワーのような音に変わる。
「そーちゃん!早く!そーちゃんのも火つけんだろ」
「あ、うん!今……」
マッチを捨て、環の手の先から吹き出す花火を見ていた壮五は、慌てて花火を手に取った。
「ほら、向かいじゃなくて、横来て、あぶねーから」
環くんは、いつかこうして、例えば理ちゃんに、花火の火の移し方を教えたことがあるんだろうか。
環の手にした、紫の柄の花火から、壮五の持つ赤い柄の花火に、やがて火がまわる。
僕から陸くんへ。壮五には、思い出される景色があった。大雨のライブ会場で停電が起き、音響機器の復旧まで手拍子のなか環が一人踊って、壮五のソロに曲を繋いだライブだ。あれがきっかけで、MEZZO”は二人でデビューした。
あの日、大雨のライブ中継、僕らの始まりは停電の真っ暗闇の中だったけど、君が明るくしてくれて、繋がった。
君も僕も、望んだ通りの形ではなかったし、遠回りで衝突もしたけど。君が光を持っていたんだ。
「終わっちった。次スパークやろ」
環の花火の火が消えた。環は先の丸い花火を選んで壮五に近づく。
「ちょーだい」
「はい。どうぞ」
火を移すと、環の選んだスパーク花火が、緑がかった色の火花を散らし始めた。火を見つめて、環がヤマさん、と呟く。そのつぶやきに、壮五はなんだかがっかりしたような気持ちが自分の中に広がっていくのに気づいた。
君が選んだものの炎が紫なら。心の底に、そんな気持ちを自覚した。
「えんしょくはんのー」
また、環が呟く。火を見ているせいか、神妙な気持ちになってしまった壮五に、環は気づいていないようだった。
「そうだよ!炎色反応。よく覚えたね」
「はんのー?はこの前行ったとこ?」
「ひょっとして、ムーミンさんのこと?それは飯能だね、西武鉄道さんの沿線だよね」
話しながら、壮五は器用に新たな花火を2本とって、環に渡した。自分のものに火を移してから、環へ火を移す。シュワワ、と小気味いい音と共に光が溢れ出し、環が踊るように軽く花火を揺らした。
「……ライブ楽しかった」
「うん。ドームのライブは屋内とは空気が違うよね」
「なんか、肌、ひりひりした。わかんね。いつもかも」
「うん。いつもだけど、いつも違うよね」
「うん」
環も同じ気持ちなのかもしれない。浮ついたような、落ち着いたような、火を囲んでいるときの心のざわめき。薄暗い夜明けの海に潮騒はかすかで、自分たちの手元だけが明るい。世界に取り残されたような、二人きりで何もかもできてしまいそうな。
「あ、消えそー、早い」
「じゃあ環くんは次これだね」
「なげー。これ俺やっていーの」
「うん、たしか袋には七色花火だって書いてあった気がする」
「えっと……赤、オレンジ、黄色、緑、青?紫、ピンク……水色ねーじゃん!ひでー」
「持ち手が水色じゃない?君が僕らを繋いだって思えばいいんじゃないかな」
「一番ってこと?」
「そうそう」
色の違いなんて、物質が反射する光の違いにすぎないのに、誰かの顔が向こうに見えるだけで、急にその色が意味を帯びる。壮五の世界の色に名前がついていることを、壮五は、アイドリッシュセブンになって初めて意識した。青は青、黄色は黄色、水色は水色。そうとわかることがこんなに心を動かす日が来るなんて、その日が来たことがこんなにも嬉しいなんて、思いもしなかった。
環の花火は随分長くもち、壮五はその間にまた次の花火に火をもらった。貰いながら、ふと思い出して環を見上げる。
「そうだ、環くん、大事な話なんだけど」
「うわ!そーちゃんバカ、火こっち向けんな!」
「わ、ごめん!ぼうっとしてた」
「火持ったままぼーっとすんなよ。何?」
ようやく消えた花火を屈んで水につけながら、環が壮五を見ずに訊く。
「陸くんを花火に誘っちゃだめだよ」
「けむいから?」
「うん。花火に含まれる硫黄が加熱されて酸化すると、二酸化硫黄になるんだ。それが肺をひどく刺激して喘息を誘発するんだよ。煙そのものももちろん悪いけど、空気中に目に見えない浮遊物が残っていることもあるから、花火大会をしてすぐの場所に陸くんは連れ出さない方がいい」
壮五の長い説明の間、環は口を挟まなかった。話を、きっと半分も分からないのだろうけど真剣に聞いて、花火に火も移さずに一生懸命に頷く。
「わかった。わかんねーけど、りっくんは守る」
「うん、そうして。君のそういうところは信頼してる」
「おー。信じろよ」
「うん。僕は君を愛してる」
嬉しくなって、壮五はごく自然に、環への思いを言葉にした。そこには言葉以上の意味はない。愛している、という言葉以外に壮五は環への暖かな感情の表し方を知らなかった。
突拍子もない壮五の言葉に、さすがの環も、顎をしゃくって眉をしかめる。
「……はあ?」
「あ、ごめんね。変な意味じゃないよ」
「変な意味じゃねーの?」
「うん。あ、火、つけようか」
「うん」
壮五はマッチをすって、環の花火に火をつけてやる。環から火を貰いながら、話を続けた。
「変な意味だったら困るだろう。ゲイ、相方に恋、あわや解散。スキャンダルの三重奏だよ。ああ、同性愛は悪いことじゃないんだよ、ただ芸能人のそういう特性は色物として扱われやすいし、仕事の上で共演者さんとの関係に不利に働くこともあるから。僕にそういう気持ちがあるなら、君に言う前にまず小鳥遊事務所に相談しなくちゃ」
壮五の弁明は環の求める回答からはズレているようで、環はますます顎を上げて壮五の発言に難色を示した。
「別に俺、そーちゃんが俺を好きでも解散しねー」
「そんなふうに言って貰えると嬉しいな」
「本気で聞いてねーだろ」
「聞いてるよ。ありがとう」
「じゃなくて」
環がなにか言おうと口を開いて、何も言えないまま、黙った。火を手にしたまま立ち尽くす、その勢いがまるで叫び出そうとする獅子の絵画のように猛々しく静謐で、壮五の胸に何かが疼いた。
「……曲出来そう」
「は?今?」
「今だよ!今だから。環くん、花火持っててくれる?」
「え?スマホ部屋置いてきたっつってたじゃん」
「君が急に早起きして出ていくから、慌てていたんだよ。……じゃあ、歌うから、聞いて、覚えて」
「マジ?間違えそう」
「間違えたっていいよ、君が選んだものなら、きっといいものになる」
「……歌って」
「うん」
ジッと、壮五の花火が先に消えた。壮五は内緒話をするように、環の耳に唇をちかづける。
伸びやかな音の繋がりのなかで、環の手の花火も、やがてその火を失った。
暗闇に壮五の歌声だけが音を響かせる。
波音のような穏やかさの主旋律。でもきっと花火の燃え上がるような鮮烈な音を載せるつもりなのだろうと、環にもわかった。
壮五の歌が終わると、静寂が訪れる。
涼しい朝の空気のなかで、耳に残る吐息の熱。寄せる波の音が引いたとき、環は居てもたってもいられず、叫んだ。
「わーーー!」
「うわ、何?!急に大声……」
「泳ぐ!」
「え?!こんな……さっき君が汚いって言った海だろ!汚れるよ!」
「洗えばいーじゃん!俺は泳ぐからな!」
「待っ……洗濯が大変になるから!せめて脱いで……」
「ん!」
環は、脱いだTシャツを壮五に押し付けて、ハーフパンツは履いたまま、ざぶざぶと海の中へ入っていってしまった。両腕に載せられたTシャツと、環の背中とを何度か見比べながら、壮五は思考をめぐらす。コンビニに下着は売っていると思うけど、今日着る服はあるのかな。僕の予備の服じゃ腰周りが窮屈だろうし、マネージャーに頼んで……。
「つめてー!無理!無理!」
いつものように、環のフォローのために回り始めた壮五の思考が、環の叫び声に、止まる。
「無理って言いながら進むんだね」
「さみー!きもちー!」
「どっちなの」
相槌のように呟きながら、壮五は胸が熱くなるのを感じた。やんだばかりの音楽がまた、壮五の胸をふるわせる。
浅い所にばっと屈んだかと思えば、不平を漏らしていた環はあっさり向こうへ泳ぎ始めた。
服がなくても、べつにいいか。
「僕も行っていい?」
小さく呟く。
「そーちゃんも来いよ!」
聞こえるはずもないのに、環が大声で壮五を呼んだ。向こうで大きく手を振る環の姿だけが、白み始めた空の下、夢のようにはっきりと見える。
面白くなって、壮五は服を脱いだ。
花火のビニールを広げて置いた環の大きなTシャツの隣に、自分のシャツも畳んで置く。靴下まで脱いで裸足になると、踏みしめた冷たい砂が体をむしばみそうに思えて、少し不安になった。外で裸足になることなんて滅多にない。心細さが、弾んでいた胸をしぼませる。
「そーちゃん」
立ち尽くしていると、壮五の隣に、いつの間にか環が戻ってきていた。
「もう泳がないの?」
「泳ぐ!もたもた服畳むなよ。行くぞ!」
誘いに来たくせに背を向けて海に歩いていく環を追って、壮五も裸足で浜辺を歩き出した。小石や貝殻が足の裏にざらついて、また壮五の心が音楽を求めて疼く。
「冷た」
「だろ」
波に足を下ろした壮五の呟きに、環がなぜかとくいげに笑う。少し先で、膝まで海につけながら、引き締まった半裸の体を惜しげも無くさらして。
育った体に、堂々としたたたずまい、年齢相応の笑顔。彼のアンバランスな素直さが、このまま曲に出来たらいいのに。
少し大きな波が来て、壮五の足もとの砂が攫われていく。足の裏がくすぐったくて片足をあげると、思わぬ深さにつま先が沈んでつんのめり、壮五は転んでしまった。
手を着いた先も当然海。壮五は、顔面から海に突っ込んでしまう。
「わっ!ぷ!げほげほ」
「わはは!そーちゃん大胆!」
「笑い事じゃない……」
「ん」
「ありがとう」
環に差し伸べられた手をつかんで壮五が顔を上げると、海の向こうから、強い光がさしてきた。
「……明るい」
「はは。朝じゃん」
環も同じ方を見ているのが、声でわかった。
「朝……だね」
空はもう明るい。
太陽の光を吸い上げて、壮五の目にやわらかな青さを届ける。早朝の空は、青というより水色に、穏やかに色づいていた。
漁に出る小舟だろうか、一艘の船影が港の方から近づいてくる。
その船が朝日を連れてきたみたいだった。
たくさんのものを載せることはできないのに、それでも誰かのために船を漕ぎ、釣り糸を垂らし、巻き上げ、つやつやと光る魚を釣り上げる舟。そのためだけの舟。
たくさんのものを載せなくてはと、載せる誰かの顔も知らずに、ただ船ばかり大きくしようとしていたかつての自分を、壮五は思った。
出来上がったのは、見た目は豪華でも、中身のない船だった。きっと海に浮かべれば進むだろう、なんの苦もなく目指すとおりの進路を辿るだろう、そうなるように作りあげてきた。
でも壮五には、立派な船なんていらなかった。
ただ音楽があればよかった。
彼の背に、あるいは彼の手に、自分の手が載っていること。
今、この瞬間が答えだった。
「そーちゃん、顔!」
「え、何?」
いつの間にか環に引き起こされ、壮五は立ち上がっていた。環の手が壮五の手を離れて、壮五の頬を掴む。
「花火のやつ!鼻、真っ黒なってんよ」
「ええ!嘘……取れた?」
ごしごしと乱暴に手のひらで鼻梁を拭われ、顔を顰めながら問えば、手を離した環が吹き出す。
「ぶふっ」
「ちょっと!取れてないならそう言ってくれ!」
「あはは!そんくらいのがあんた、あいきょー?あっていんじゃね」
「茶化してるだろ。もう……」
「いやいや。あれじゃん、赤ずきん」
「シンデレラだろう、灰かぶり姫は」
結局沖まで泳ぐことはなく、壮五は膝から下をぐっしょり濡らしただけで、浜辺へ戻った。海から上がると、環は朝日のなかでさっき遊んだ花火の残骸をみとめ、自分からその片付けを始めた。無造作に浜辺の穴からつきだした花火の柄は色とりどり。めいめいの方を向いて、それでも同じ水のなかにその灰を溶け合わせていた。
「花火、きれーだった」
「うん」
「泳いだのたのしかった」
「僕もだよ」
「曲まで作ったもんな」
「早くデータに起こしたいよ」
ビニール袋の水を捨て、ごみをまとめると、二人で服と靴を抱えて水道を探す。壮五が洗い場で足を洗って靴を履く間に、環は濡れたハーフパンツを脱いで絞っていた。その正面の塀には、余った花火が行儀よく並べられている。
衣服や靴を身につけ終えて、壮五はごみを、環は花火をそれぞれに持った。環の手の中に収まった花火の中には、後でやろうと言っていた置き花火もある。
「余っちゃったね」
歩き出しながら、壮五は環に声をかけた。
「ナギっちにあげる。みやげ」
「花火が?湿気ないように持って帰らなくちゃね」
「ディアバタの花火は、ふたりでやろ」
「うん。新宿区内は花火禁止だったかな。中野にでも行こうか」
「おー」
気のないようで、しかし乗り気なのだろう返事に微笑んで、ふと壮五が足を止める。
「こんなにびしょびしょで、ホテルに入れて貰えるかな」
「いけんだろ。客だし」
「うーん。MEZZO”が泊まりに来たホテルは汚される、みたいな評判が立ったら困るだろう」
「したら、あとでぴかぴかにすりゃいーじゃん。そーちゃん、掃除好きだろ」
「君もやる?」
「……雑巾かけんのは得意」
「足でやっちゃダメだよ、ちゃんと綺麗にならないから」
「えー、変わんねえよ」
「変わるよ」
「分かったって……帰ろ」
「うん」
環が先に歩き始め、壮五も大股に追いついて、並んで歩き出す。
何も考えなくていい環の隣は、五線譜の上を歩くみたいだ。次々に火を移したり、何かに心奪われてふと灯火を吹き消したり。濡れた服のままでホテルに入ったり、煤まみれの海で泳いだり。
できないことなんてない。何もかも捨てて深く沈んでも、あの手は必ず、いつも差し伸べられている。夜明けの水色の空の中で、壮五を支えた手のひらは。
なにか選びとらなくてはならないとき自分のことは選ばなくていいと言った、かれの手は。
「捨てないからね」
「は?捨てろよ」
思わずまろび出た壮五の言葉に、環が訝しげにつっこむ。壮五の手にはごみ、当然の反応であることに壮五も気づきながら、あえて、環の疑問に答えず、続けた。
「捨てられないなあって」
「そーちゃん、そんなに花火気に入ったん?新しいやつ、ちょっとあげる?」
「そうじゃないけど……記念に一本もらおうかな?」
「んー、どれ?袋から出しちゃったやつにして」
環が差し出した花火には、黒や赤、青、さまざまな色のものがあった。
壮五は迷わず、水色のものを選んだ。
「……へへ」
環が嬉しげに頬を緩ませる。壮五の表情に気づいたのか、自慢げな口調で付け加えた。
「そーちゃんが選ぶのはこれだろ、って思ってたし」
「逆だったら、君も紫のを選ぶ?」
「……俺が今日最初にやったやつ。紫だったし」
「え。そうだった?着火に必死で見ていなかったな」
「見てろよ」
「君のことは見てたんだけど。次からは花火も見るよ」
壮五が真剣に告げると、環は変な顔をした。言いたいことがあるような、言いたいことが見つからないような、途方に暮れた顔。
「……そーゆーとこだって。ギアどこだよほんと」
「どういうこと?」
「別に!」
環がすこし早足になり、メッゾフォルテだ、と呟くと、また、そういうとこ!と叫ばれる。
大人びた手をして、隣にいると約束してくれるのに、イヤイヤ期の子供みたいな反応をする。そんな環の色をした花火を握りしめて、壮五も歩調を早めた。

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