there was

神は言った、光あれと。

日本語の吹き替えの声が、しらじらしく、聖書の詩句を繰り返す。恐ろしいことなんて何もない輝かしい未来を望む誰かが、その言葉に涙して、何度も頷いた。
暗がりの部屋に一人、電子の明かりを頬に受け止め、テレビを消す。単調な映画の、胡散臭いカタカナの「オウケイ」が、母音を引きちぎられるように、途中で途切れた。溜息にもならないあわい空気の塊が、細く鼻腔を抜けていく。
信じてもいないことを信じているように、その国で生きた訳でもない他人が作り物の人生を着て、物語る。声にあるべき尖りも温もりも空想で、その箱の中では偽りこそが真実だった。
うまく隠して、騙して、唯一の宝みたいに写真を撮って、罪滅ぼしのプレゼントを積み上げて。演じるという偽りのすべに長けた人間が取り繕った地面を踏み荒らして、少年はある日、その先に待つ人へ手を伸ばすことをやめた。
世界中を騙し、驚かせる、日本が誇る名優。そんなものを望んではいなかった。ただ、自分を愛する父親、母親、自分が愛する家族、少年の信じていた光が変わらず少年の道のりを照らしてくれていればよかったのに。
少年と母を誰より愛しているはずだったその人は、少年の知らない女性と、理想の夫婦、を偽っていた。
欺瞞の道に反吐を吐く。なすすべもなく立ち止まって、その先に立つ、愛していた父の、自分を騙していた男の背中を、何よりも憎む。
立ち止まってみれば、足元の揺らぐよりどころのない不安も、とりとめのない逃避の空想も、ぶち壊して泣き出してしまいたい感情を渦巻かせる檻でしか無かった。その中に閉じこもっていれば、こわいものなんてなにもない。そこには誰も入っては来れないのだから。一人で自分の感情をただ見つめ続けることだけが、少年に許された唯一の真実だった。

きっとあの人だってあなたに嘘をつきたいわけじゃなかった。
あの人はあなたを愛しているから言えなかったの。

自分を主人公に脚本を書くなら、投げかけられるべき言葉は、こんなところだろうか?
言われなくたって。
言われたくない。
お前が何を知ってる。
その時ばかりの慰めなんて、なんの意味もなさない。
言われたくも無い言葉をいつか言われるくらいなら、はじめから、何かを期待なんてしないほうがましだ。
欲しいものなんかはじめから無い。成したいことなんて思いつかない。ただふつうに就職してふつうに生きて、そういう、誰かに採点される必要のない人生を、安穏とやり過ごして。その先に何かあるかなんて考えない。
少年は歩み出すことを放棄した。
もう、全てが面倒だった。
ありきたりな服でありきたりな靴音を響かせてありきたりな街を好んで歩いた。

『君の持つ力は本物だ。どうだい、僕のところで、それを試してみない?』

だから、どこかで聞いたような文句で誘ってきた糸目の男の言葉も、どうでもよかった。
試したら、答えが出てしまう。
そんなものどうでもいいと斜に構えて受け流している方が楽だ。
けれど、渡された白い名刺が、閉ざした扉を軽く叩いた。
歩みを止めて、男の名刺の肩書を、反芻する。
とうの昔にいらないと押しやったはずのものが、手を伸ばせば届くところに転がってきたとき。
手に取ってしまうのは、今でもそれが欲しいからなのか、それが欲しかったかつての自分を慰めるためなのか。

『あんた、芸能事務所の社長?』
『うん。君のような子が、まだどこの事務所にも所属していないなんて、驚いた。僕は人を見る目には自信があるよ』

立ち止まった少年は、いま、22歳。
このまま何のきっかけもなく、全てを諦めて過ごすには、先の人生は長い。
転機を望んでいたつもりもないのに、知らず、唇を舐める。
体が少し火照っていた。

『君は、勝負度胸もありそうだし、きっと舞台役者も映えるだろう。だけど、君には外見と釣り合わない索漠とした儚さがある。だから目を惹かれるんだね。モテるだろう』
『御託はいい。スカウトだよな?』
『そうだよ』
『俺を何に仕立てて見世物にしようってわけ』
『……アイドル、なんてどうかな。興味があるんじゃない、君なら。ちょうど、来月、男性アイドルグループのオーディションがあるんだ。君の他にも、声をかけている子はいるよ』

チラつかせた餌を、簡単には手に入らないと引っ込めてみるような小細工にも、特に心を動かされはしなかった。
ただ、最後に一度だけ、その機会にかけてやってもいいと思った。
無害で人のいい人間を装ってエントリーシートを書く、欲しい言葉を返してやる、そういうやり取りには、就職活動で熟れていた。だから、落ちるはずのないオーディションだった。
自分を騙して、偽りの家族愛ごっこをずっと押し付けていたあの男への、復讐の始まり。
閉ざした扉を開けて、大きな声で、あいつは嘘つきだと叫んでやろう。
その時にようやく、自分のしでかしたことの大きさに気づいて、悔やんで、打ちのめされろ。
俺が欲しかった、普通の幸せってやつを、勝手に持ち逃げしたあんたが、泣きながら俺に謝れ。
謝ったって許さない。
クソッタレでみじめな最悪の余生を送って、あんたは、最期まで俺を。

『あ、来た来た!』

暗澹とした思いを押し込めて、普通っぽく挨拶を告げたオーディションの会場には、6人の、同世代か自分より少し若い男が集まっていた。

『あんたが最年長か』
『君はグループ最年少?俺はいいけど、芸能界は礼儀に厳しいから……』

うそ寒く回る口で軽口を叩けば、楽しげな声が返ってきた。いきなり命じられたバスケにもなぜか本気になって駆け回る6人は、紛れもない”いい奴ら”で。
すぐに後悔した。
明らかに、温度が合わない。こんな場所、肌に合わないだろう。こいつらが心から願ってなりたがっているアイドルを、復習の道具にして弄んで、その先こいつらの人生はどうなる?
暗がりで1人、くだらない人生を意味もなく消費する、ただ生きているだけの生活を、この6人に強いていいのか。
だから、7人全員がアイドルになれるわけではないとわかった時、ほっとした。
抜けていい名目が立った。
これ以上ここにいて、誰かの人生を踏みにじるかもしれないなんて途方もない事実に怯えなくていい。
そう思って抜けようとしたのに、誰よりも本気でアイドルになりたいって身体中から信念を発しているような小さな男が、敵のはずの自分を率先して引き止めてきたから。
望まれて、閉じようとした扉を力ずくで引き戻されて。眩しい引力に、つい、自分も望まされてしまった。
ここに居たいと言える場所が欲しい。
……誰かに、居てよかったと、言われてみたい。

『よろしくな、リーダー!』

与えられた名前は、しっくりこなかった。
けれど、そこに確かな自分の帰る場所を作られることは、いやではなかった。後ろめたさの分を覆い隠してしまうほど、嬉しかった。
その名前に恥じない働きを求められることさえ、苦しくはなかった。

『見せてよ、リーダー』

月夜に、望みを告げてきた男。環になって重ねた手。七つの手のいちばん下で、手のひらの湿りを感じながら、柄にもなく、鼓舞するような言葉を投げかけたこともあった。
壮大すぎた夢は、いつしか、現実と陸続きの身近な目標になっていた。夢が、澱んだ願望のうねりを和がせて、ほんのひととき、その苦しみを忘れさせた。
大事な思い出なんてものが、かつての自分の決意とは不釣り合いに、自分の天秤の片側に降り積もっていく。
もう片側の皿に載せられた、生い立ちの重みは変わらないのに。傾ききった天秤を動かすことは出来ないまま、それでも後生大事に、譲りたくないものばかり増えていく。
天秤の傾きが変わらない理由は分かっていた。
誰かに無事を祈られるこそばゆさも。
誰かに、自分のなしたことを喜ばれる胸のあたたかさも。
誰かが、自分を待っている家があることも。
本当は初めからあったのだ。
見ない方が、居心地の悪い思いをしないですんだから、自分にはそんなもの与えられなかったといじけて拗ねてひねくれて、何も持たない取るに足りない人間のふりをして引きこもった。
檻の中にいれば、扉を叩かれないかぎり、扉をこじ開けられない限り、遠ざけていられた。
そんな自分に。
檻を出て、ライトの当たるセットの中へ踏み出せと。
望む6つの手があった。
その手に、同じ熱さを返してやりたくなった。

「教師役、二階堂大和さん、入られます!」

踏み出す靴音がやけに遠くて、体が自分のものでは無いと思ってしまうほどにぎこちなくて、呼吸が浅い。
眩しいその場所に踏み込んで、胸を張って立ち、カチンコの音が再び鳴るまで、体は誰かの心を降ろす借り物になる。
偽るのではなく、媒体になって、その人格に有り得る一つの答えを映し出していく。大和自身の持つ顔を、その魂に貸してやる。
演じることは、不思議と楽しかった。
あったはずの表情を引き出していくのは心地よかった。
どこかで誰かに培ってもらった豊かさは、体の中にたしかに残っていた。
それを耕した男は、嘘を知られたことの弁明もせず、ただ生活に足りるだけの金や暮らしを保証する無感動な関わりだけを与えてきた。ずっと前から話してもいない。
その男を振り向かせるための復讐だった。復讐のためにこの世界に来たはずだったのに。振り向いたのは自分の方だった。
6つの手に導かれ、少しずつ、温もりが思い出された。
この体の内にあった大地は、むなしい闇ばかりではない。望まれた光を宿して、そこに生きる命を照らせば、眠っていた命はにぎやかに動きだした。
闇夜を探っていた手は、いつの間にか泥に汚れていたけれど、その汚れを嬉しく思った。その手でなければ掴めなかった一本の細い糸が、いま、手の中につながっている。欲しかったものとは違う、けれど、今欲しいものに繋がっている、細い糸。
この糸を手繰った先よ。
光っていてくれ。
こいつらを照らしてくれ。光らせてくれ。
気づいてやってくれ。
その為の闇も泥も、俺が全部引き受けるから。
あの日、リーダーと呼ばれて良かったと。
二階堂大和として生まれたことを、いつか、誇れる日が来る。
踏み出して、頭を下げた。

「よろしくお願いします!」

多くの人々が汗を流して働くスタジオで、照明を頬に受け止めて。
あの人と同じスイッチを入れる。
役者、二階堂大和。
期待も不安も緊張も、全てを飼い慣らす、短い瞬きのあとで、大和は顔を上げる。
ここには居ない6人の手が、教室のセットのドアを引き開ける、大和の手に重なった。

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