【同人誌サンプル】libido
▪️libido
1 たぶん好き
ぐっと腹の底を押してやれば、あぁ、あ、と短く吐息する。その奥を穿っているものの存在の大きさを確かめて、その人が、つらそうにあえぐ。
もっとしたい。この人に、俺をわからせてやりたい。
ちっとも乱れない白皙の美貌も、歌うことしか頭にないみたいな涼しげな生き方も、綺麗な銀色の髪も、それなのに、守りたい大切なもののために汗だくになれる、無私の美しさも。気高くて愛に満ちた高潔な魂を。俺で汚して、堕として、抱きしめて、縋り付いて、それでもいいよって言って欲しい。
君が好きだと、囁かれたい──。
「っ、あ、……夢……」
熱を帯びた浮遊感が、2枚の映像がぴったりと重なるように、突如、鮮明に、失われる。覚醒に、嫌な予感を覚えて下腹をまさぐれば、ねっとりとねばつく感触があった。
「……最悪……」
淫らで享楽的なトリップの夢は、柔らかな体を貫く空想ではなく、薄くて硬い一枚の肉体を征服する、浅はかな願望の夢。
こんな夢を見た理由は、一つしかない。昨日、いや、昼に帰って泥のように寝たから、一昨日の出来事のせいだ。
苦戦した映画のクランクアップ。
その打ち上げ、確か三次会まであった長い飲み会の帰り。焼き鳥屋をいい加減終わりだよと追い出され、まだ飲み足りないだろ、と珍しく肩を組んで絡んできた、年上の男。もう深夜もいいところで、夜は明けそうになっていた。
誘われるまま家に上がって、しゃがみ込んでスリッパを用意する背中を見ていて──白いニットの背中をさらりとすべる銀の糸を受け止めたくて手を伸ばし、というかその時にはもう酔いが回っていて──何でもいいからその人の肉体に触れたいという気持ちもあって。
足がもつれて転んだ。
その人の家の玄関先で、俺の腕の下で。べしゃりと力なく潰れる肢体を前にして──箍がはずれた。その家に足を踏み入れたときに、もう、そんなものはなくしていたのかもしれないけど。
何を言ったのかはよく覚えていない。熱い吐息をその顔に吐きつけたくてそうした。好きだと言ったような気もするし、ヤリたいだったような気もする。そのどちらもかもしれない。
いずれにせよ、最悪な相手に、最悪な口説き文句を吐いて、最悪な酩酊状態のまま、俺はその人の体に触れられなかった。
襲えばいいよ。できない?
その人の囁きだけがくっきりと耳の奥に残っている。問いかけに、理性が倍回しで巻き戻されて、や、何言ってんすか、冗談です、ハハ、帰ります、たどたどしく告げると、その人が俺のシャツの裾を引いた。
悪いんだけど、トイレ連れてってくれる?
真っ白い顔をさらに白くしたその人の頼みに、帰るという選択肢は塗りつぶされてしまう。せっかく起こした体を、その人の上に折り、抱き起こす。腕にその重みを受け止めて、馬鹿みたいに心臓が打った。
狭い個室の壁にもたれて、ため息をつく。
できないですよ、あんたが俺の逃げ道を奪うから、俺はずっと進むしかないんだ。頭の中で叩きつけたはずの恨み言は、唇を飛び出していたようで、その人は美しい顔で便器を抱きながら、笑った。
君も僕の逃げ道を塞いでるんだよ。
白い背中に触れてさすり下ろすと、ニットの柔らかな手触りの下に、薄い骨と、熱い肉体。
脚を閉じていないとバレてしまいそうで、必死に膝を閉じて座った。その人の嗚咽に、苦しむ息遣いに抱いた欲望を、悟られたくない。俺の手の動きに合わせて膨らんでは萎む背中に、どんなに気持ちが掻き乱されるかなんて。
離していいから、君も少し休んでおいでと、その人がつぶやいても。手を離すことも、立ち上がることもできなかった。
玄関の自動灯が消える。あかりもつけない、薄暗いトイレに、2人きり、膝を折って収まっていた。
ずっとこの時間が続けばいいのにと、唇が勝手につぶやく。
答えはなかった。
代わりに、白く細い指が、何か探すように床を這った。
探し当てられた俺の手が、その指に絡め取られる。
冷たい指先に、熱い手のひら。かさついた、手は、ギターの首を掴むように、緩く閉じて、俺の指先を閉じ込める。
背中から抱きついて、その内臓の帯びた温もりを知りたい。願いが、叶ってしまうまで。多分、数分もなかったと思う。
……どっちが介抱しているんだか分からない妙な時間のせいで、千さんに問い詰められてしまった。
映画、楽しかった? 僕との共演、良かったでしょう。黄色い薔薇が似合ってた。
──そのすべてに、はい、と応じて、誘導に身を任せるのは、心地よかった。
僕は川なんだって。君もそう思う? 君は僕が思っているより、僕のこと、好きなんだよね。
行き着いた果てですら、はい、と流れに身を任せた。その先で、崖下に叩き落とされ、滝壺に溺れることが分かっていながら。
千さんは、すごく嬉しそうな顔をした。
この顔が見たくて、俺、頑張ったんです、と、嘘だか本当だか俺にも分からないことを言った。千さんの、そう、という囁きは、やけに耳の近くで聞こえた。
抱き合ってキスしてほしいと思う距離に、千さんの体がある。
してほしい、と唇に乗せる前に、唇が、柔い感触に塞がれる。
僕も楽しかったし、君を見てると、何か浮き立つ。
しよっか。
誘う指は、俺の足の間に触れていて。いつのまにか広げてしまっていた膝の間に、多分、俺の本音を見透かされた。
死ぬほど、死にたいほど酔っているのに、千さんの指先ひとつで反応してしまう、試験紙みたいに素直な体を、その人はやたらと丁寧に、慈しむように撫でてくれた──。
「し、死にたい」
「どうしたんだよ、大和さん。環が怖がるぞ。昨夜、大和さんが起きてこないって、心配してたんだぜ」
顔を覆ってソファに腰を下ろすと、キッチンから、呆れた声がとんできた。無遠慮な明るい声に、寮にいることを実感する。あの男の家ではない、安心できる場所。俺が今しがた、最低な理由で下着を変えてきたことなんて、知る由もない奴の声。
「や……打ち上げで……醜態を」
「マジ? 誰に何やったんだよ」
打ち上げの帰りに、千さんちで、抜いてもらった。
……言えるわけがない。
「……千さんに……言えないようなことを……」
「……あー……。大丈夫、千さん優しいから、許してくれるって」
言えないようなこと、で何を想像したのか、ミツの声が曇る。
「酔い醒めたなら、ラビチャで謝っとけよ」
「……スマホ見たくない……」
ローテーブルに置いた、画面を上にしたスマホが、今は先送りを咎めるミツの姿に見える。
慰めるように、ミツは黙り込んだ。キッチンから感じる、微かな軽蔑が、かえってありがたい。
俺が千さんに強く出てはかわされていることを知っているからか、ついこの前世話になったばっかの相手に、と呆れているのか……リビングに、調理の手際いい音が響く。
じゅうじゅうと、魚に火を通す心地いい音。そういえば、昨日の朝、帰ってすぐに現実を見たくて冷蔵庫を覗き込んだら、脂の乗った銀鮭が買い込んであった。それをよそに缶ビールを手に取って、無くしたい記憶を押し流すように無理に飲んで……。朝っぱらからリーダーはさんざん乱れてご帰還しましたなんて、とんでもなく重い罪悪感に苛まれながら寝たんだった。
残念ながら、記憶は飛ばず、ばっちりといかがわしい夢を見て起床。順繰りに思い返して、また気が重くなる。
……謝らなくちゃいけない相手が多すぎる。あの人には、ちょっと通行人の手を噛んでみた、くらいの、ささいな出来事なんだろうけど。
「あー!」
「はいはい。大和さん、味噌汁は?」
「飲みたい……けどいらない……」
「飲んどけって。せっかく2連休なのに、昨日は酒しか胃に入れてねえんじゃねえの。あったかいもん食ったら、いやなことでもやる気出るから。つーか出せ」
「う……はい。いやでも、多分ミツとかメンバーには迷惑かかんない……俺が千さんに遊ばれたみたいな……やつだと……」
「だから、あんたのこと気にかけてくれてるんだろ? 千さんにあんだけ世話になっといて、お礼言ったのかよ」
「お礼言ったっつうか、もっと詫びなきゃいけないことが増えたっつうか、最悪っつうか……」
ごねてくだを巻くと、裁判官が槌を打つように、とん、と目の前にお盆が置かれた。ローテーブルの上で湯気を立てる、シャケと味噌汁と漬物と米、おそらく出汁が入っているだろうポット。
「じゃ、オレにもお礼よろしく。今日の晩飯作っといて」
「あ、仕事行くのね。お疲れさん……」
「オレはあんたみたいに酒に溺れてねえからなー。一織と環が、キッチンに置きっぱの空き缶見て、ひそひそ言ってたぜ」
「はい……ありがとう……」
あどけないメンバーたちの名前を出してチクチク刺され、居た堪れない気持ちで、食事の礼を言う。ミツは仕方なさそうに眉を下げ、リビングを出て行った。
少し前に殴られた左頬が、鈍く痛む。
千さんとヤッた、正確には抜いてもらった、手だけじゃなくて……なんて言ったら、また殴られっかな……。
手を合わせて、鮭をほぐして米に乗せた。わさびや揚げ玉、海苔まで用意してある小鉢に、ここまでしてやったんだから謝れよ、という、あのちびっこの無言の圧を感じる。
「……はー……うま……」
ため息と共に流し込んだお茶漬けが、空っぽの胃に染みていく。味噌汁には、オクラやとろろが入っていた。ねばつく無数の種に、昨夜の行為を思い出す。薄い手のひらに先端を捏ねられて、情けなく手の中に吐精した、あの手をその人は、あのあと、どうしたんだったか。
意を決して、スマホを表に返してみる。
画面を点ければ、ラビチャの通知が数件。
その中に、あの人の名前。
「うわー……」
送られてきていたメッセージは5文字。
週末来る?
「愛人に送るんじゃねえんだぞ……」
呟くと、打ち上げの集合前にあの人が送ってきていた、やたらファンシーなうさぎのスタンプと目が合う。ピンクの目をした黒いウサギを、誰を思って買ったのか、すぐに想像はついた。
「いや、……愛人なのか……」
指を滑らせて打ち込んだ、すんません。行きません。を、気持ちが鈍る前に送信する。
既読がつくのも、つかないのも見たくなくて、電源を切った。
「晩飯……。タマに、ラーメンでも作ってやるか……」
尻ポケットにスマホを押し込んで、立ち上がる。
食べ切った器の底に、飲みきれなかった味噌汁の澱が、微かに溜まっていた。