【同人誌サンプル】libido

2 いちばんあかい実

その視線に見つめられることも、見つめられないことも、胸をざわつかせていたと知ったら、君はどんな顔をするんだろう。
終電が終わっても帰らないんだ、とか、誘えばうちに来てくれるんだ、とか。些細なことに少しだけ心が浮ついていたと知ったら。
足がもつれて転んだ君が、僕を腕の下に閉じ込めて、してほしい、と呟いて。けれど僕に触れることはできずに、酒臭い息を人の顔に吐くだけ吐きつけて、黙り込んだとき。僕がひそかに緊張したのを、君は知らないだろう。
それよりもずっと前に、君の演技をテレビで目にして、やっぱりこの子はこっち側だと、愛おしくて狂おしい気持ちになったことすらも。
べつに、して欲しい、と言われた内容を、察してあげても良かったんだけど。
君の目が僕を見ればいいと思って、何か適当に誘ってみたら、帰られそうになった。具合が悪いふりをして引き止めるなんて、君にはできないだろう。大人ってずるいんだよと、知ったら、君は失望するんだろうか。そんな顔も少しは見てみたいけど。
「……まずかったかな」
呟くと、丸い頭に色素の薄い桜色の髪を跳ねさせた男の子は、生意気にも、聞こえなかったふりをした。
「ねえ、天くん」
呼びかけると、困ったようなため息。
「何がまずかったんですか」
「好きな子を家に呼んだんだけど、行きませんって断られた」
「ちょっ……」
千の発言に、天は楽屋のドアへ視線を走らせる。……脚本のト書きにありそうな鋭い動きは、少し、似ていた。
「構わないよ。誰に聞かれても、今更困らないし。人の目がある分、下手な居酒屋よりも安全じゃない?」
「……その、その方も、同じように、千さんの立場を気にしたのでは?」
「意外と殊勝だよね。あんなに、あんたなんか図々しく貪り食って生きてやる、みたいな口ぶりのくせに」
「知りませんが……大きなことを言うのは、不安を見透かされないためかもしれません。できないかもと怯えることでも、口に出せば、少しだけ近づく気がします」
「天くんはそうなんだ」
「ボクのことはいいです。千さんは、……あまり言わないですか?」
「そうね。なんて……言ったらいいのか、考えても分からない。それで随分、モモに苦労させていたけど」
「そう簡単にはできないですよ。ずっと生きてきたやり方を変えるなんて」
「優しいね」
「一般論です」
そう言いながら、彼はこちらの言葉を待った。優しい子だと、心から思う。
「天くんは、陸くんを家に呼ぶとして、どう誘う?」
「そんなこと、あり得ませんけど……」
「あ、陸くん。お疲れ様」
「っ、……居ないじゃないですか」
「陸くんなら、呼べば喜んで来ちゃうから、呼ばずに来てもらう方がいいのかな」
「何の話ですか……。ともかく、ボクなら、人を家に呼ぶ前に、まずは相手の都合を訊きます。あるいは、何か相手が興味を持ちそうなものを提示して、今ボクはこれが気になっているんだけど、一緒にしないか、と誘います」
「へえ」
「千さんも、百さんを食事に誘うとき、百さんの好きなものを準備するでしょう? 誘われる相手も、千さんがそれを準備することが嫌じゃないと分かった方が、気兼ねなく誘いに乗れると思いますよ」
「好きなもの……」
気になっているものを用意しようにも、その気になっている当人が、ラビチャ、既読スルーなんだよね。僕の体には興味ありそうなんだけど、潔癖だから、嫌がりそう。おっさんくさいとか言われそう。
……こういうの、未成年の子に言うと、まずいんだっけ。
「なるほどね。ありがとう。知っていそうな子に聞いてみる」
「いえ。……ふふ、前にも、百さんが、千さんの喜ぶプレゼントを知りたがって、ボクたち全員に連絡をくれたのを思い出しました」
「似たもの夫婦でしょ」
「そうみたいです」
透き通るような声で、彼が笑う。彼もまた、欲しいものを欲しいと言わないと、前にモモが言っていた気がする。これを欲しがるべきかどうかが、欲しい気持ちの前に立ち塞がって、諦めて手を離すのが上手い子だと。本当は、ずっと、ひび割れた地面が空に雲を探すように、自分に恵みが巡ってくるよう焦がれているのに。
「僕の好きな子は、ちょっと天くんに似てるんだよね」
「そうなんですか?」
「うん。どことなくね。本人に言ったら驚くかも。よろこぶかな、君を尊敬しているみたいだし」
彼を思い浮かべて言うと、その子はへんな顔をした。腑に落ちない、警戒、そういう表情に近い。
「……ちなみに、その……背格好が、ではないですよね? 外見……髪型とか」
「似てないよ」
「……そうですか」
天くんが何を心配したのか、なんとなく想像して微笑むと、バツが悪そうに天くんの唇が尖る。心を許すと顔に出やすい。やっぱり、似ている。
「僕は、大事なものをうまく大事にできない」
組んだ足が少し痺れて、足を組み替える。
「気づいたら、傷つけているから、喋らないようにしようかとも思うんだけど。言わなきゃ伝わらないし」
膝の上で指を絡めた。
「欲しいなと思ったから、欲しいって言ってみようかな」
「……よく喋りますね。今日は、眠くないんですか」
「うん。いい気分かも。天くんの欲しいものも、手に入るといいね」
「いい気分って……まあ、ボクも、千さんのいい気分が、続くように願ってます」
「ありがとう」
いい気分、と言って、そうか、あの日大和くんはお酒を飲んでうちに来た、と思い出す。料理で誘ってみよう。
料理がしたい気分。空いている日は?
既読はまだつかなかった。
恋をするとこんな気分だなんて歌うシンガーに、ありったけチップを投げてやりたい。
楽しい。
多分、僕の抱く「好きな子」への気持ちは、「好きな子」から僕への気持ちとは釣り合わないだろうし、違うだろう。全く同じものなんて抱きようもない。
ただ、興味を持って、そばにいてみたくて、どんな顔で何て言うのか、彼は僕を好きなのか、期待している。
わくわくする。連絡を待っている間も。
また既読スルーだったら、楽屋に押し掛ければいいか。

*

何が食べたいか訊かれることさえ、品定めされているみたいで、腹の底が重くなる。その、何を考えているんだか分からない視線が、ちらりと俺の口元を見て、それからふいと逸らされたとき、何かの試験に落ちたのかもと、喉の奥がひゅっと締まった。
同じもので、と、たった六文字告げただけで、どうしようもなく怖くなる。俺は今、何を踏み外したんだろう。
「僕がこういう食事だからって、君まで食べなくてもいいよ。好きなものを選んだらいい」
「……すいません」
「謝るようなことでもないけどね。……何か飲む?」
「あ、や、今日は、素面で……」
「僕は飲もうかな」
「……じゃあ、俺もいただきます……」
あの晩は、すいませんでしたと、言うべきなのか。わざとらしさがないことがかえってわざとらしいくらい、清潔な、草の匂いのする部屋は、そういう不貞を蒸し返すには、眩しすぎる。
……言いたくない。言って、壊したくない。
いっそ忘れていて欲しい……。
勧められるまま、椅子に座ると、目の前にグラスがふたつ置かれる。
「あっ、やります」
「うん。よろしく」
千さんの手から受け取ったワインの瓶の首に、かすかに、千さんの手の熱が残っていた。赤く濁った液体の温度に、千さんの体温が、じわじわと溶かされていく。冷えてしまう前に、両手で掴んだ。
「千さん、コルク抜き……」
他にすがるものもなく、ワインの瓶を掴んだままで、千さんを見る。千さんは、俺の手元を見つめたまま、何か考え込んでいた。頬の下に指の背をあて、その指先が、千さん自身の首すじをなぞる。
白い、ハイネックのニットと、千さんの白い肌の間に、細い指が潜り込んだ。かすかな衣擦れの音。いま僕は、あの晩と同じ服を着ているよ。そう言われている気になる。
「……なんですか」
「僕、君に言うことを聞かせてるのかな」
「え? ……やっ、別に……いやいやここに来たわけでも……ないですけど」
「そう。なら、何か作るよ、肉料理。味付け、薄いのが好きなんだっけ。赤ワインならお肉だよね」
「……食べないくせに。無理して作ってくんなくていいですよ」
キッチンへ戻っていく背中にかける声が、卑屈にならないように気をつけた。この家で肉料理を振る舞うなんて、あんたがそれをしたい相手は、他にいるだろ。俺はふさわしくない。前にこの家に来た時は、野菜ばっかり食わせたくせに。それは、あんたの中に入ってくんなって、拒絶だったんじゃないのかよ……。
手のひらの中で、ワインの瓶が、俺の体温をうばっていく。
冷たかった体が俺の手でぬるまっていく。
千さんは、ヘアゴムをくわえて髪を束ね、冷蔵庫を開けた。
「冷蔵庫に、食べない食材をいつまでも置いておくのって、煩わしいよね」
冷たそうな手が、赤くいろづいた肉をのせた、バットを掴む。もう何かの下拵えがされているのが見て取れた。
「見るたびに思い出しちゃうかも。今夜、君に振られたって」
ああ、なんだ。
ようやく腑に落ちる。
代わりか。その肉を本来食べるはずだった人の。
おおかた、忙しくて来られなかったその人が、そうだ大和呼んであげなよ、ユキこの前は野菜しか出さなかったんでしょ? きっと喜ぶよ……なんて仕向けて、相方にばっかり素直なこの人は、そうだね、と俺にラビチャした。……振られた、なんて色恋めかした言い方は、俺じゃなく、その人に向けられているんだろう。
「やっぱ言うこと聞かされてます」
「そう。芸能界だからね」
はぁっ。これ見よがしにため息をついても、キッチンに立つ端正な美貌は崩れない。がさがさと取り出した大きな肉を前に、その人は仁王立ちして動かない。何だよ、と目を細めると、切るの手伝って、とキッチンに呼ばれる。
ワインの瓶は、コルクを抜けないまま、テーブルに置き去る。手を離すと、じわりと、体温が戻ってきた。さっきまで冷たかった手は、すぐに俺の温度に戻ってしまう。
渡された黒いエプロンを、普段は誰が着ているのか、この人たちの衣装の色分けのことは考えないようにした。

*

意外に厚い唇が、肉汁のソースにすこし汚れて、光っている。
うまいですね、とか、グラス空いてます、とか、アルコールを入れても通り一遍のことしか言わない唇は、どうすれば僕に本音を晒すんだろう。さっきはちょっと、本音っぽかったのに。
「男の子って感じだよね、お肉食べてると。百は濃くてしょっぱいのが好きだけど、アイナナの子たちは、甘い味が好きかな」
「……辛いの好きな奴もいますね」
「ああ、壮五くん」
「ミツのケーキは喜んで食ってましたよ、アーモンドのパウンドケーキ。甘さが抑えてあって」
「そう」
メンバーの話は、やっぱりよく喋るな。僕もモモの話ばかりするとナギくんに言われた。
「続けて」
促すと、大和くんは何か困ったように、ステーキにナイフを入れた。柔らかく焼かれた肉が、内側の赤いところを、ぺろんと露わにする。
「……あ、それで、……丸いケーキの7等分はできないんで、パウンドケーキなら切り分けやすいよなって話になって。リクが切り分けたんですけど、斜めに切れちゃって」
「うん」
「イチの機転で、さらに細かく分けてつまんだんで、タマとナギが食べた気がしないとかゴネだして……」
「へえ」
「それで、……あの、……面白いですか」
「うん」
「……まあ、ミツがそのあと折れて、つーかなんか火ついたみたいで、10本ケーキ焼くって言い出して。食材量るのとか全員駆り出されたんですよ。あ、リクは牛乳の担当で、粉系は気管に悪いんで」
「大和くんは?」
「俺は、生地ずっと混ぜさせられました。イチの指導で。そしたらミツのケーキより、焼き上がりがちょっと重たくなっちゃって。なんか俺みたいだなって、これはどうでもいいんですけど……あ、えと、千さんは、最近なんか、うまいもんとか食いましたか」
「モモとバーガーショップに行った」
「ええ? 肉食えないですよね」
「そう。肉抜き、魚抜き。モモは、僕の顔の2倍くらいあるハンバーガーを、両頬一杯に詰め込んで食べてた」
「はは、さすが」
笑って、フォークを刺した肉を、大和くんは口元に運ぶ前に、宙にとどめた。
「……ああ。肉食べてると、男の子、ね」
それから、押し込むみたいにして、肉を口に運ぶ。
……なんの話?
大和くんの視線が、皿だけに注がれる。さっきは、僕の方を見て話していたのに。
「今の、相槌?」
「気にしないでいいですよ。百さんの話、どうぞ」
「嫌だったなら言えばいい」
「嫌じゃないです。あんたもメンバーの話聞きたがったでしょ」
「メンバーの話じゃないと、あまり喋ってくれないでしょ」
大和くんが何を言いたがっているのか分からない。苛立ちが口調に混ざった。落ち着けようと、ワイングラスを手に取って揺らす。空気を含んで味の変わる赤ワインは、長く食卓に居させる理由になると思った。
大和くんが、また一口、肉を口に押し込んで咀嚼する。柔らかい上等な肉は、それなりの甘い匂いがした。
「……あんたは、愛人とは、こういう接し方をするんだな」
愛人。
……誰が。グラスを揺らす手が止まっても、水面はまだ揺れていた。
大和くんには、僕には別に本妻がいて、僕が彼を愛人扱いしているように見えている。
だから、警戒したような口ぶりで、いちいち僕の機嫌を伺うようなことを言うのか。
「……素直にならせるのって難しいよね。舌でも入れて、全部分かれば楽なのに」
「今ニンニク食ったんで無理です」
大和くんがナイフを置く。最後の一口を含んだ口に、グラスのワインを流し込んだ。
なみなみと揺れる液体を飲み下して、フォークも置いた。
「ごちそうさまでした」
カトラリーレストに置かれたナイフとフォークの尖った先端は、右向きに揃っていた。どうしてか、向かいの僕を向いていない。
「……育ちがいいよね」
「おちょくってんのか」
尖ったようなことを言いながら、それでもやさしくしてしまうところは、昔と変わらない。熱中症を気遣って飲み物をくれたとき、君は僕を嫌いだと隠しもしなかったのに、渡されたスポーツドリンクはよく冷えていた。冷蔵庫から、玄関先までわざわざ持ってきたやさしさを、やさしさだと気付かれないように、いちいちつっけんどんに振る舞って。今だって、思ってもいないことを言う。いたいけな十八歳の君が、二十二歳の君の中から顔を出す。
横向きに置かれたフォークに、なにか優しい言葉を返したくなった。
「愛人だなんて思ってないよ」
「僕を好きなんだよねとか言って、外堀埋めといて、よく言えますね。手出した男を、都合よく呼びつけて。その気じゃないわけあるかよ」
「……下心はあったけどね。君も、下心があるから来たんだろ」
大和くんは、黙り込んで、立ち上がった。食器を下げようとキッチンに歩く背中に、ついていく。
口で言いたくない子に、口で言わせようとしたから、愛人どうこうって話になった……ような気がする、さっきのは。
難しいな。
「体に訊こうかな」
シンクの脇に食器を置いて、大和くんがキッチンペーパーを取った。残ったソースを拭う手に、後ろから、手を重ねてみる。
茶色く汚れた手を。
大和くんの唇に当てた。
「耳も、舌も、弱いんだっけ。粘膜が苦手なのかな。おへそとか、弱そうだよね」
大和くんは唇を開かず、なおも食器を拭っている。裾から、もう片方の手を滑り込ませた。なだらかに育った腹筋が、温く体温を発している。
弱そうだ、とたった今あげつらった場所に、指先を差し込む。
「湿ってる。暑い?」
「っ、ばか、汚っ……そんなとこ触んな!」
「まあ、僕も触りたくはないよね」
「じゃあなんで弄ってんだよ! 頼むから今すぐ手洗って……早く……」
やけに弱々しく懇願するのは、本当におへそが弱いからかな。訊ねてみたかった言葉の代わりに、耳元に唇を寄せ、息を吐きつける。
「ねえ、僕に好かれたい?」
「っ、……!」
「くさいのも、汚いのも、知られたくない。僕に、僕が嫌がるようなことを、したくない。押し倒して、してほしいって言うくせに、したいとは言わないんだね。何にそんなに怯えてるの」
背中から腕を回して、肩に顎を乗せてみれば、シンクの上で作られた握りこぶしが、かすかにゆるんだ。
「下心、しようか」
小さなため息。
「君に気持ちよくなって欲しい。本心だよ」
見上げると、唇が少し開いた。
気まずそうに頬を赤らめて、悔しそうに眉を歪ませて、大和くんが僕を見返す。
どうすれば信じてくれるんだろう。大和くんの手に、手を重ねてみる。
「僕を好きにしていいよ」
小さな舌打ちの音が耳元で聞こえたけど、それは不正解の合図だったのか、正解の印だったのか。
「……とりあえず、シャワー」
「うん」
わからないけど、たぶん、僕の望みは叶うらしい。

*

「勝負下着?」
余計なことばかりのたまう唇が、やたらと甲斐甲斐しく服を脱がせながら、からかいを口にする。シャツのボタンを一つ一つ外して、ベルトのバックルに手をかけて、タックボタンを外す前に、少し緩い腰をずり下げて。下に覗いた、ボクサーパンツのブランドのロゴを撫でて見せる。一つ一つの仕草が、ままごとみたいに、現実味がない。
沈黙してにやつかれるのも癪に触るし、否定したらしたで喜ばれそうだ。適当にはぐらかして、話を広げられるのも面倒だし……。
ほんと、何でこんな人のこと、俺は……。
「この前来たときも、着てましたよ。勝負下着」
「……こういうの好きなんだ」
「……あんたが好きかと思って」
「えっ、本当?」
「どうでしょうね」
洗面所のやたら大きな鏡に、体を寄せた俺とその人が映っていた。薄い背中に、さらりと髪が落ちて、揺れている。細い腰はニットとスキニーに覆われ、小さすぎる尻が、スキニーの布を持て余して弛ませていた。
「僕にも着て欲しい?」
「別に」
鏡越しの視線に気づいたかのように問われる。
「して欲しいって、別に、こういうことじゃないんで」
何となく、背中に揺れる髪に触れたくて、腕を回す。鏡の中の俺も同じように動いた。千さんの髪は、細く、柔らかかった。
千さんの指が、胸に沿わされ、肩にかかって、ゆっくりとシャツを脱がせていく。こういうしぐさを、女にされたことがあるんだろう。ベッドシーンで、あるいは、プライベートで。あの相方の人は、もっとあっさり脱がせそうだ。案外、いやらしく、一枚ずつじっくり脱がすのかもしれない。
「……早くしませんか」
「どうして?」
「……ゆっくりしなくてもいいでしょ」
「本当のことを言うのは怖い?」
のらりくらりと手を替えて質問され、舌打ちが漏れる。
「……るせえな……」
千さんは、なんでもないことみたいに微笑みながら、俺の腕から抜いたシャツを、床に落とした。
「口で言うことより、やることのほうが、わかりやすいな」
片手で、タックボタンを外され、ジッパーを下ろされる。
「いい服を着て来る。食べたいとか、飲みたいとかは言わないのに、食事は全て平らげる。先端恐怖症の人に、ナイフを向けない。皿を自分で片付ける」
するりと、また、白い手が割り込んだ。MとKが連なった、下着の腰の絞りに、爪の先が滑り込む。
生の肌が触れ合う。
あの夜みたいに冷たい指先。その指先がぬるむまで、掴んで、しごいてもらった。
思わず、喉が鳴った。まずい、きっと聞こえてしまった。
「なんて言うのかな。丁寧?」
千さんは、いつも退屈そうに降りている瞼の奥から、興味深そうに俺の目を見た。
やさしげで、紳士的で、それなのにどこか人を食ったような、これから食われたい気持ちにさせられる……多分、魔性の、そういう微笑。
下心、なんて、こんな目をして言われたら。どうかしてくださいと、跪かずにいられない。
千さんの唇が動く。鏡に背を向けて、俺だけに見える場所で。
「嫌いじゃないよ」
千さんの指が、下着の中で、俺の反応を探し当てた。もう形を持ってしまったその場所を、隠すこともできず、ため息をつく。
「……だから嫌だったんだよ……あんたのことなんか、今さら、どうこう思いたくない」
「僕は、どうこう、思ってるよ」
ぐっと、千さんの指先が、下着のゴムを伸ばす。脱がさずに、その中に濡れて反り上がるものを見下ろしてから、千さんは呟いた。
「脱がせていいよね」
「……好きにしろよ……」
「うん」
嬉しそうにすんな。むかついて千さんのニットに手をかける。裾を引っ張り上げると、ムカつく微笑は見えなくなった。強引に脱がせた、その下に隠れていた色素の薄い乳首が目に入る。
人のことばかり暴き立てて、言い当てるばかりの飄々とした男の、暴いてやりたい血潮の熱が、この皮のすぐ下にある。
ため息がこぼれた。千さんは、乱れた髪を耳にかけてから、俺の手首を掴む。
自分のスキニーのボタンに手を導いて、俺の手のひらを、そこに押し当てさせた。
「君の欲しいものを、知ってる気がしたり。君が欲しいかも分からないのに、あげてみたくなったりする……」
膨らんだ場所。千さんの体の、いちばん熱い場所。
僕をあげると言ってくれないくせに、欲しいものをあげてみたいなんて言う言い方に、ムカつくはずなのに、口の中が唾液に濡れた。
期待をさせる、ずるい言い方を、信じられないと拒みたいのに。手の下の熱が、欲しい。
「なんでだと思う?」
「からかってるんでしょ」
「うん。君の反応が見たい」
「……脱がせながらする話かよ」
「脱がせる前のほうがよかったかな」
千さんの唇は、もういいだろ、とでも言うように、首筋に押し当てられた。体が、言い訳を見つけて、勝手に安らいだ。
耳のすぐそばで囁く、何もかも上手みたいな顔をした男に、もう、あらがいたくない。
「おへその中まで洗ってあげる」
下着も、靴下までも脱がされて、裸で立たされる。千さんは、目の前で、自分で服を脱いでいた。
浴室に歩いていく背中に、つられて、浴室へ入る。蛇口を捻ってシャワーを出す、そのしぐさをぼうっと見ながら、浴槽の縁に腰を預けた。千さんの肌がお湯を弾いて、泡を纏っていくところを、何を見るでもなく眺める。
「明日はオフ?」
「仕事です」
「僕も。オフならよかったのにね」
「誘い方、露骨じゃないですか」
「そうだね。やりたい」
「……直球かよ」
「僕はそういうの、ぐっとくるんだけど……」
「そうですか」
千さんがさっき触れたポンプに手を伸ばし、押すと、透明な液体が手のひらに出た。触れて中身をあばいてみれば、どろりと重たく粘っているくせに、そうは見えない、綺麗に透き通った石鹸液を、ずるい、と思ったような気がする。
手のひらに泡立てながら、呟く。
「俺もです」
唇が温い物体に覆われた。
妙にこなれた舌が、うかがいも立てずに割り込んでくることに、苛立ったほうがいいのかもしれないけど。
俺らしい反応なんてどうでもよかった。
この人が欲しくて、この人に欲されている、それ以上の事実はここには見つかりそうにない。
「んっ、ふ……ぅン、ゆ、きさん、まってっ」
腕で押すと、あっけなく体が離れる。自分から押しのけておいて、さびしかった。
見上げると、千さんは、ぼうっと立ち尽くしていた。頬を赤らめて、少し首を傾げて。次に何をしたらいいのか、恋した教師への、告白の返事を待つ、卒業式の少女のように。
君は僕を好きになってくれる? 念を押して尋ねられた気がした。
すぼめた唇に、欲望を押し込んで、あんたがそんな顔してるから悪いんだって、わからせてやりたい。ささやかで身勝手な願いが、からだの中で渦巻いている。
吐息すると、やけに熱い空気が押し出され、唇はわなないていた。ついさっき舐め尽くされた舌は、自分のものじゃないみたいに、なめらかに動く。
「舐めて……いいですか」
「え……別に、無理にしなくていいけど」
「……したくて……」
千さんが、息をのんだ。
「あのとき、俺の、ちょっと舐めたでしょ」
「……そうね」
「されっぱなしじゃ、なんか、マウント取られそうなんで」
唇の端を、舌が舐める。自分のものじゃないみたいに浮かれてよく回る舌が、俺が決める前に、俺の言葉を告げてしまう。
気がはやっていた。浴室の湯気にあてられたのかもしれない。
この先で、欲しい物が待っている予感に、胸がうずいた。
「口でイカせてやりてえなと」
湯気の向こうで、千さんの瞳が、すこし見開かれる。
「ええ……?」
焦ったような上擦った声。
「いいよ……、汚いでしょ」
汚いのを知られたくないのは、好かれたいからかと尋ねた口が。
「あんた、俺に……」
同じことを言って見せたのは、迂闊か、狡猾か。
たぶんそのどれでもないと、千さんの顔を見て気づき。
全く同じ赤さに、自分の顔も赤らむのを悟る。
「もういいです、黙ってて」
濡れた浴室に膝をついて、乱暴に、すこし硬くそり立つものを口に含む。
千さんの吐息が頭の上で漏れるたび。
腹の底が重たく濡れた。足の裏が浮き立って、頭の奥が沸騰した。
「……っ、は……」
千さんの声が降ってくる。
……あんたも、俺を、好きなんですか。

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